例えば、目の前に海が広がってるとする。漠然とでかくて、すぐそこだと思った場所ですら、手が届かない。一歩足を踏み出すだけで、足を取られそうに波が渦を巻いて、暗い闇が俺を引きずり込もうとする。取り込まれれば、きっと二度と戻れない。そんな海に、自分から飛び込もうとする馬鹿なんているのだろうか。恐怖心もなくて、んな無茶な真似をして、命を落とす事すら知らずに、その一歩を踏み出すような人間がいるのだろうか。残念ながら、俺には出来ない。俺が其れをするには、もう、歳を取り過ぎてる。だから、この恋は無かった事にするに限る。なあ、そうだろ?俺がお前の、お前が俺の相棒でいる為には、これが一番いいんだろ。

「先輩……」
今まで以上の、幸せなんて知りたくは無かった。本当はこいつと笑うのが嬉しいだなんて、思いたくも無かった。なんてぼんやり、と思いながら、密着する身体を抱擁する俺は酷く残酷な事をしているような気がした。気がしてる、というのは逃げかも知れない。事実、これをこいつが知ったらきっと酷く傷付くのだろう。顔色一つ変えずに、また憎まれ口を叩いて、傷付いてないフリをするのだろう。そう思うと何故だか酷く愛しさが込み上げて、肩越しに感じる吐息に耳を澄ませる。擦り寄ってくる頭を掌いっぱいに抱き込んで、引き寄せて、「バニーちゃん」と茶化すように笑った。そうする事で、お前が、少しだけ不機嫌そうに眉を顰めててでも、顔を上げてると知っていたから。
おじさんはなあ、お前のその顔が好きだよ。可愛げの一つも無い顔して「なんですか」って言う素直なお前が好きだよ。そうして、また明日になれば、何もなかったかのように、「オジサン」と笑うお前が、本当は好きだよ。それでも、俺がお前から逃げるのは。そうだな、きっと俺は、怖いんだろうな。お前がこうして、俺の隣から居なくなってしまうのが。お前が俺の相棒でなくなるのが。それなら、このままの方がいいだろ。きっと、俺たちが付き合ったって、その先には何も無い。お前が想像してるような事は何も無いし、お前が期待するような事を、俺は何一つ、お前にやれないしな。だから、このままの方がいい。飯事みたいに戯れて、キスして、セックスして、明日の朝になれば全部忘れる。そうして、お前は俺が知ってきた結婚とか子供とか、そういう幸せを俺がいないとこで掴んで、俺はお前の中から消えていって、いつか俺とお前はまた別々になった時。じじいになってよぼよぼになった時でもいい。この日を思い出して、幸せだと思ってくれればそれでいい。俺みたいなオヤジがいたな、なんて、俺を思い出してくれたらそれでいい、なんて、虫がよ過ぎる話だけどな。
俺の望みはそれしかねえから。精々今の内に俺の感覚を覚えておけよ。唇だとか、こうして触れ合ってる掌だとか、体温だとか。絶対忘れるんじゃねえぞ。そう念じるように、頬を掠める耳元に唇を押し付ける。そして、滑るようにこめかみに口付けを落とせば、子ども扱いはやめて下さい、とむすくれた相棒が顔を上げた。思わず、ぶは、と零れる笑みが、唾ごと相棒の顔に噴き掛かる。汚いです。と、即座に顔を拭う相棒は可愛げの欠片もないのになあ。不思議な事に、どうしても怒る気にはなれなくて、ただただ、密着したままの身体を力いっぱい両腕で引き寄せた。悪かったな、わりい。耳元で、消え去るような声で吐き出す。何度も何度も。そうする事で、俺は多分救われたかったんだ。この謝罪は、お前に笑った事に対してでもないし、唾が飛んだ事に対してでもなかったと思う。ただ、お前が望むようなものを何もやれなくて悪い。何時か言わなきゃいけない別れを未だに言えなくて悪い。そんでもって、どうしようもないくらい、お前と二人で居れる事に幸せを感じてて悪い。それら全部をひっくるめての謝罪のつもりだった。お前にその旨が伝わったかは知らない。いや、きっと伝わってない。だって、お前は、何で謝るんですか、って笑ってまた俺にキスするから。また当分、お前に別れを告げられないのだろう。そうして、もう間近に迫った真っ暗な海に飲まれるまで、俺はお前の手を離せないのだろう。

例えば、目の前に海が広がってるとする。漠然とでかくて、すぐそこだと思った場所ですら、手が届かない。一歩足を踏み出すだけで、足を取られそうに波が渦を巻いて、暗い闇が俺を引きずり込もうとする。取り込まれれば、きっと二度と戻れない。そんな波が、俺の一歩を待たずして、俺を飲み込んでしまったら。
俺はその行き先を知らない。






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