今でも不意に、思い出す。
鼻腔を擽るあたたかく、甘い、春を思わせるかのような香り。
誘われるように振り向けば――必死に追いかけてくる、小さな小さな、女の子。






If




朝の光に目蓋を照らされて、双眸を覗かせた。ぼんやりとした視界。空色の瞳が鮮明に世界を捉え始め、映ったのはむき出しの肩。それにゆるりとかかる栗色の巻き髪。
上半身を起こして髪を掻き上げ、自嘲したようにレンは息を吐いた。掛け布団が剥がれた肌が十二月の寒さを覚える。空気調節が甘かったようだ。
隣で眠るドラマの共演者をそのままに。大きな足が床を踏み締めて、シャワールームへと向かう。カランを弄ればあたたかい湯が降り注いだ。

夢を、見た。
不意に思い出す、彼女の夢。真っ直ぐにレンを見て、何度も扉を叩いた彼女。


(元気にやっているのかな…)


そんな事を思った。
突き放す形でアメリカに留学した、一時期限りのパートナー。それが彼女――七海春歌。
類い稀なる作曲センスを認められ、留学すればその場で事務所に所属。そんな好条件が彼女の前に転がって。レンは不器用にその小さな背を押した。結果、春歌は渡米して行った。当然だ。不器用なんて言葉で済まないほどきつく当たった。それでも、渡米を決めてからも春歌は最後まで言った。「歌ってはいただけないでしょうか」と。「この曲は、神宮寺さんのために作った曲なんです」と。何度も、何度も。それを同じく最後まで、突き放したのは誰でもない、レンだ。それは頑なで、卒業オーディションでは作曲家を目指す他の者の曲を歌った。
留学の件、後に自分の兄が関わっていた事を知り、沸々と沸き上がったのは混沌とした感情。
あれから月日が流れるのは、随分早かったように感じる。おかげで気持ちの風化も、まだだ。

降り注ぐ湯が、肌を伝っていく。最後には床で跳ねて排水溝へと渦を巻くように吸い込まれていった。






「……え」

「おいレン!下見ろ、下!!」


レンが翔のために傾けたペットボトルは、紙コップのふち切りいっぱいを超えても元に戻される事はない。見かねた翔が焦ってボトルを取り上げた。机に零れた緑茶をトキヤは冷静に拭き取り始める。
レンが呆然と固まったのは、会話の中の翔の言葉であった。シャイニング事務所の一室。会話の内容は年末のシャイニング事務所大忘年会について。三人が事務所に所属して数年、忘年会が開催されるのは初めてのことだ。事務仕事にもあたる日向龍也は、「この忙しい時に」だとか、「新年会もあるじゃねえか」と文句を垂れていたが、都合を付ける辺りはさすがの手腕である。
さて。その忘年会自体が問題ではない。そこに来る人物が問題なのだ。決定打となった言葉は、これだ。「そういえばさ、今度の忘年会、七海も来るらしいぜ」


「……七海…?」

「そうだよ、七海春歌!…あーあ、濡れちまった」


緑茶を被って濡れた袖を払いながら、レンの疑問の声に答える。


「そうなんですか」

「久しぶりだよなー、アイツ全然帰って来ねえし。まあ、忙しくしてるみたいだし仕方ないとは思うけど……あ、悪いな、トキヤ」


翔は差し出された薄い青色のタオルを受け取った。

呆然としていたレンの意識も戻ってくる。だが、頭の中では反復する先程の翔の言葉。


(帰って、くる…?)


困惑した。あんな別れ方をして、一体どんな顔をして会えばいいのか。いっその事、忘年会を欠席してしまおうかというところまで考えたが、直ぐに心の中で首を振る。企画者はシャイニング早乙女――社長だ。言うまでもない。
それに、それと同時に違った気持ちも生まれていた。


(会いたいって、そう思うのは…俺の我儘かな)


募る想いは、絶えず。


「レン…まさか忘れたわけではないでしょう?」

「何をだい?」

「この流れで判りませんか。…七海くんの事ですよ」

「!ま…っ、さか…忘れるわけないじゃないか」


張り上げた声にレン自らが驚き、努めて冷静に続けてみせた。傍から見れば確実に動揺が窺える様である。レンもそれに気付いたのだろうか、頬杖をついてそっぽを向いた。


「へえ、そうですか。……まあ、あんなに厳しく仕向けてましたし?」


トキヤは何かを促すように翔を一瞥する。一方、視線を受け取った彼は、憮然たる表情で指示通りに焚き付ける。


「……そ、そんな事しておいて忘れたなんて言ったら、七海が可哀想すぎるよなー」


――って、何言わせんだよ。

横に腰掛けるトキヤを肘で小突いて小さく文句を溢した。そのまま正面のレンを少々遠慮がちな上目で覗く。見たこともないような、苦い顔をして座っていた。


「……レン?」

「――ああ…うん、そうだね」


それから流れたのは暫しの沈黙。レンは苦い顔をして何かを考えるように頬杖をつく。トキヤはゆっくり茶を啜り、片手で次の仕事の資料。時折、紙の擦れる音が聞こえる。それは静寂のこの部屋ではやけに大きく感じた。
そして翔は――この静寂を、破った。


「…お前さあ、ちゃんと忘年会来いよ。それで、七海に会え」


会いたい。
会えない。
会わない。


「…"それ"を決めるのは、俺じゃない」


突き放した側だ。我が儘や無理強いなど通るか。そんな思いを込めてレンはひとつ、息を吐いた。


「じゃあ決まりだな、ちゃんと会えよ」

「…は?おチビちゃん、話聞いてた?」

「だからチビじゃねっつの!…ったく。聞いてた。聞いてたから、言ってる。七海が、こっちに帰って来るってメールくれた時に、レンは来るか、って聞かれてさ」

「!」

「来るんじゃねえの、なんで、って聞いたら――」



スマートフォンを軽々操作したかと思えばすぐにその画面がレンを向く。挟まれた机に翔が身を乗り出すようにして突き付けていた。


――from 七海春歌
そうですよね、良かったです。
どうしても神宮寺さんとお話がしたくて…。ありがとう、翔くん。


世界が廻りはじめる音が、した。



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