――確信、している。
だがもし、万が一――そう考えると自分は一体どうなってしまうのだろうか。
考えを廻らせても、答えに辿りつく事などは決してない。そうなってみたいと判らない。だから、人は臆病になるのだと。

一ノ瀬トキヤは、息を吐いた。

胃がきりきりと痛む。例えばライヴのステージに上がる時でさえ、こんな痛みは覚えない。


「……トキヤくん?」


ぐるぐるした思考から引き揚げたのは、他でもない、七海春歌である。思わずはっとして視線を上げた。目の前には言わずもがな春歌がいて、眉を下げて心配そうにこちらを覗いている。しまった、と、そう思った。


「…っ、あ」


取り繕う気は微塵もないが、言葉が出てこない。息が詰まったような声が漏れた。その様子を見た春歌の表情が見る見る哀しげな色に染まっていくのが判って、更に声が咽で詰まる。


「あ、あの、もしかしてお口に合いませんでしたか…?」


春歌はわなわなと指先と口元を震えさせてそう言った。

今は食事を終えて、直ぐ。食後に二人で紅茶を啜っていた。
先程までこのダイニングテーブルを彩っていた数々の料理は春歌お手製のもので、どれもトキヤの心を特に確と掴んだラインナップであった。ましてや――今日は一ノ瀬トキヤの誕生日である。いつも以上に手間を掛け、愛情を込めて作った料理が口に合わないなど、あるはずがない。トキヤは間に髪を容れずにそれを否定した。予想以上に大きな声になってしまって、びくりと目の前の春歌の肩が跳ねる。
思わず冷静さを欠いてしまったと、咳払いをする。


「いえ……違うんです。すみません」

「違う……?」


心配そうな春歌の声色からは、「違う」という言葉を納得はしていないようであった。それもそうだ。トキヤは謝罪の言葉しか口にしていない。判れという方が難しいだろう。だからといって何と説明すればいいのか。それを言うという事は、つまり――この胃の痛みの原因との直接対決の局面を迎えるという事だ。またも思慮の渦に一人で巻き込まれる。
テーブルの真ん中に佇む小振りな花が二人の沈黙を見守っていた。耐え切れなくなったのは春歌の方であった。春歌にしては珍しく、椅子を床に擦らせて派手な音を鳴らしながら立ち上がる。


「ごっ、ごめんなさい!作り直し――ああ、でもお腹いっぱいですよね!ええと……っ」

「!ま、っ!」


何のプランもなくぱたぱたとキッチンへと駆けて行こうとする。「待ってください」の声が最後まで発音される事はなく、後は反射的に――トキヤも何のプランもなく立ち上がって、小さな身体を後ろから腕に閉じ込めた。
意識が追いついた時、だらりと妙な汗が背中を伝う。

トキヤは、春歌との沈黙を苦だと感じない。春歌もまた、そうだ。だが今日は、今日ばかりは沈黙は敵となる。またも黙ってなどいてみれば、きっとまた春歌は逃げ出してしまう。
トキヤは大きく息を吸って、吐いた。先程の溜息と酷似している。だが、誓って言おう。春歌が思っているような溜息ではないと。


「違う、違うんです、春歌。……すみません、少し、考え事をしていました」


――…君の、事です。

私の事、と語尾を上げて小さく問う春歌の頭上でトキヤは静かに首肯した。

ふと、トキヤの眼に止まったのは、春歌を抱きしめる片腕――左腕に巻き付いた腕時計。先程誕生日プレゼントとして受け取ったものだ。早速つけて見せれば春歌は照れたように微笑んで、自分もまた言いようのない気持ちに頬を緩ませた。
いつか、聞いたことがある。女性が男性に時計を贈るのは、「貴方の時間を束縛したい」という想いから、と。きっと春歌に他意はない。「トキヤくんに似合うと思ったんです」……その言葉が本当で、その一心。勿論それだけで嬉しいが、今のトキヤにしてみればこそばゆい想いをさせるばかりだ。

今度の暫しの沈黙に、春歌は逃げ出さなかった。ただ目の前の恋人の言葉を待っていた。


「……春歌、」

「……はい」

「欲しいものが、あるんです」


トキヤは静かに、しかし意志の通った声で、そう言った。

ただ傍にいるだけで。それだけで幸せで。
でも。だけど。
ふとした瞬間に、心底思う事がある。
もう、随分と前からしこりのように居座って――。


(ああ、なんて贅沢を言うのでしょう)


腕の中で静かに待つ恋人を力強く抱きしめて、首筋に擦り寄る。その行為に春歌は息を詰めて身体を固くするが、軈て弛緩し享受した。


「……っ、ん…欲しいもの、ですか?」

「……ええ」

「教えて、くれますか?」


自分があげられるものの範疇なら、何でもあげたいと思う。例え――いつものお願いだとしても、だ。


「春歌……君が、ほしい」


そう、この願いだとしてもと春歌は腹を括っていた。この言葉をトキヤが使う時は、朝まで際限なく求められる。……この言葉がなかったとしてもそういう事になる事は多多あるがそれは兎も角、だ。


「……は、い」


だから静かに肯定の意を示した。
一方、トキヤの方は春歌がそういう意味で肯定をしている事を理解していた。無論恋人としては喜ばしい事であるし、延いては今夜そうしたいとも思っている。だがしかし、トキヤが言いたかった事はそういう意味が主ではない。だから、トキヤは春歌の髪にひとつキスを落として踵を返したのだ。その、本当の意味を伝える為に。だが春歌はそんな意は知る由もない。いつもなら、そのトキヤの言葉の後には自分の返答に関わらず、色情を孕んだ笑顔を以て手を引き、ベッドルームに直行するのが常だ。離れた彼の温度にただただ困惑する。
その間にトキヤは戻ってきた。その足取りは何処かいつもの、しゃんと歩く彼とは異なっていた。その大きな骨ばった手が、テーブルに何かを置く。一枚の、紙だ。その正体が判った時、春歌は大きな瞳を見開く。それにトキヤの文字が書き込まれていた。『夫になる人』の欄に、几帳面に書かれたいつもより固い、彼の文字。


「…………」


言葉を失うという事は、きっと今の春歌のような状態の事を言う。

トキヤは左手にもったボールペンを忙しげに一度、くるりと回す。そしてそれを、ゆっくり春歌に向かって差し出した。


「こういう意味で、春歌が慾しい。君の時間を、私にくれませんか」


春歌の右手がゆっくりと伸びてきて、差し出したままのトキヤの左手を優しい手付きで撫でる。そして、滑るようにその手首――先程自身が贈った腕時計に触れた。

落ち着きのなかった視線を春歌に真っ直ぐ向ける。トキヤのその眼には――映った。静かに、静かに、大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢していた。その様子にトキヤは一瞬、ほんの一瞬だけたじろぐ。その涙が哀しみの涙でない事が直ぐに判ったのだ。
何度も目にした。自分の成功の時にいつも見せてくれた、喜悦の涙。


「私に…ください…っ。トキヤくんの、時間……」


――あなたと、生きていきたいです。これから先、ずっと。

自分よりもずっとしっかりした手首を掴んだまま、まるで倒れ込むように。春歌はトキヤの胸に身体を預ける。振るえた涙声は密接した距離であった為、確かにトキヤに届く。
トキヤの目頭が熱くなって、軈て一筋の涙が頬を伝った。湧き上る想いのままに、力強く抱きしめる。抱きしめ合う。

からり。足元でボールペンが転がった。






「…………」

「あ、あの」

「何ですか?」

「そんなにじっと見られると……恥ずかしくて書けません…っ!」

「ふふ。手が震えていますね。では手を取って一緒に書きましょうか」

「そっ、それはそれで恥ずかしいですっ!」









* * * 
一ノ瀬さんお誕生日おめでとう2013




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