「おい、大丈夫かよ…」
「……ええ、」
「そうは見えねえけど…」
都内テレビ局内。スタジオの片隅の簡易椅子に腰を下ろすトキヤの姿があった。片手で両のこめかみを押さえるように頭を抱えている。
頭が、痛い。一昨日に引き続き昨夜も、アルコールを多量摂取した所為だろうか。睡眠の為とはいえ、慣れないことはするものではない。自分自身を嘲笑うかのように一度、息を吐いた。
同じ番組に出演が決まっている翔も当然、このスタジオにいた。トキヤの姿を見つけると、駆け寄って声をかけた。昨日の今日だ。心配もする。
「…昨晩は…遅くまですみませんでした」
視線を合わさず、小さくそう漏らした。
「いや、気にすんなあれくらい。……それより、さ、」
――結局、帰ったのか?
何処に、とは言わなかった。それでも充分に伝わった。
「…ホテルに戻りました。…ですが、」
トキヤは顔を上げる。そして力なく微笑んで見せた。
「今日は、帰ろうと思います」
二人で過ごした十年を思い出にしたくはないから。
あの場所で待つと、腹をくくった。
You belong with me. 11
「春歌…今、何て言ったの」
日だまり色が目蓋の向こうに消えて、そして、ゆっくりと戻ってくる。
「トキヤくんに…別れようって、伝えたんです」
夕陽が沈み込もうとする。また今日にも、例外なく夜はやって来るようだ。
キャリーケースを抱えた友千香が帰ってくれば、部屋の奥から足音を立てて春歌がやって来た。切羽詰まったような、そんな様子で友千香の胸に飛び込んだ。支えるようにして肩にやった手から、伝わる小さな震えは怯えた小動物のようで。
ともあれ此処は玄関である。春歌を諭すようにして一先ずリビングまで歩を進め、真っ白いソファーへと腰を下ろさせた。手早くキッチンで紅茶を淹れる。ひとつを春歌の前へ。ミルクたっぷりのあたたかいものだ。もうひとつはシュガー一つのストレート。春歌の隣に、少し間を開けて腰かけると、紅茶を啜った。何が、あったの?横目にそう訊いても返事は、ない。友千香は急かすでもなく、待った。時間が流れてから春歌は口を開いたのだ。その内容に思わず息を呑む。聞き違いではなかった。同じ内容が今一度、欹てた耳を掠めた。
「なん、で…何でそんな事言ったの!」
思わず声が大きくなる。閉口して目線を逸らす春歌の両肩を掴んで、自分の方に向けさせる。
「ねえ…あたし言ったよね?一ノ瀬さんにちゃんと話しなって。頷いてたじゃない…なのに、どうし、て」
俯く顔を覗き込めば、ふるふると震える睫毛の向こうで、今にも涙を溢しそうになっていた。春歌が一度瞬きをする。溜まりきった雫が頬を伝った。
「話、そうと…思いました……でも、やっぱり、駄目…」
声が、震える。気管が狭くなる。上手く言葉が紡げない。
「私が…いることだけでも、リスクは大きいのに……子供となれば、隠し通すなんてとても…。重荷に、なりたくないんです…。邪魔…したくない…。だから、これが、一番いいって…」
トキヤが仕事を大切にしている事を知っている。だからこそ、怖かった。彼が大切にしているものを自分が壊してしまうのではないか。思いはじめたら、止まらない。千千に不安が募って。…ならば。身を引こう。黙ったまま彼の前から消えよう。そして、彼のくれたこの子と何処かでひっそりと暮らそう。
遠くで彼を想おう。
「…それが一番いいって、本気で思ったの?」
春歌は驚いたように目を見開く。視線の先には、揺るがない厳しい眼。それに中てられて身体が震えた。咽が異様に乾く。
「友、ちゃん…?」
「答えて」
「…思い、ました」
腿の上で拳を強く握って、意を決したように友千香を真っ直ぐに見やった。
最善だと思った。彼にスキャンダルなど、あってはならない。社長との約束だってある。それこそ必死に。守りたかった。彼を。
「あんた、一ノ瀬さんの何を見てきたの」
呆れるような溜息の後に続いたのは、辛辣した物言いだった。
「…え?」
「一番なんかじゃない。寧ろ最低だわ。逃げてるだけよ、それ。一ノ瀬さんに気持ち確かめもしない内に独りでそうやって悩んで、抱え込んで…」
「逃げ、てる…?」
驚愕を露わにする自分より小さな身体を友千香は一際優しく、両腕で包み込んだ。
「逃げる必要なんて、ないのよ。あんたどれだけ大事にされてると思ってんの」
背中を擦られて、気が、涙腺が、一気に緩んだ。子供の様に声を上げて泣いた。優しくあやしてくれる手が身に沁みた。
ふいに。慈愛に満ちたように自分を抱きしめるトキヤの胸を、腕を、懐かしく思った。
トキヤにとって、仕事は大切なものだ。夢だった世界に今、立てている。
では、トキヤにとって春歌の存在は?…訊くまでもない。それは友千香も、レンも、翔も、音也も…無論、春歌だって感じていたはずなのだ。
そうだ。彼はいつも、特筆すべきところのない自分を宝物のように、お姫様のように扱ってくれた。大切にしてくれていた。
(大切にされて、きたのに…!)
あろうことかその気持ちを踏みにじってしまった。大切なものを守ろうとするあまり、見失っていた。
「春歌…帰りな、ね?ちゃんと、話してきな」
「……ひっ、く…っ」
「もし万が一、一ノ瀬さんに突き放されるようなことがあったら、いくらでも慰めてあげるから」
もし、万が一、なんてことはないと友千香は確信していた。だから言えた、言葉。
途端に。携帯が震えだす。友千香の物だ。春歌に一言残してソファーから立ち上がる。鞄の中で音を鳴らす携帯を探り出した。通話ボタンを押すと赤い髪に隠れた耳へ。
「……え、ちょっと、落ち着いて……っ!」
春歌から相手の声は聞こえなかったが、何やら様子が、おかしい。思わず友千香の方を見た。目が合う。
何故だろうか。心がざわつく。心臓の音がやけに大きく聞こえる気がする。
「一ノ瀬さん…倒れたって…」
高いところから突き落とされたような浮遊感。同時に、がつんと殴られたような衝撃が頭に走った。
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