夕暮れ色に染まる部屋。
カリカリと紙を掻く音がしたかと思うと、やがてグシャリと紙が丸まる。そんな事の繰り返し。
「違う…こんなんじゃ、ないのに」
私が紡ぎたい歌は。
彼に紡いでほしい歌は。
春歌は頭を抱えた。
所謂、スランプというものだった。
何度五線譜に音符を踊らせても納得のいくものには成らない。こんなのは歌ではない。ただ、考えなしに並べられた遊びのようなものだと。
大きくため息をついて、ついには右手に握られたシャープペンが机に寝転がる。
さ迷った右手はマグカップに伸びる。視線も、そちらへ。
マグカップは、彼の部屋にあるものと色違い。自然に彼のことが春歌の脳を占めた。
ぼそりと、彼の名を呼ぶ。
会いたい。
会いたい。
そんなことは叶いもしないのに、直向きに、そう思った。
その時だった。
優しい音の呼び鈴が部屋に響く。
重い足に鞭打って玄関へと向かう。
ふらつく足取り。そういえば睡眠も、食事も、ここ最近ろくに取っていなかった。ただ楽譜に向かって頭を抱える毎日。
ドアノブに手をかけて、返事をする。それは小さくか細いものだった。
「はーるか!駄目だろ、確認もしないでドア開け、ちゃ…」
いつも向日葵のような笑顔の音也の顔に哀しみのようなものが差す。
「音也、くん…なんで」
彼はドラマの撮影で遠くに出掛けていたはずだ。こっちに戻ってくる日はまだ先だと聞いていた春歌は驚きの色を隠せなかった。
「順調に進んでさ、早めに帰れた。それより、どうしたの…春歌…」
音也の背中の向こうで扉が閉まる音がする。
「何がですか?」
「何がって…」
音也の手が春歌の顎を救う。視線が絡み合った。
やがてその手の親指が目の下をなぞるように目頭から目尻まで、優しく触れる。
「隈も酷いし、顔色も悪いよ?」
ちゃんと眠ってる?食事は?
そう問われて、彼女は気まずそうに目線を逸らした。
「…駄目なんです。そんなことしてる暇、ありません。歌が…音が…私から逃げていってしまう…追いかけないと……私は、音也くんの隣に居れなくなっちゃいます」
それは恋人としてではなく、パートナーとして。音也の楽曲は全て春歌が担うことになっている。
音也は、人気アイドルとなった。
ドラマにバラエティ…そして、新曲の話も持ち上がっている。
春歌が提供出来ないならば、言わずもがな他の誰かが彼に音を紡がせる。
春歌には、それが痛いほど辛かった。
決してそうなって欲しくはない。強い思いだった。
「だから、私は――」
震える声を漏らす春歌の唇に、それ以上言葉を紡がせないようにと、音也は触れるだけの優しいキスをした。
「俺は、そんな辛そうな春歌が作った歌なんて歌えない」
音也が抱き締めた身体は、いつもよりも細く感じた。
そして、静かに続ける。
「笑顔と、愛で溢れた幸せな君の歌を、これからも歌いたいんだ。
だから先ずは、笑って?
大丈夫。見つかるよ、絶対」
俺たちの、俺たちだけの―――
日だまり色が不釣り合いな大粒の雫を溢した。
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