携帯が、震えた。
細く、白い指が通話ボタンを遂に、押した。
You belong with me. 7
(随分な物言いをしたものです…)
マネージャーが運転する車の後部座席。窓枠に肘を置くようにして頬杖をついた。
窓の外は、忙しなく景色が流れている。街を染め上げる夕陽も、間もなく沈む頃だ。
無意識に。携帯を一瞥する。着信も、メールもなし。思わずため息を漏らした。ここ数日、何度この仕草をしただろうか。最早癖にすらなっている。
(何が「春歌の幸せを優先して手を退く」、ですか。今だって、こんなにも、)
――彼女の温もりを探しているというのに。
自嘲気味にトキヤは笑った。
数日、独りきりのダブルベッドで、考えた事がある。
このまま春歌が居ないままだったら。自分は一体どうなるのだろうか。と。
(…もしかしたら死んでしまうかもしれませんね)
冗談でも、なんでもない。笑えない。
食事も、睡眠も、まともに取れなくて。何より。心が空っぽだった。
まるで、HAYATOを演じていた時のようだ。今は、"一ノ瀬トキヤ"すらも演じている。春歌を除いて、今や、"一ノ瀬トキヤ"は存在出来ない。そんな事を痛いほど実感した。
渇いた唇からゆっくりと紡がれたのは、早乙女学園で密に愛を紡ぎ合った音楽。卒業オーディションで優勝を勝ち取った音楽だ。懐かしい旋律。だが今はその歌すら、哀しいものに変わってしまった。
目頭が熱くなって、はらりと、ひとつ。人知れず涙が溢れた。
「着きましたよ」
暫くして。寡黙なマネージャーが口を開いた。「有難うございました」そう言って車から下り、マンションを見上げる。これもすっかり癖になってしまった。
灯る暖色は、今日もなかった。当然だ。たった二つの鍵は、どちらもトキヤの元にあるのだから。
解っていても、それでも。
「……っ!」
扉の前まで来て、鍵穴に差し込もうとしたところで、頭が嫌な揺れ方をする。大して中身のない胃からは、何かが競り上がってくるようだった。
此処で、待つ他にないのに。
この部屋は余りに彼女との思い出に溢れていて、酷く、痛い。
トキヤは鍵をしまい込むと、踵を返した。
『はい、七海です』
「……!」
出た。レンは安堵する。
自分の携帯からかけた時は決して叶わなかった通話。やはり彼女は、真面目だ。シャイニング事務所からの電話に、彼女が出ないはずがない。
ひとつ、落ち着くように息を吐く。
『あ、れ…日向、先生?』
応答がないのを不思議に思ったのか、春歌の言葉尻が僅かに上がる。
逃してはいけない。
「……レディ、」
逃すわけにはいかない。
『!う、そ…神宮寺、さん…っ』
(俺、は、)
「待って。切るのはなしだ。頼むから、切らないでくれ。答えたくないなら答えなくてもいい。聞いて」
(この二人にはどうしたって、幸せになってもらわなければ、)
『………はい』
(報われない)
「イッチーから、聞いた。半ば無理矢理だ。イッチーを怒らないでやってくれ。今も頼まれて連絡しただとか、そんなんじゃない。
…今、君は何処に居るの?」
『………云えません』
「そう…。ねえ、何があったの」
『……何も、ないですよ』
「嘘。何もないなら、君はいなくならない。…随分頑なじゃないか」
『……』
「イッチー、心配してるよ」
『………』
「…一番聞きたいことを聞くよ?……君は、イッチーのこと、本当に嫌いになったのかい?」
『……』
「どうして答えないのかな』
『…答えたくないなら答えなくていいと、そう言ったのは神宮寺さんです』
「これだけは答えられるはずだ。別れてくれと言った君のそれが、本音なら」
『……っ』
「…ねえ、レディ。イッチーってさ、食事にすごくうるさいだろう?カロリーがどうだとか、栄養バランスがどうだとか、呆れるくらい」
『……』
「信じられないくらいさ。今、すごく窶れてる」
『………!』
「時間があれば携帯眺めて…」
『……、』
「きっと君からの連絡を待ってる」
『……めて、』
「いなくなったあの日、レディはおチビちゃんに鍵を渡したね?俺も、一緒に届けに言ったんだ。…らしくないくらい荒れて、それから、泣いていたよ」
『やめて、くださ…っ』
「……どうして泣いているの」
『ふ…ぅ、……ひっく』
「ねえ、どうして」
『……私、は、…トキヤくんと……っ…もう、一緒には、居れないんです…。離れなきゃ…いけないのに……そんな事聞かされたら、私、』
「離れなきゃいけない?それって、どういう……」
次に、レンの耳に微かに届いたのは、春歌の声ではなかった。男の声だ。レンは訝しげに眉根を寄せる。
『あ、起きたんだ!良かった……って、何で泣いて――!ぁ、っ』
しまった。
そんな表現が似合う。きっと慌てて口でも塞いだのだろう。
男の声が途切れる。人懐っこい、男の声。レンは聞き覚えがあった。
「――待って、レディ。今君、何処にいるの」
『っ、あ…』
「何で、イッキの声がするの」
ぷつり。焦ったように通話は途切れた。
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