ただいま帰りました。
真っ暗な玄関。静寂に溶ける声。トキヤは早々に靴を脱ぎ去る。リビングまで歩いていき、ソファーに鞄を置く。背凭れにはコートをかけた。はあ。吐く息は、白い。ふと、視界を掠めたダイニングテーブルには、ラップが掛けられた食事が並んでいた。それらを手に取ると、冷蔵庫にしまい込む。夕食は外で済ませてしまった。
今日は、酷く寒い。バスルームに急ぐ。ざあっとシャワーだけで済ませて、髪を乾かした。疲れが襲ってくる。寝室へと向かえば、ダブルベッドの端が膨らんでいた。それとは逆から身体を滑り込ませ、背中を預けてひと息つく。身体から力が抜ける。途端に瞼が下がって、舟を漕ぎ始めた。その時。


「トキヤくん」


小さな声が聞こえた。トキヤは目蓋を持ち上げた。頭を、声の方に向ける。目は会わなかった。背中を向けていた。布団から覗くのは、隙間から溢れたさらさらの髪。それだけ。


「…起きていたんですか」

「はい」


真っ直ぐな肯定だった。そしてその言葉に続いたのは、


「起きていましたよ。毎日。トキヤくんが帰って来たら、必ず」


思いもよらない言葉だった。


「だったら何で、寝たふりなんか」


――おかえり、くらい、言って欲しかったですね。

トキヤは息交じりにそう言った。
そうだ。連日夜中帰りのトキヤが帰った時。春歌はいつも、布団で丸まっていた。出迎えも何もなかった。

少しの沈黙。破ったのは、春歌だった。


「…いつからでしょうね。トキヤくん」


それはトキヤに対する返答ではなかった。しかし、彼は何も云わなかった。次の言葉を待つように、天井を眺める。


「いつから、私たち、こんな風になってしまったんでしょうか」


寂しそうな声だった。
トキヤの視線は、再び彼女へ。


「遅くなります、と連絡してくれなくなったのは。食事は外で取りますと言ってくれなくなったのは。おやすみ、と言ってくれなくなったのは。抱き締めてくれなくなったのは。…キスも、してくれなくなったのは――いつからですか」


淡々とした口調だった。


「……はる、」

「おかえりくらい言って欲しかった、って、言いましたよね。…言いたかった。私は言いたかった。でも、また、あんな、……目も合わせてくれないトキヤくんに、私は、会いたくありません」


記憶に残る最後のトキヤの帰宅は。
おかえりなさい。そう言った春歌。ただいま。疲れたように言ったトキヤ。彼女は、彼に視線を向けていたのに。それは、交わることはなくて。


「春歌…」


彼女に向かって手を伸ばす。触らないで、ください。見えていない筈なのに、春歌は確かにそう言った。伸ばした手がシーツに墜ちる。


「…新曲、遅れててすみません。でも、もう心配要りませんから。」


沈黙を破るように。


「…出来たんですか?」

「…別の方が、担当します」


トキヤの瞳が驚いたような色を見せる。何時しか、眠気なんて飛んでいた。


「…トキヤくんの専属作曲家、降りたんです。私は、今度、一十木くんと仕事をすることになりました」

――専属って訳ではないですが。

がつん。鈍器で頭を殴られたようだった。何も理解出来ない。したくない。


「どういう、ことですか」


でも、理解しないわけには、いかなかった。


「私はもう、貴方に曲を作れません。…いえ、作れても、あの頃みたいな曲は、作れません。トキヤくんが納得する曲は作れません。そう、気付いたんです」

「……どうして、」

「………」

「どうして、ですか」

「……トキヤくんからの愛を見失った私は、貴方へ繋がる音も、聞こえなくなりました」

「………」

「大丈夫です」

――トキヤくんは、私がいなくても、大丈夫ですから。

トキヤは、息を詰めた。


「それと……もう、別れましょう」

「…待ちなさい。どうしてそうなるんです」

「…トキヤくんは、私がいなくても、大丈夫ですから」


やはり、その言葉には、何も云えなかった。

春歌なしで過ごせてしまっていた。付き合いはじめた頃も、同棲生活をしはじめた頃だって、彼女なしでは居られなかったのに。おかえりなさい、と言う笑顔を見れば癒されて。玄関で靴も脱がないまま、思わず抱き締めて、キスをして。疲れなんか忘れたように心も身体も交わらせて。


一体いつからだろうか。




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