レンが帰ったその部屋は、物寂しいものだった。月明かりがゆらりと照らし上げる。
どくん、どくん。鼓動が早い。春歌はゆっくり双眸を落とす。胸に手を当てて、落ち着くように大きく肺に空気を送り込んだ。

レンに抱き締められた時。この人は本当にあたたかい人だと思った。腕に抱かれて。じわりじわりと、温もりと鼓動が伝わってきて心地よかった。誰かに、あたたかく抱き締めたのは一体何時以来だろうか。両親から受けたそれは遠い記憶で、ひどく曖昧だった。ただ、あの時のそれに類似していたような気がする。首筋に感じた感覚に怯えて、自らそれを拒否する形になってしまったが、それで良かったと春歌は思った。これ以上、あの腕の中に居たならば。折角覚悟したものが崩れてしまいそうな気がしていたから。
レンがお願いを聞いて欲しいと言った時。また同じことを訊いてしまった。心ではとうに判っていた。彼はそんな事をするような人間ではないことを。君が嫌がることは、しないよ。あの言葉が嘘ではないことを。だが、反射的に。否。もう一度見たかったのかもしれない。あの、不思議なぬくもりを帯びた冷たい色を。
名前を訊かれた時。春歌は驚いた。春歌は、嬉しかった。もう、呼ばれる事などないと思っていた名なのだ。
そして。
求めてしまった。もう一度と思ってしまった。もう一度と口にしてしまった。やはり、あたたかかった。しかし危惧していたことが、襲い掛かってくる結果を、招いてしまった。彼に言った言葉が嘘になってしまった。生きていたくない。この、言葉が。


『すご、く……あったか…くて……』


――離れたく、ないです。

続きかけた言葉を必死で止めた。それを言ってしまったら、レンを困らせてしまうと春歌は思ったからだ。

春歌のため息は静寂に溶ける。

畳に寝転がって天井を眺めた。自分に残された時間はあと何れくらいなのか。そんなことを考えながら。
不意に、頭を動かして開け放した障子の向こうの空を見る。


「レン、さん…」


彼もこの空を見ているだろうか。いや、きっと見てはいない。夜もだいぶ更けた時間だ。
春歌はゆっくり、瞳を閉じた。同時に。一筋の涙が目尻から伝う。
最期の時間は、哀しくも穏やかなものだった。












「……る」


呼ばれた気がした。意識が持ち上がる。瞼を上げれば、最後の記憶より辺りは明るい。空が白み始めていた。あと一時間もしない内に太陽が顔を覗かせる。この吉原も、また新しい一日を迎えようとする。


「君鶴、」


視界がはっきりする。自分の偽りの名前を呼んだのは、


「楼主、様…」


(嗚呼、)


この店の主だった。


(終に、)


「……君鶴、時間だ」


(私は、)


春歌は短く返事をした。楼主からひとつの長い箱が渡される。


「着替えてたら、出てきなさい。ああ、顔への施しは要らないよ」


そう言って、襖の向こうへ消えた。
箱を開け放てば、普段纏うことは出来ないくらいの上等な赤の着物だった。此処に来る前に着ていた召し物よりも、恐らく上等だ。死に装束、最期の手向けだろうか。
覚悟したように一度、ぐっと奥歯を噛んで。ゆっくり力を抜く。今の着物を脱いで赤に袖を通した。

着替えを終えて襖を開けると、楼主が待っていた。目が合う。ついてきなさい。低い声が鼓膜を揺らした。
楼主の歩く背をゆっくり追いかけた。追いかけながら思った。どんな殺され方をするのだろうか。


(溺死とかは、嫌だな…)


少し前。春歌は遣手に水の中へ頭を押し込まれた事があった。殴られるより、蹴られるより、何よりあれは苦しかった。肺が水で満たされる感覚は味わいたくなかった。
しかし、顔への化粧がないということは、つまり。そういう可能性が高かった。

ぱたん、ぱたん。裸足が階段を鳴らす。寂しい音。下りた先、建物の入口には牛太郎が居た。


「ああ、楼主様。…既に、お待ちですよ」

「そうか」


楼主は振り返って春歌を見た。


「君鶴、行きなさい」


楼主の、皺の寄った手が春歌の肩を優しく押した。一歩、足が前に出る。立たされた、建物と外の境界線。
顔を、上げれば。


「やっぱり似合うね。その着物」


――流石、俺が選んだだけある。


レンが満足そうに微笑んでいた。春歌は息を詰める。口を開くが、言葉が出ない。そんな彼女の反応に楽しそうに笑った。
レンが近付いて、片膝をつけるようにしてしゃがみこむ。背中に隠れていた右手が姿を見せる。それが持っていた物がことりと、足元に置かれた。


「着物と一緒に渡しておこうと思ったんだけど、忘れてしまってね」


ごめんね。そう言って春歌の足を誘導して、その下駄を履かせた。


「な、んで…」

「ん?」

「何で、…レンさん、が、此処に…いるんですか…っ」


何が起こっているのか、理解出来なかった。見かねた楼主が声を放った。その一声で。瞳は大きく見開かれることになる。


「君を、引き取りたいそうだよ」


あの後。
春歌の部屋を後にしたレンは、牛太郎に声をかけた。「楼主に会いたい」と。程無くして現れた楼主に春歌の身請けを申し出た。様々な交渉の後、互いが納得して証文を交わした。一度、踵を返したレンが再び戻ってきたのは、二時間後。身請け金と、もうひとつ長い箱。そのまま春歌の部屋を訪れたが、眠っていた為出直すことにした。この街が目覚める前まで、寝かせてやることにした。今はだいぶ疲れているはずだから。レンは楼主に、長い箱を託した。渡してくれと言って。


「引……?」

「勝手なことをしたね…。もし嫌なら、ついて来なくてもいいんだ。此処に残るなり、独りで出るなり、君が選べばいい」


レンはひとつ息を吐いて、続けた。


「どうする?」


春歌の前に手が差し伸べられる。春歌は、其れを凝視した。その後。


「……私が、泣いたからですか?」


レンを見た。真っ直ぐに。


「私が殺されるからですか?可哀想だと同情、したからですか?」


春歌の眉が下がる。レンは一度手を下ろした。


「…そう、だね」

「…!」

「それが全く関係ないとは、正直言えない。ただ、ね、俺が一番に思うのは…笑顔の君をもう一度見たい」


――叶うことなら、俺の隣で笑う春歌を。

緩く腕を開いて、


「おいで」


何処までも柔らかい声で言えば。ぶわり。一気に涙が溢れて、頬を伝う。慣れない下駄を鳴らして小さな身体が飛び込んだ。


「レンさん…レンさんっ……レ、さ…!」

「笑って欲しかったんだけど…困ったな……ほら、泣かないで」


きつく抱きついている春歌の背中を優しく叩くようにあやした。


「……レン様、そろそろ――」

「…ああ、そうだった」


牛太郎の声で気付く。近付いた、吉原の目覚めの時間。

レンは春歌の両肩を掴んで、距離を取る。頬に手を添えるようにして、残った涙を拭う様に目尻を親指がなぞった。

レンの目は楼主を一瞥する。


「…随分長らく世話になったね。有難う」

「此方こそ」


それ以上言葉はなかった。背を向けてレンは小さな手を引く。それに引かれる形になった春歌だが、前に向く前に、一度楼主に頭を垂れた。

ふわり。レンの隣を歩く春歌の甘い色の髪が肩で楽しそうに揺れた。


(一目惚れだっていうのは、言わない方がいいんだろうね…今は、未だ)


レンは気付いていた。春歌が自分に向けている視線は、親を見るような其れだと。でも、いつか、自分と同じ気持ちになってくれたらと、切に思うのだ。


「行こうか、春歌」

「…はいっ、レンさん」


春歌は、笑った。







2011/11/11〜12/9 







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