▽
――違和感なく、部屋を出られただろうか。
ディーノは自問自答しながら、早足でマンションの共用廊下を歩いていた。その足が向かうのは、ロマーリオが待つキャバッローネの車である。
(あ、危なかった…!)
まるでスイッチが入ったかのように、あの橙色の瞳に、唇が吸い寄せられてしまった。そのまま彼女の唇を奪わずに済んだのが不幸中の幸いである。欠片だけでも残っていた彼の理性が、ギリギリ仕事をした結果、己の唇が向かう先を軌道修正し、いつもと同じ瞼に着地できた時には、生きた心地がしなかった。
美冬はなにか異様な空気を感じたのか、慌ててディーノから身を離そうと必死だった。その様はあまりにも可愛らしいものであったが、こちらとて内心では冷や汗をどっとかいていた。
あらためて振り返れば、あまりにも危うい橋を渡っていたな、としみじみ思う。
先程、美冬はこう言った。『最近、変です』と。
この一週間、油断すると、すぐに彼女を見つめる視線に熱を帯びてしまっていた。意識的に兄貴分としての顔を取繕わなければ、すぐに思慕が零れ落ちてしまいそうで、制御が難しく距離を取った時もあったのは、秘密である。まあ、そんな努力むなしく、美冬はその違和感に気が付いていたようで、最後の最後に問われてしまったが…。
ひとまず、この場はごまかせただろうか。
*
フォーマルハウトって知ってるか?秋の空にひとりぽつんと輝く一等星さ。
それは秋の夜闇に輝く道しるべだ。
誰もがその導きに惹かれて、見えない呪いに飲み込まれちまう。
*
CEDEFからの依頼で美冬を助けることを承諾したディーノは、その代償として彼女の情報を求めた。そうして沢田家光が切り出したのは、秋空に瞬く星の名前だった。
美冬の持つ能力と、その“呪い”をひっくるめて、彼女たちは歴代、その星の名で呼ばれてきたという。
最初にそれらを聞いた時、そんな御伽噺みたいなことがあってたまるか、とディーノは思った。だが、血脈は累々と続き、現に彼女はその能力を有する証として、橙色の瞳を持って生まれてしまった。なにより、半信半疑であったディーノがいよいよ信じるようになったきっかけは、美冬を救出した時のことである。
美冬の顔をした別のなにかが、確かにそこにいたのだ。
今だって完全に信じたわけではない。だが、沢田家光が言っていたことが真実だと知らしめるカードが、着々と手元に揃い始めている。現に彼はこの一週間の間に、その能力と呪いの片鱗をちらほらと体感していた。
もし、全ての真実が沢田家光の言う通りだとすれば、せっかく笑顔を浮かべるようになった可愛いひとは、いつか全てを知って悲しみの沼底に沈んでいくだろう。なにせ、美冬は何も知らないのだ。今更ながら、沢田家光が彼女を閉じ込めておきたくなる気持ちが痛いほどわかる。
「ああ〜…心配が過ぎるぜ…」
知らず知らずのうちの能力を使い続ける彼女は、歩くトラブルメイカーである。そんな彼女を野放しにしておくのは、あまりにも無謀といえる。
例えリボーンの目が近くにあるとはいえ、沢田綱吉との接触を彼女が意図的に避けている以上、リボーンの力が及ばないこともあるだろう。
現に、こうして美冬は事件に巻き込まれてしまったではないか。
彼女の性格がいくら慎重でも、能力は彼女を放ってはおかない。
最上階からの直通エレベーターで地上エントランスに辿り着いたディーノは、ため息を吐きながらロータリーに停車しいていた黒塗りの車に乗り込んだ。ふと、ディーノは、運転席で煙草をふかしていたロマーリオに打診した。
「なあ、俺も並中に潜入できねーかな」
「無理だろ」
「…だよな」
ディーノの発言からコンマ一秒も経たないうちに、ロマーリオはばっさりと切り伏せた。
わかっていたとはいえがっくりと項垂れたディーノを余所に、ロマーリオはしれっと車のアクセルを踏みこんだ。ぶるん、という音と共に、そろりと車が発進する。
「なんだか知らねーが、レディにいきなり距離を詰めるのはスマートじゃないな」
「そりゃ、わかってンだけどよ…」
ばつの悪そうな顔で、ディーノは乱暴にがしがしと髪をかきあげた。常時美しいご尊顔も、今はなんとも情けない表情を浮かべていた。ロマーリオは、バックミラーに写る己のボスの不甲斐ない顔は見ないふりをして、前方を見つめていた。すると、聞いてもいないのに、ディーノは勝手に語りだした。
「俺は“いい兄ちゃん”として、アイツを守りたい」
「いやいや…“兄ちゃん”とやらはもう無理だろボス…」
「無理じゃねーよ、やるんだよ!」
率直なロマーリオの感想に、ディーノは憤慨した。そして開き直ったかのように鼻息荒く言い切れば、ロマーリオはわざとらしくやれやれ、と肩をすくめてみせた。ロマーリオはミラーをちらりと見て、後部座席に座るディーノの様子を覗けば、口調とは裏腹に険しい顔のディーノが座っていた。
「積年の想い、なめんじゃねーよ」
ディーノはそうポツリとつぶやいた。
決して「それを言うなら“恨み”じゃないか?」などとはツッコまず、ロマーリオは無言のままにハンドルを切った。
季節は秋。
夜空に浮かぶ一等星の名は、フォーマルハウト。
人々を導くさやけき光を、人はいつしかその名で呼ぶようになった。
そんな星の名がつけられていることなど、柊美冬は、露も知らない。
鶺鴒は鳴く。
季節がまた一つ、巡っていった。