『お帰りなさい』(1/1)
今日の仕事が全部片付いた深夜。
自宅マンションの地下駐車場に車を停めた俺は、自分の部屋の玄関前までやって来た。
けれど今日は鍵は出さずに、そのままドアを軽くノックする。
するとすぐにドアが開いて、先に俺の部屋に来ていたちとせちゃんが顔を覗かせた。
「櫂、お帰りなさい!」
「ただいま、ちとせちゃん」
自分も仕事で疲れているはずなのに、彼女はまるで花が咲いた様な満面の笑顔を俺に向けてくれる。
そんなちとせちゃんが、どうしようもなく愛しくて。
俺は玄関で靴も履いたままで、その華奢な体をギュッと抱きしめた。
幼い頃、家に一人でいる事が多かった俺には『ただいま』も『お帰りなさい』も縁のない言葉だった。
由貴は生まれてからほとんど病院で過ごしていたし、両親は仕事と由貴の世話で忙しくて俺が起きてる時間に帰ってくるコトはめったになかったから。
誰かに、何か言われた訳じゃない。
だけど幼かった俺は、いつも呪文の様に同じ言葉を繰り返していた。
『わがまま言っちゃダメ』
もう、由貴も両親も逝ってしまったのに。
それでもまだ、俺の心の片隅に、その呪文はずっと残り続けていたんだ。
だけどちとせちゃんと付き合い始めてすぐの頃。
ちとせちゃんがウチに来ていた時、急な用事で出掛けた俺を彼女は今日と同じ笑顔で出迎えてくれた。
『お帰りなさい』
そのたった一言が、照れ臭いやらむず痒いやら……だけど心の中がホワン、と暖かくなって。
………幸せな気持ちになった。
ちとせちゃんも、俺の反応に何か感じたのかな?
それ以来、俺の車で一緒に帰って来た時もたまに先に部屋にあがって、こうして俺を出迎えてくれる。
「………………」
わがまま言ったって、いいじゃないか。
甘えたい、優しくしたい、君を―――守りたいんだ。
それは全部、俺が大切に思う人が俺の傍らにいてくれるからこそ。
「……い、櫂!…そんなに力入れたら痛いよ……」
俺の腕の中で、ちとせちゃんが上目使いで俺を軽く睨んだ。
赤く染まった頬と潤んだ瞳に目を奪われて、俺はゴメンねと呟いてキスの雨を降らせる。
ねえちとせちゃん。
俺はもう一人じゃないんだよね。
『ただいま』 『お帰りなさい』
今度は、俺が君に伝えるから。
『俺の帰る'場所'になってくれてありがとう―』
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