宵明け雨






さらさらと、砂のこぼれる音に目を覚ました。

何度か瞬きをして、肌にまとわりつく水気を含んだ空気に
それは雨の音だったのだと知る。
まだ焦点の合わない目に映ったのは天井ではなく、
薄闇に淡く光る障子戸。その隙間から届く、かすかな水と土の匂い。

「おはよ」

頭の上から低くかすれた声が響く。肌に張り付いていたのは湿った空気だけではなかった。
声の主の両腕はしっかりと腰に巻き付けられている。
触れた背中には息をするたび上下する胸板の動きまでが伝わって、
わずかに身じろぎしたところで腕が離される気配はない。
体を起こすのは諦め、斎藤は目だけで部屋の中を見渡した。

どうやら、ここは総司の部屋のようだ。一面、白んだ紺色に染められて、
夜明けからまだ間もない時刻なのだろうと思われた。
次に目に入ったのは、二人分の体の下にある、
臙脂の着物と畳の目。――なんだ、これは。
布団さえ敷かれていた様子もないこの状態は、
ただの雑魚寝だとしてもおかしくはないので、まだいいとしても。
相変わらず離れようとしない背中の裸の体温と、
かろうじて腰回りに引っかかっている襦袢一枚のこの姿――
――に、上掛け代わりにされている自分の着物。

なにがあった、と訊くまでもない。

「総司」
「ん?」
「その、……昨夜は」
「ああ、うん、そういうこと」
「……」

さらりと返されて黙り込む。

皆で夕餉の後に呑んでいたのは覚えている。
原田の持ってきた酒がやけに上物で、皆で競うようにして盃を空けていたことも。
屯所の中ならば帰り道のことを気に掛ける必要もない。皆無意識にそう思うのか、
止める者は誰もおらず、全員が普段の倍近くは呑んでいた。自分自身に関しても、
賑やかな席よりも穏やかに呑める場所のほうが、なぜか酒量は増えるような――と、
自覚はあったはずだというのに。

酒の勢いで肌を合わせたのは初めてではない。ゆえに後悔するというよりは、
ああまたなのかと、自堕落な自分にため息をつく程度のことだ。
ただ、ここまで記憶がないのは。

だから正直、ゆうべのことだけど、と総司に切り出されたときにはわずかにぎくりとした。
なにを聞かされるのかと思いきや逆に、「おぼえてることある?」と尋ねられる。

「……ない」
「だろうね」

くすくすと、背に触れている肩が揺れる。

「……総司」
「なに?」
「……もういいだろう。離せ」
「えー」
「おい」
「やだ」
「いい加減にしろ」

険を込めた声にも総司は一切たじろがない。
むしろ返される、腕の力は強くなる。

「……ああいうのも悪くないけど。やっぱりこっちのが落ち着くなぁ」
「なんの話だ」
「いや、冷たくされるのもいいもんだなって」
「……気でもふれたか」
「はは、もっと言って」
「なんなのだ一体…!」

こちらが歯噛みすればするほど。総司は嬉々として、顎を頭に擦り付けてくる。
それに眉をしかめたところで気づくはずもない。さらにもったいぶった声は続く。

「だって昨日の一くんすごかったんだから」
「何がだ」
「また僕が連れ込んだと思ってるんでしょ」
「……違うのか」
「僕の部屋までついてきて、入れろって言ったのは一くんの方だよ。
だから僕は、とっても仕方なくお相手させていただいただけ」
「な」
「皆の前でもすごいこと言うしどうしようかと……おっと」

得意気に言う総司の脇腹に肘を入れようとしたところで、
器用に体をひねって避ける。――くそ、どうしてこうも小憎らしい。

「出鱈目を言うな」
「ひどいなー。本当なのに」
「――どこにそのような証拠が……!」

と、言ったとたんに巻きついていた総司の腕がするりと緩んだ。
やはり。

逃げようとするからには出鱈目なのだろう、よくも好き勝手言ったものだと
睨みつけるつもりで斎藤は振り返る。ばれちゃったらしょうがないね、と、
悪びれもせず言う総司の様子を思い浮かべて。

けれど怒りを込めた眼差しを突きつけようとしたところで、
総司は畳に肘をつき、余裕綽々といった顔で寝そべっている。
そのままゆっくりと微笑んだ。
眉と一緒に、ほら、と、羽織った襦袢の襟を持ち上げて。

「はいこれ全部一くん作ー」


その胸元には、深い赤の吸い跡が点々と。


十に近いほどの数のそれに、斎藤は息を呑む。



「もっと、首にも腰にもあるんだけど。見る?」
「な……っ!!」
「あとねえ」
「……………………」
「こっちにも――って、ずるいなあもう」

聞かなかったことにして、くるりと背を向けようとする斎藤の肩を総司の腕がひきとめる。
視線までとらえられる寸前、精一杯目を逸らして絞り出したのはきれぎれの声。

「…………知らん」
「耳赤いよ」
「うるさい!」

このまま立ち上がって、部屋からも出て行けば――と、
そう思ったことなどとうの昔に悟られていた。
床に腕をつき立てようとしたその瞬間、
またもしっかと総司の腕が、起こしかけた体に巻きつけられる。

「――っ!」

元通り背後から抱きしめられ、横倒しの体勢に戻されて、ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら
ただ畳の目を睨むしかない。
嘲笑うように、わざとらしさに満ちた呑気な声が耳元から。

「ねえ相談なんだけど」
「……」
「これからどうしたらいいと思う?
ひとつふたつなら虫刺されとかぶつけたとかでなんとかなるけど、これだけたくさんあるとなー」
「……!」
「これからだんだん暑くなるし、稽古の間も動くし、
見えちゃったときの言い訳とかも考えないといけないかなって」
「……っ……!!」
「おちおち皆と着替えも湯浴みもできないしさ。
それに松本先生がまたいきなり来て脱げとか言ったら、僕もう黙ってられる自信がなくって」
「ああもういい加減にしろ!!」

全力で腕をふりほどき、がばりと振り返る。
ふざけたことばかり言う目の前の男を
殺気をみなぎらせて睨み上げてはみてもしかし。
迎えうつ総司の様子は、先程までの声色となにひとつ変わらないままだ。
斜めに顔を上げたままじっと続きを待っている、その余裕の表情に、
やはりどうしても目に入るのは胸元に散る赤い跡。
自分がつけたなどとはまだ信じられない上に、とても信じたくはない。
無意識に唇を噛む。意気込んでいた調子を崩されて、ついつい目を泳がせた。

「っそ、……それを、俺、が……というのは」
「うんそう」
「……っこの……」
「うん、それで?」

にこにこと、絵に描いたような総司の笑顔に思わず刀を探す。
が、ここで腹を立てればさらに向こうの思うつぼだ。
目を閉じ、眉を寄せたまま何度か大きく深呼吸をする。劣勢のときこそ冷静にならなければ。
何度も言い聞かせ気を落ち着けると、目の前の総司の顔を正面からしっかと見据えた。

もう一度、深く息をついて口を開く。

「もういい」
「?」
「俺は昨夜あんたと――……あんたに一体なにをした」
「え」
「全部言え。今すぐ言え」
「……ごめんそんな、昨夜はこんなにやらしかったよとか言って欲しいほうだったなんて知らなくて僕」
「違う!!」

はあ、とため息とともに額を押さえる。

「ことあるごとに小出しにされて、
いつまでも笑われるなど御免だからな…!いいから言え」
「一くんはもう……どうしてそんなに無駄に男らしいのかな……」
「無駄とはなんだ!」
「はいはいわかったよ、しょうがないなあ」

そんなにご所望なら、と頭を掻いて、総司は呆れたふうにため息をついた。
息を詰めて、口を開くのを待ちながら。斎藤は何度も自分に言い聞かせる。
戯れに引き回されるくらいならば、ひと息に斬られるのが武士というもの。

昨夜の所業を聞いたところで、そうか迷惑をかけたならすまなかったと
一度きっぱり言えばそれで済むことだ。少なくとも、なにをどこで暴露されるか
冷や冷やしながら過ごすことはしなくてすむ。
その代わり、ここで茶化したら承知せぬ、と、眉間に力を入れてがちりと総司の目をとらえる。

「……えっとね」
「うむ」
「……僕の部屋までついてきて、酔ってるでしょって言ってもきかなくって」
「………」
「しょうがないから部屋に入れたら、一くんの方から僕の帯解きにきて――」


そこまででぷつりと言葉は途切れた。

唾を飲み込み斎藤はしばらくその続きを待つが、返事はなにも。


「……どうした」
「ちょっともう、なにこれ」


唇をとがらせて、あーあ、とふてくされたように
総司は視線を斜め下に落とす。

「思い出させられて言わされてさ、なんかこれって僕のほうが……――とにかく、
また酔って誰かにあんなことしたらどうしようって、心配になるようなことをいろいろ」
「っ、あんた以外と、このようなことをするわけが」

馬鹿にするな、と、噛みつくように反射で声を上げる。
そのような、酔えば誰彼かまわずついていくかのような物言いを――と、
眉を吊り上げたところで。気づけばとたんに目の前の総司の顔色が変わった。

みるみるうちに、見たこともないほど赤く。

「……総司?」
「……もう……!」

そのごく稀な表情を、目にできたのはほんの一瞬。
赤い頬のまま怒ったように困ったように、眉を寄せたと思えばすぐに、
視界はがばりと正面から総司の胸に抱え込まれる。先程までとは比べ物にならないほどの強い力。
そのまま覆い被さられて、畳に背を押しつけられる。


「な、総…!」
「一くんのばか」
「……おい」
「何したかなんて絶対教えてあげない」
「総司!」


顔色はもうわからない、けれど鼓動の早鐘は直接耳の奥に響いてくる。
回された腕までがやけに熱いような気がして、それ以上の抗議の声を
仕方なく飲み込んだ。代わりにまあ許してやる、と心中でつぶやく。
「あの時あんたも言えなかっただろう」と言えばきっと、
この先昨夜のことを引き合いに出されたところで、黙らせることはできるはずだ。
安心とまではいかないが、妥協できる程度には気が済んで
総司の肩口に顔を埋めたまま斎藤は小さくほっと息をつく。
けれどどこまでも、ぽこりと泡のように胸の内に浮かぶのは。――昨夜俺は、一体何を。


隠されれば隠されるほど気にはなる。必死で霞がかった記憶をたぐり寄せるけれど、
とくとくと耳元で鳴る規則的な音がそれを邪魔した。やはり思い出すことはできず、
もやのかかった気持ちをただひたすらに持て余す。
それならせめて、借りを作ったままでいるよりは。

ぴくりともしない総司の腕の中でもがきながら、
斎藤は小さく懸念事項を口にする。


「総司」
「……」
「俺はその、あんたになにか」
「……」
「……迷惑をかけるようなことをしたのなら、すまなかった」
「…………ほんとだよ」
「総司」
「ひどいことされたんだから。慰めてよね」
「っ、な」

ぎゅうと息もできないほどに、腕の力はますます強くなる。
はなせ、と口にした自分の声の頼りなさに驚いて、
そして諦めて目を閉じた。応えるように、総司の頭が首元深くに寄せられる。

熱気を帯びた肌に埋もれてしまえば、薄い膜に隔たれたように
外の世界がふわりと遠く感じられた。
ぼんやりと思考回路が鈍くなる、なにかに似ているこの感覚は。
そこでようやく、あのときこの体温に、ひどく触れたかった気がしたのだと
思い出したような気がしても。

「……っ、おい…!」

まどろみに飲み込まれてしまいそうな意識の端を
背に回された手が引き戻す。
そろそろと、背筋から腰へ下りて行く指先に気づいたときには手遅れだった。

「――っ総……っ、」
「ん?」
「っ、こら何を――もう起きねば」
「え、何か言った?」

雨の音で聞こえないよ。そう笑いながら、総司は抗う斎藤の手首を掴む。
だから慰めてよもうちょっと。
見え透いた嘘も、酔いの端からこぼれたまことも、夜の中なにを思ったのかも。
さらさらとさやかに降る雨は、なにもかもを溶かしこんでまだ降り続く。












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最後までばかっぷるに…!
おつきあいありがとうございました!









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