部屋に入った途端、はっとしたように手を振り払った女は壁の隅に背を預けて膝を抱えている。
ややあって、建物に足を踏み入れた時に頼んだ物が運ばれてきた。桶に入った水だ。縁には手拭いが掛けられている。運んできた者が一礼して、ゆっくりと襖が
――閉められた。
びくり。小さな身体が震える。
彼女は。この部屋で嫌な思いをしてきたのだろう。閉め切りになった空間をひどく恐ろしく感じるのだろう。
レンは腰を下ろして、桶の中に手を沈める。そしてその手は一度水面上に顔を出し、縁の手拭いを引き込んだ。
水浸しになったそれを、適度に絞る。
そして。
蒼眼が女を捕える。柔らかく、何処までも柔らかく。しかし女は、自分を守るようにまた両手に力を込めた。


「…随分と臆病な子羊ちゃんだね」


レンは少々困った様子で、笑った。
そして綺麗な物腰で立ち上がる。みしり。音を立てる古い畳。一歩一歩。ゆっくり。しかしながら確実に。その都度怯えたように揺らめく日だまり。
先程店前でみた光景に類似していた。震える女に目線を合わせて、


「――!」


濡れた手拭いを、赤くなった彼女の片頬に当てた。熱が吸い取られるような感覚を覚える。


「可哀想に。真っ赤だ」


手拭い越しに頬を包む手。その逆の手の親指は緩慢な動きで目尻をなぞった。


(ああ、この人は、)


これまで相手をしてきた者達も、初めは優しい男だった。他愛の無い会話を結んで。酌をして。しかし、やがてはそれが嘘だったかのように息を荒くして、着物を剥がしてくる。処女だと感付くやぎらりとした眼が光、獣の如く口角を舐め上げる者もいた。
それがひどく、怖かった。
男の力を振り払うのは簡単ではない。それでも、逃げた。もう三度になる。
今眼に映る男もまた、同じなのだろう、と二度思った。一度は店前で手を取られ、振り払ったあの時。二度目は閉めきられたこの部屋で、畳を鳴らして近付いてきた時。しかし、どちらもその度。穏やかな海に宥められ、ふっと身体から力が抜けるようだった。その双眸の色は温かみなど持たないはずなのに。何処か、じわりとあたたかい。

女のさくら色の唇が小さく動く。紡いだ言の葉は小さすぎたようで、レンは首を傾げた。


「ん?…ごめんね、もう一回」


少しだけ近付く距離。


「……あり、がとう…ございます」


鈴が控えめに鳴るように。小さな声は彼の鼓膜を確かに揺らした。
レンは一度、目を見開いて。ふわりと目尻を緩めて微笑んだ。


「どういたしまして」


手拭いを頬から浮かせて、レンが立ち上がる。


「こっちにおいで」


今度は手を貸さなかった。彼は部屋の真ん中辺り、桶の場所まで戻り、腰を下ろす。ちゃぷん、と音を立てて手拭いが水に沈んだ。体温で温まったそれが再び冷やされる。
一方女は。視線を下側でさ迷わせる。やがてふらり、と危なげに立ち上がり、レンの隣を少し開けて正座をした。


「うん。いい子だ」


満足げに微笑んだ彼は再び絞った手拭いを彼女の、頬へ。だいぶ赤みは引いてきた様子だった。


「……あの、」

「なんだい?」


女は視線をさ迷わせる。
軈て、ゆっくり。レンの蒼眼を覗き込んだ。


「……しないんですか?」

「…してほしい?」

「…………」


女が俯く。


「…言ったはずだ。君の嫌がることは何もしない、ってね」


それから暫く、無言だった。時折冷やされる手拭いが奏でる水音だけが閉めきられた部屋に響いていた。


「失礼致します」


ゆっくりと襖が開く。お食事をお持ち致しました。そう告げたのは艶やかな顔立ちの遊女。


「ああ、此処に持ってきてくれるかい?」


開いている片手で、とん、と畳を弾く。レンの隣に綺麗に盛り付けられた食事が並んだ。彼が御礼を言うと頬を遊女は頬を赤らめた。

やがて、部屋は二人きりの状態に戻る。
徐に手拭いが外され、もう大丈夫だね、と声が降ってくる。空いた右手は膳にある箸を手に取った。
食事なら酌をと思ったであろう女は酒瓶に手を伸ばす。それをやんわりと制する大きな手。


「君はそれより…口を開けて」


白飯を乗せた箸が女の口許に運ばれる。


「そ、れは、御客様のお食事で…」

「いいから。ほら、」


観念したように小さく開いた口が箸を捕える。ゆっくり噛んで、嚥下。


「美味しい…」


小さく呟いて、頬を、目許を緩ませた。


「……やっと、笑った」

「え?」

「…何でもないよ」


あらゆる皿から、あらゆるものを。緩慢な動きで喉を上下させる女の早さに合わせる。
軈てやんわりと箸を女が制した。聞くに、満腹だそうだ。
レンは彼女を一瞥する。身体の線が随分細い。着物から覗く腕は、先程手を引いた時にも感じたことだが、力を入れれば折れてしまいそうだ。


「食、随分細いね。毎日ちゃんと食べてる?」

「……まともに御客も取れない私は、そんな資格すらありませんから」


女から思わず苦笑が溢れる。まるで何かを諦めたような表情。
泡沫のように。淡く。切なく。消え入りそうだ。彼はそう思った。

女は一歩分退いて、座敷に両手を付け、頭を垂れた。額が付きそうなほどに深々と。


「最期に、貴方のような方に出逢えて良かったです。人のあたたかさに、もう一度触れることができて…私は、これで、」


――人を怨んだままで逝かずに済みます。


有難うございます。そう紡ぐ表情は見えない。隠しているつもりだろうが、声は随分震えていた。


(ああ、この子は、)


言われたのだろう。次はない…きっと、そう、言われたのだ。床入りを拒んだのも、牛太郎がああ言うのだ。初めてではないことをレンは察していた。レンは客だ。郭の人間ではない。故に内部事情は知り得ない。だが、客の取れない遊女は…殺される道もある。それくらいは容易に想像がついた。

女は、親に棄てられ、此処に売られて。遣手の暴力も受けて。客からは組み敷かれる。
何時しか人間を恐れるようになってしまっていた。
そんな中で確かに輝いた存在が、彼…レンだった。久しぶりに感じたあたたかさ。それに思わず涙が溢れていた。


どうか。
消えてしまわないで。


震える肩を優しく掴んで、上半身を起こす。はらり、はらりと日だまり色から雫が落ちる。
次の瞬間には。女の華奢な身体は、逞しい腕に抱き締められた。


「あ、…あのっ…」

「ごめん…嫌だったら、ごめんね」


――でもどうにも離してあげられそうに、ないんだ。







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