既に陽は落ち、濃紺の空には星が瞬いた。

昨日と同じようにタクシーがマンションの前に止まる。
焦って下りたトキヤは急いで人工の光を求めて仰ぎ見る。昨日と違うのは、二人の部屋の窓から灯りが漏れていること。
トキヤはほっと胸を撫で下ろした。






You belong with me. 3









「春歌…っ……どうして君は…!」


部屋に戻ったトキヤは愕然とした。同時に悔しさ、哀しみ、…沢山の感情が入り雑じる。
奥歯が軋むほど噛みしめ、力の入った手は、朝書いたメモ書きをぐしゃりと歪める。

自分が書いた文の下に。控え目に綴られた「ごめんなさい」の文字。
それを決定付けるように部屋からは春歌の服数着、持てる限りの仕事道具が消えていた。
勿論、彼女もいない。ご丁寧に電気まで点けて、消えていた。

直ぐ様携帯を手に取り彼女を呼び出す。が。繋がることはなかった。
思わず溢れた舌打ちから滲む焦燥。

まだ、近くにいるかもしれない。
トキヤは部屋を飛び出した。

その際、扉の直ぐ傍で誰かにぶつかる。


「…っすみませ…――!」

「……イッチー?」


視線を上げれば、そこにいたのはレンと翔だった。


「すみませんが、急いでいるので…用なら後にしてください!」


そう言いながら駆け出すトキヤ。

二人は思った。こんな彼は見たことがないと。


「お、おいトキヤ!待てよ…っ春歌から――、!」


そう言うと走り出した彼の足が止まり、やがて直ぐに踵を返して戻ってくる。


「春歌が…何です…」


がっと、翔の肩を掴み、指が食い込んでいく。同時に歪んでいく翔の顔。


「痛っ…離せよっ!何だよいきなりっ」

「早く言いなさい!翔!」


翔の肩を揺さぶる。見かねたレンが二人の間に割り入って制した。


「どうしたんだい?らしくないじゃないか」


その彼の言葉に苦い顔をしてトキヤは視線を反らす。
小さく口にしたのは謝罪の言葉。そして、


「春歌が…居なく、なりました…」


震える声が辛うじて、そう紡いだ。















「じゃあコレは、もう帰らないってことなのか…?」


翔がポケットから取り出したのは、間違いなくこの部屋の鍵。ぶら下がる小さな鈴がリンと鳴って、何処か物悲しかった。


「トキヤが鍵忘れたから届けてくれ、だとか…そんなことだと思ってたけど…」


――こんなことなら引き止めておくんだったな…。

翔は申し訳なさそうに肩を落とす。

あれから二人は、外では目立ちすぎる。そういう判断で、落ち着きをなくしたトキヤを宥めて一度部屋へと押し込んだ。
ひやりとした廊下を越えて、ソファに腰を下ろし、トキヤに詰め寄った。一体何があったのか、と。
膝に肘を置くようにして、緩く組まれた指先。項垂れて表情は見えないが、彼の肩が僅かに震えていた。

そして、暫く、本当に暫くしてから。

ポケットから、ぐじゃぐしゃに縒れた紙を取り出した。それをゆっくりと開いて、目の前のローテーブルに置く。
トキヤは渇いた唇を開いた。

春歌に、大切な人が出来たと云われたこと。別れて欲しいと云われたこと。それを拒んで無理矢理事に及んだこと。メモ書きを残して、忽然と姿を消したこと。

言うつもりはなかった。
だが吐き出してしまわないと、いよいよおかしくなってしまいそうだった。
一言目を紡いだ喉は、次々に、苦痛から逃れるように言葉を溢していった。

ぽたり、と。
雫が下肢の衣服に染みを作る。


「…ごめんな、トキヤ」

「……謝らないで、ください……何も、悪いことなどしてはいないのですから…」


――悪いのは、私です。全て。


ぼそりと溢した呟き。それに喰い付いたのは、


「…何か覚えがあるのかい?」


レンだった。


「…当然、ですよ。私が忙しいばかりに春歌をずっと独りにしておいて…寂しくなかったはずは、ありません。……誰かに、縋りたくなったとしても、おかしくはない。本当なら…っ、それを責める事すら出来はしないのに…私は、無理矢理彼女を……っ!」

「………なあ、イッチー」

「……何です」

「俺から見た、君達は、さ。本当に幸せそうだ、って言えるよ。互いが、互いを支えあってて、愛し合っていて。ひとつひとつの所作でさえ、愛が溢れて見えるようで…正直、羨ましい。なあ、おチビちゃん?」

「チビ、じゃ、ねえんだけど……。
…ああ、俺もそう思う」

「……」

「だから俺には、俺達にはどうも信じられない。レディが他に男を作ってイッチーを置いていく、なんて」


トキヤがゆっくり顔を上げる。濃紺の髪に隠れていた表情が露になった。僅かに目尻は赤くなり、頬には涙の筋が描かれた。


「居なくなった、ってことは、今は会えないんだと思う。でもちゃんと、戻ってくるさ。だから待っててあげなよ」


ね?、と念を押す言葉尻に、トキヤが奥歯を噛み締め、眉根を寄せた。
握られた拳は力を持っていて。きっと掌には爪が沈み込んでいる。

痛みすらも、哀の感情に掻き消されるかのように。

肉体の痛みは感じない。ただ、ひどく心だけは痛み、軋んだ。


「私は……直ぐにでも、春歌に会いたい…会って春歌に…」

「今、こんな状態で会って。それで?また同じことを繰り返すことになると思うな、俺は」

「…っ」

「必要なんだ。落ち着く時間が。レディにも……イッチーにも、ね」


ぽつり、ぽつりと。
窓の外では、やがて雨足が強まって。世界を洗い流した。













何度訪れたか判らないマンションのとある階に、春歌はいた。

突然の雨に降られ。けれども走るでもなく彼女は、雨の中を歩いてきた。
全身がすぶ濡れで。凍えるような寒さすら感じてくる。

ゆっくりした動きで一歩、また一歩。
歩みを止めたのはある一室の前。インターホンを鳴らすと、マイク越しに驚いた声が聞こえて、直ぐにプツリと通話が途切れる。
慌てたように錠を外す音が聞こえて、開く扉。


「……、…」


震える唇で彼の名前を紡いだつもりが、それは言葉に成らない。

ぐらり。
視界が嫌に揺れて、身体が傾く。
それを音也の腕が、濡れることも厭わずに、支えた。





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