――こんなはずではなかった。
心底そう思った。
ドラマの収録が思いの外時間がかかり、予定時間を大幅に過ぎた。それだけならばきっと、昨日のうちに家に帰れていた。
しかしながらトキヤの味方をすることはなかった、運。
乗り込んだタクシーは渋滞にはまり、迂回すら出来ない状況に追い込まれる。そこから走ろうにも、駅はだいぶ遠い。少しずつしか動かない車に苛々を募らせながら表情を曇らせた。
ワンタッチで光を灯した携帯のディスプレイの時計は、とうに0時を回っていた。
マンションの錠を解いて扉を開ければ、未だに灯る暖色の光。
鍵の音を聞き付けたのか、ぱたぱたと軽い足音が聞こえる。
「おかえりなさい、トキヤくん」
そうして彼女は、いつもと違わぬ笑顔で笑うのだ。
音を立てて落ちる鞄。
トキヤは早急に靴を脱ぎ払い、次の瞬間には春歌を腕に閉じ込める。
「すみ、ません…」
絞り出すようにしてようやく出た声は、ひどく掠れたものだった。
「私は…私はまたっ…間に合わなかった…!」
トキヤの脳裏を巡るのは、去年の十月のある日。学園祭の日のこと。
二人で立つはずだったステージ。
人気の消えた講堂。哀しそうな音を鳴らすピアノ。
椅子に腰掛ける彼女を抱き締めたあの日を。
小一時間前に過ぎ去った昨日は、二人の大切な日だった。
卒業オーディションから一年。
二人が恋人同士になってから、一年。
「仕方ないですよ、お仕事だったんですから」
子供をあやすかのように優しく、微かに震える背中に手を滑らせる。
息を詰めて言葉を発しないトキヤ。そんな彼に彼女は、
「でも私、嬉しいですよ」
――だって、急いで帰ってきてくれたでしょう?
不思議そうな顔を見せた彼に、柔らかな声で言った。
やっと整ってきた息。汗ばんだ背中。
それが彼女に伝えたもの。
「そうやって、昨日を大事にしてくれていたトキヤくんの思いだけで、充分ですから」
ありがとうございます、と丁寧にお礼を言った春歌。その小さな身体を抱き締める腕に力が入る。
そして震えた声の、ありがとう、が確かに彼女の鼓膜を揺らした。
そしてどちらからともなく唇が重なり、甘く、温かく、満たされる。
お互いを求めあった。熱く、熱く。
「ひっ、ぁ!…っ、トキ…」
ベッドサイドのランプが淡い光を発する。うっすら浮かぶ、暖色の光を浴びた春歌の裸体に、ごくり。思わずトキヤの喉が鳴る。
この一年、何度彼女を抱いたか。それはもうわからない。それでも、飽きることなく彼の身体は彼女を欲した。
目の前で乱れる小さな身体も。
心地好いぬくもりも。
鼓膜を揺らす高い声も。
全てが。何度だって。
きっと、これから先も。
彼女以外に欲情することはないだろうと、何処か安心したように微笑む。
トキヤは優しく、春歌の瞼にキスをした。
ぎゅっと力を込めて封じられていた日だまり色の双眸が開く。
「んん…ぁっ、?」
「春歌…」
熱を孕んだ声が零れた。
「目、開けていてくれませんか」
ーー私に抱かれるのを、ちゃんと見ていて。
頬を朱色に染めた彼女にひとつ、優しいキスを落として。
律動を再開した、繋がる箇所から、やがて全身が。どろどろ、どろどろ、融解するかのように。
このまま溶け合って、いっそひとつになれたらなどと。トキヤは快楽に溺れ、痺れる意識の中で思った。
「来年こそ、…んっ……お祝い、しましょうね」
「あ、ふぁ…、っあ!」
「だから…っ、また一年、私の傍に…いて、ください…」
「んっ…ぁ、…は、い…」
濃紺の瞳と、日だまりの瞳。
甘く、それでいて熱っぽく、絡まり合った。
ゆっくり近付く唇。
情熱的なキスは忠誠の如く二人を繋いだ。
一万打フリーリクエスト/沙梨亜さん
「トキ春で二人が付き合って一年の記念日で裏あり」
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