目が覚めた。持ち上げた瞼は酷く重い。ぼんやりした視界が徐々に鮮明になっていく。
春歌はひとつ、ため息を吐いた。
『今、すごく窶れてる』
(…嫌)
『それから、泣いていたよ』
(思い出したく、ないのに…!)
ずきん、ずきんと頭痛がする。反復するレンの言葉が、痛い。上半身を起こして頭を抱えてみても、消えてくれることはなかった。その言葉を受けてから、二回目の朝。決して褪せることなく春歌を攻め立てる。
『レンが、トキヤとちゃんと話しなよ、って。…俺も、そう、思うよ』
はらり。涙が落ちる。友ちゃん。さくら色の唇が小さく動いて、か細い声を上げた。
友千香がロケから帰るまで、あと三十二時間。
You belong with me. 10
レンは思わず、目を見開いた。挨拶でも紡ぎだそうとした口は軽く開いたまま、言葉は咽の奥で留まる。
「…!やっと来たか…」
何とかしてくれよ。溜め息交じりに翔は肩を竦める。
夜はだいぶ更けていた。空は雲で覆われ少々重く、星々の姿も見られない。眠らない街、東京。星などなくともあちらこちらの建物の電飾が道を照らしている。そんな中の、一角。個室風の居酒屋の一室に二人はいた。テーブルに並ぶのは酒の肴と、酒瓶。既に空の物も数本あるようだ。
そして。机に伏したような格好の男が、一人。
レンはその男の隣に腰を下ろし、肩を揺すってみる。
「おーい、イッチ―」
暫しした後、トキヤは顔を上げ、レンを鬱陶しく思うような目つきをする。濃紺は、酷く陰って見えた。
翔から、先程の呼び出し電話で粗方の事は聞いている。今まで嗜む程度だった酒の量が尋常ではない、と。
「……なんですか」
「なんですか、じゃないよ全く。明日だって仕事だろう?」
再び酒を呷ろうとするトキヤを制する意味で、レンはその手からグラスを奪い取った。
「仕事だから、ですよ」
レンの手からひょいとグラスを攫うとビールを咽に流し込む。
その後黙ったままのトキヤの代わりに翔が口を開いた。
「…酒がないと寝れないらしくてさ」
「翔」
「いいだろ別に。相手はレンだぜ?最後には口を割らされる」
トキヤの厳しい視線から逃げるように。翔はそっぽを向いて頬杖をつく。
「たまにならいいさ。毎日頼ってると、本当にそれなしじゃ眠れなくなる」
「……あなたには関係ありませ――」
「あるよ」
「……ほう…一体どんな関係が?」
かたり。テーブルとグラスが触れ合う音がする。同時に片頬だけで笑みを作って真っ直ぐにレンを見やる。
「止めてほしかったんだろう?だから、俺やおチビちゃんを呼んだ」
違うかい?そう続けた語尾は確かに上がっているが、疑問符など存在しない。確信を突いた言い方だった。
案の定トキヤは目を見開いた後、形のいい眉を歪めて視線を逸らす。攻撃的な光を放っていた瞳が大人しくなる。誤魔化すように再び、グラスに唇を寄せた。
そうだ。独りで飲めばいい。そうすれば誰の気に触れることもない。
だがトキヤはそれを、心か、将又身体か、何処かで拒んでいた。
こんなみともない自分を謗って欲しかった。咎めて欲しかった。
「今日はもういいだろう。帰った方がいい」
「…帰る?」
――一体、何処へ。
いつもより低音の、掠れた声がする。
「トキ、ヤ…?」
「まさか、あのマンションに帰れとでも言うつもりですか」
嘲るような笑いを吐き出す息と共に溢した。僅かに震えるグラスを持つ手。残るビールがゆらりと揺れた。怒りか、哀しみか、それとも…。トキヤ自身にも判らない混濁した感情だ。
待とうと、した。だがしかし。心が、身体が、限界だった。あのマンションにいるだけで、痛い。部屋に灯る暖色の照明。それが己の身体を射すことすら恨めしく感じる。
「君たちも人が良い。本当は思っているんでしょう?春歌は…帰って来るはずがない、と」
「そんな事思ってるわけ――」
「思ってる」
「っ!おい、何言ってんだよ!」
「言って欲しいって言うんだ。言ってやればいい」
――レディは、イッチ―の元に、帰って来ない。
滑舌よくレンの言葉が漏れる。ぷつり。何かが切れたような音。途端にトキヤが隣のレンの胸ぐらを掴み上げる。また、あの光が瞳に灯った。今や攻撃的な、それだ。対してレンの瞳は、その色以上に冷ややかだった。
「満足かい?」
「……っ!」
「レン!お前ホントいい加減に――」
「ひとつ!」
レンが珍しくも声を大にする。その勢いに翔の咽から出てくるはずだった言葉が動きを止めた。
「…ひとつ付け加えようか。レディはイッチ―の元に帰って来ない…そうやって逃げてると、ね」
トキヤが息を詰める。拳が緩んで、力なく畳へ落ちた。指の間からするりとレンの衣服が抜ける。
「なあ、イッチ―。会いたいって気持ちは、すきだって気持ちは、まだあるのかい?」
「……当然です」
「だったら、逃げるな」
「…っ」
「信じて待っててあげなよ」
この言葉を浴びせるのは二回目だ。念を押す意味でもう一度口にした。その所為でトキヤが傷付こうとも、先の幸せのためにはこれしかないと思った。決してベストとは言い難いほどダメージは大きい。それでも。
外野がどうこう出来る問題じゃないと、そう言った一方で。確証はなかったが、きっと、彼女なら何とかしてくれる。レンはそう信じて違わなかった。自分では解決はしてやれない。だから。帰るべき場所をしっかり残しておくこと。それが自分に出来る最大のことだと、思った。
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