――「撮りたくなる瞬間」っていつ来るんだろう。


心に浮かんだまま。藍はキーボートを叩いて気持ちをアウトプットした。
ふうと一息ついて、ソファーの背もたれに寄り掛かる。その拍子にがさり、と。身体が紙袋に触れた。中身は買ったばかりのカメラ。何度取り出して、何度何も取らずにしまっただろうそれを再び取り出して、ファインダーを覗きこんでみる。

――広がる世界は、いつも通りのマスカレイドミラージュ公演前の楽屋。那月が喋って、嶺二が話して。藍の目に映る、いつもの世界。何だか胸の奥にこそばゆさを感じた、気がした。

「もしもしさん」に話しかけるのに夢中な那月の横で、興味津々な様子で覗き込み、時折質問を繰り出していた嶺二が、レンズ越しの視線に気付いてピースサインを向けた。


「…………」


藍は無言でカメラを下げる。


「え!何、取るんじゃないの!?」


ピースサインをぐにゃりと曲げて、嶺二が驚いたように、また不満そうに声を上げた。
その声に反応したのは那月――ではなく、もしもしさん。嶺二の声を感知して、「目的地は、此処から250メートルです」と的外れなレスポンスが返ってくる。


「あれ?ご機嫌斜めですねえ、もしもしさん?」

「ほったらかしにされてるからね、拗ねちゃってるんじゃない?」

「う……っ。あ、いや!そうじゃなくて!アイアイ!」


落ち込んだような様子から、一気に変わる。藍が下ろしたカメラを指差して、


「今、何で取らなかったの?お兄さん、てっきりポーズ決めるタイミングかと思ったよ」


嶺二の指先に誘われるように、藍は視線を落とした。
カメラを持つ指が自然と動いてボディを撫でる。掌の熱が少し映ったそれは、ほのかにあたたかった。


「……どうしてだろうね」


藍は小さく呟いた。









身が縮みそうな寒さを感じていた。


(撮りたくなる、瞬間……)


例えば今にも雪でも降らしそうな空か。
例えば見慣れた人気のないこの道か。


(……少し、違う気がする)


例えば当たり前になりつつある楽屋の風景だとか。そういった、ありふれた日常を否定している訳では決して、ない。非日常を収めるスクープ記者気取りをしたい訳ではないのに、どうしてこうもシャッターを切るのを躊躇うのか。藍は不思議でたまらなかった。

カメラの入った袋を持つ手とは逆の手で下がったマフラーを持ち上げて、同時に伏し気味だった頭も持ち上げる。真っ直ぐな視線の先には、マンションの一室。カーテンから溢れる光は、家の主が寝付いていない証拠――電気を点けたまま最も、居眠りなり転た寝なりをしている可能性は拭えないが。


――その拭い去れなかった可能性は、拭い去れなかっただけあるのだ。


「…………」


さて。この無防備な彼女をどうしてくれようか。

事務所管理のマンションとはいえ、施錠は怠らないようにときつく言ってあった筈だ。
それなのに、応答のない部屋に合鍵で入ろうと思い、差し込んだ鍵が空回りした時には背筋がひやりとした。
結果、何もなかったからいいものの、万が一がないとは言い切れないのだからしっかりして欲しいものである。
ソファーで静かに寝息を立てる春歌に、藍は額に手をやってため息を付いた。藍は膝を床に付けて、寝顔を覗き込んでみる。会わない内に、少し痩せたように見えた。
彼女をそう変化させたのは、尋ねるまでも、思考を廻らすまでもない、音楽だ。
テーブルに、床に広がる楽譜たち。その中の一枚を何となくの直感で拾い上げて、音符を辿ってみる。目で追っていただけのはずなのに、いつの間にか口を突いて出て。儚げな旋律が静寂の部屋に静かに、静かに溶けていった。

春歌の作り出す音楽は、藍にとって心地のいいものだった。――しかし、音楽ばかりに目を向けてしまった彼女を傍から眺めるのは、何だかつまらなかった。ああ、こっちを向いてくれたらいいのに、だなんて。また藍の「ハジメテ」を春歌は攫っていく。嫉妬心という感情すらも攫っていく。
――つまらない筈なのに、なかなかどうして、悪くない。

コーダまで追ったところで楽譜を戻して、再び視線を春歌に向けた。


「全く、キミは無茶ばかりするね……」


親指で優しく、下目蓋をなぞってみる。そんなことで隈が消える筈もないのだけれど。
んん、と。春歌が小さく息を漏らした。


(――起きるかな)


起きて欲しい。起こしたくない。
相反するふたつの気持ちが同時に顔を持ち上げていた。
結果、春歌は目を覚ます事はなく、規則正しい寝息が聞こえてくる。

その結果に満足したように、藍は口許で笑った。
例えば前者であったとしても、藍はきっと笑っただろう。起こして申し訳ないと思いつつも、やはり笑っただろう。

「…………あ」


藍は何かに気づいたように声を漏らした。そして、視線は下に。その先には、春歌の顔を覗き込む際、床に卸した紙袋。
その中身を思い出しながら、すやすやと気持ちよさそうに眠る春歌を一瞥した。
藍は袋からカメラを取り出すと、ファインダーを覗きこむ。不思議だった。不思議とシャッターボタンに指が乗る。
切りたい。切り取りたい。この瞬間を。
これが「取りたくなる瞬間」か、と。


(――ああ、そうか)

(ボクの「ハジメテ」はキミのものだから)


静かな部屋に、シャッター音。







 * 

いつぞやの公式ツイッター企画から。




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