夢の名残を / 5





夜が更けるにつれ、雨は一層激しくなった。
激しい稲光と、それに続く雷鳴。

二、三度落雷の音で目を覚まして、それから。
目を閉じたまま、何度も寝返りをうったところで無駄だった。
徐々に遠ざかる雨音に気付いたのは夜が明けてすぐのことで、
障子を開ければすぐに、たちこめた湿った空気が体にまとわりついてくる。
眠った記憶もあるかなきかの冴えきった頭を抱えたまま、
斎藤は自室から広間に向かった。

途中、うなだれた平助が生あくびをこぼしながら
廊下を渡ってくるのが見えた。足を止めると、
心なしか蒼ざめた顔でこちらに笑いかける。


「すごかったなー、昨夜の。一くん眠れた?」


きっと自分も似たような容貌をしているのだろう。
苦笑いで「いや」と答える。


「だよなー。おれでも目え覚めたもん。っていうかさ、」


とたん、平助の顔色が曇った。


「いや、ばかみてえ、って自分でも思うんだけど。
……なんかさ、やだよな。こういうの」


ぽつりとこぼした言葉の、意味ははっきり言われずともよくわかる。
不吉だ、などと根拠のない考えにとらわれるのは愚かなことだ。
それは自身身にしみて知っていて――あのおかしな夢で慣れてはいるが――
けれども、同じだけ振り切ることが難しいのもわかっている。
返事はしないままでいると、平助の後ろから、神妙な顔の山崎がやって来た。


「……あの」
「どうした」
「いえ、昨夜の雨があまりに激しかったので」
「……ああ。酷かったな」
「それでその……捜索に出ようかと」
「捜索?」


裏返りかけた平助の声にいえあの、と何度か口ごもり、
山崎は言いにくそうに口を開いた。



「……ここから一番近い山で、道が崩れたらしいとさっき、行商の方から」
「それは」
「人が巻き込まれたなどは聞いていませんし、万が一の可能性です。
まだこちらに、近づいてもいないかもしれませんし」
「でも、それって」


平助が息を詰めるのがわかった。ただ視線を交わして、黙る。



肺を満たすのは上がったばかりの、雨の名残の湿った空気だ。息苦しい。
逃れるように何度も口を開きかけては閉じて、続く言葉を探すけれど。


と、そのときじゃり、と、中庭で湿った土を踏みしめる音がした。





「――盛り上がってるとこ悪いんだけどさ」





一瞬、なにが耳に届いたのかすらわからなかった。

人の声。これは。
ゆっくりと振り返る。



「戻ったよ。……って、なにみんなしてそんな、幽霊見るみたいな顔で」
「総司……!」
「うわ、総司!!なにしてたんだよお前!!」


なにを、ってさ、と、小首を傾げて頭を掻いている総司は、
のんきな顔で中庭に立ったままだ。その後ろから、
息も絶え絶えの声が徐々に大きく近づいて来る。


「……おい、総司っ、走るな……!」
「局長!」
「ただ今、戻りました」
「島田さん…!」


よろよろと中庭に入ってきた近藤は、
膝に手をつき肩で何度か息をして、それから笑顔で顔を上げた。


「今戻った」


遅くなってすまなかったな、と、眉尻を下げ、安心したように息をつく。


「いえ、とんでもない……!すぐに、副長に報告を」


山崎は慌てた様子で背を向け、急いたその足音は次第に遠ざかっていく。


「それにしても。もう近藤さん、だらしないですよ」
「こっちはいい歳なのだ、少しは気遣わんか……!」


知りませんよ、と腕を頭のうしろで組んで楽しそうに総司は笑う。
まるで朝稽古の帰りのようなその姿は、出て行く前となにひとつ変わらない。
どうしていいかもわからないまま、茫然と斎藤はそれを眺める。瞬きを繰り返していると、
ほんの一瞬だけ、総司と視線がかちりと合った。


「戻ったか、近藤さん!」


と、ばたばたと忙しい足音に続く土方の声。はっと顔を上げる。
後ろから続いてくるのは原田に永倉で、
取り囲まれた近藤はまた、白い歯を見せて大きく笑った。

朝陽の差す中庭は急に明るく照らされ始め、そのまぶしさに斎藤は目を伏せる。

















「大変だったんだからさ、ほんとに」


まずは汗を流せと風呂を沸かして順に押し込み、
それから広間に移った面々は、朝餉もそこそこに戻ったばかりの三人を取り囲んだ。
朝餉のはずが、ほぼ宴会の様相だ。今日くらいはといかにも仕方なさそうな顔をしている土方も、
なによりほっとした顔で近藤の隣を陣取っていた。



「総司にも島田くんにも、世話をかけたな。
いや、懐かしさに長居をしたのがそもそもいけなかったんだが。
……まさか山道が崩れるとは思わなくてな」

「でもよ、それにしちゃすぐだったよな。
今朝崩れたのに、そんなすぐ直ったのか?」

「ううん、近くのあそこじゃなくて――
――あのものすごい雨雲が、昨日の前に何回か別のとこで大雨降らせててさ。
ここからふたつ前の山が崩れて、それで回り道させられちゃって。反対方向から戻ってきたんだ。
だからこんなに、時間かかっちゃって」

「はー、ならいいんだけどよぉ。てっきりどっかで物騒な目に遭ってんじゃねえかとか、
いろいろ考えちまって気が気じゃなかったんだぜ、こっちは」

「……その割には新八っつぁん、酒が進んでたよな」

「それはあれだよお前、心配で寝酒が必要だった、っつう」

「そうだよなあ。そりゃもう心配が過ぎて、上物の寝酒が要ったんだよなあ。なあ新八」

「左之!!」




言うなよ!という新八の声に全員が声を上げて笑う。
傍らで湯呑を手にしながら、斎藤はどこか遠くに思えるその光景を眺めていた。

脅迫状の件も解決したと聞いてからは、近藤も総司もまた一段と明るい声で笑うようになった。
昔のようだ、と思う。試衛館の、あのころの。
きっとここにいる全員が同じことを思っているのだろう。そう思えるほど、
今のこの光景は、透かし紙を重ねたように懐かしい昔のそれとよく似ていた。過ぎてしまったあの時間と。

まるきり変わらぬものなどないと皆知ってしまった今だからこそ、
余計に惜しみたくなるのだろう。土産話を代わる代わるに問いながら、
まだしばらく、早朝からの小さな宴会は納まりそうな気配はなかった。その中で。
同じように笑い合おうとしてみても、なぜか口の端が強張った。
近藤に話しかける総司の横顔をちらりと眺めて、
目が合いそうになる寸前で逸らす。
その先の、皆の湯呑が空なことに気が付いて、斎藤は盆を手にすると
音を立てぬようそっと立ち上がった。

輪の中心からこちらに向けて注がれる、刺すような総司の目から逃げるために。
















皆に気づかれぬよう広間を出れば、外のがらんとした静けさが急に身に迫った。
同時に部屋の熱気から解放され、ようやく思考が鮮明になる。ふう、と大きく息をついて、
なんだこれは、とぼんやり思った。
安心したはずだろう。全員無事に帰ってきて、何も、問題はない。何も。


ならばどうして、このようにまだ気がふさぐ。


ただ早く戻って来いと、そればかりを願っていたはずだというのに。
叶ったところで一向に晴れぬ気持ちのやり場がどこにもない。皆の輪の中で笑う総司を見ていれば尚更、
雨雲のように黒々としたこの感情の正体を、見出してはいけないような気になった。このまま。
はっきりさせなどしないほうが。
唇を噛んで、足を踏み出す。
すると背後でまた、ひっそりと扉の開く音がした。



「一くん」


ばく、と鼓動が大きく鳴る。
それに気づかぬふりで振り返った。


「……総司」
「どこ行くの」
「茶を、」
「いいよ、そんなの」
「……いや」


しかし、と総司に背を向けて、斎藤は土間へ向かおうとする。
すると肩越しに、はあ、と大きなため息が聞こえてきた。



「あのさ。なに怒ってるの」



言われて、小さく息を呑む。


「……怒ってなど」
「うそ。さっきから――帰ってきてからずっと、おかしいよ一くん。
うまく隠してるからみんな気づいてないだけでさ。
……ひと言もしゃべってくれないし。目も合わせないし」
「気のせいだろう」
「そんなことない」
「……違う」
「もう、なんでそう」
「違うと言っているだろう!」


声を張り上げてから、口元を押さえてひとり目を見開く。
荒くつく息の隙間からこぼれるのはたしかに、暗い怒りのかけらだった。
このまま紛れて消えてしまえと思っていた感情の、
その輪郭を縁取ったのが、当の総司の言葉だとは。


「……っ、もういい」
「よくない」


逃げるように足を踏み出そうとした、その肩を掴まれる。


「よくない。ちゃんと言ってよ」
「……それは」


問い詰めようとする総司から、必死で顔を逸らす。
言えるわけがない。ふつふつと湧くこの感情について。




見苦しい、とわかってはいる。
皆と楽しげに笑い合っている姿を目にしながら、頭のどこかで、
人の気も知らぬままでと思っていた。
きっと言葉を交わせば知れてしまう。こみ上げるごく小さな怒りの火の尾は生まれてすぐにひゅるりと冷えて、
胃の腑の底がすうとうすら寒く変わる。これは総司と最後に会った晩の、あのときとよく似ていて。

気付いてほしいなどと、寂しいなどと――なにを期待しているのか。馬鹿らしい。



けれど掴まれた肩を振り解けないまま、ただ息を詰める。
と、絞り出すような総司の声が耳に届いた。



「……左之さんに、今聞いて」



さっきまで笑っていたとは思えないほど、静かな口調。



「一くんがずっと、夕方になると門で待ってたって。
昔のお前みたいだった、って、……苦笑いしながら言ってたけど、でも」



それって、と、続く言葉は背後でがらりと開かれた、扉の音にかき消される。



「総司!近藤さんが急ぎで呼んで――」



ひょいと顔を出した平助は笑顔のまま一瞬固まって、小さく「?」と首を傾げる。



「どうかしたのか?」
「や、なんでもない。……すぐ行くから」



そっか、とまた、気配は扉の向こうへ消えていく。
今ならと、肩に置かれたままの総司の手を
振り切ろうとしたそのときだった。
強い力で、その下の腕を引かれる。


「っ、や、め――」


無理やりに振り向かせられて、すぐに視界が暗く翳った。
覆い被さってくる総司の影。息もふれそうな距離に近づくそれは唇に触れてくるのかと、
とっさに目を閉じかける。


「っ、」


と、さらりと総司の髪が頬を撫でた。

重ねられるのかと思った唇はごく軽く頬に触れて、
見開いた目に映る、総司の体は風が通り抜けるがごとくに遠ざかっていく。


(――なに、を)


何も言わぬままの、総司の視線は前髪に遮られていてわからない。
するりと背を向けて広間に戻っていく後ろ姿をただ見送りながら、
一瞬で上がった息に胸を押さえる。なにかの仕掛けのように心臓がばくばくと
大きく耳元で鳴り始めた。


身を案じていた、あのころとはまた違う息苦しさ。苦しい、けれど
胸を締め付けるものはどこか甘い。それから。


頭が勝手に何度も反芻し始める、一瞬の総司の気配。
触れて離れたかすめるような体温と、首筋を撫でた総司の吐息と。
いっそ思いきり抱きしめられていたのならこうはならなかったはずだ。
なにを柄にもなく、遠慮を見せるようなことを――眉を寄せたままそう思いながら、指先がじんと痺れる。
それはじわじわと、乾ききっていた紙が水を吸うように全身に広がり出した。
まるで体が思い出そうとしているように。もうずいぶんと触れていない、
でもずっと待ち焦がれていたもの。


頬が燃えるように熱くなる。とたんに、足りないと、触れたいと思うのと同じ位、
総司と顔を合わせるのが急ににおそろしくなった。
きっとあの碧の目を正面から見ることはもうできず、
けれどそれも、こんな顔を見せるくらいならばそのほうがいい。


熱のおさまらない頬を、手の甲で覆ったまま思う。


手に余る。同じ相手への、こんな二度目の感情は。












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