上階から響く元気な怒号と、ドタンバタンという騒音はしばらく続いた。
普通なら何事かと思うところだろう。だが、並盛中で平時よりドタバタに巻き込まれている柊にとっては、最早こういった騒音は日常的な環境音でしかない。彼女は何を気にするでもなく、厨房にある冷蔵庫からジュースを取り出し、食器棚からグラスを見つけ、ついでに取り皿も出して、客間の一角にセッティングを進めていく。
すると、ちょうど準備が終わるころに山本親子が二人揃って1階の店舗部分に降りてきた。
「いやあ、退院後さっそくプロレスに付き合わされちまったよ〜。若いもんは元気で困るなあ。」
「ハハ…」
誰も聞いていないのに勝手に語り始める父親と、遠い目をしながら乾いた笑みを浮かべる息子。二人の様子に特に深く思うところもなく、柊は「退院早々元気ですね〜」と適当な返しをした。
「おじさま、準備は整っています」
「じゃあ、厨房から料理運ぶか!美冬ちゃん手伝ってくれるかい?」
「はい!」
にか、と笑う剛に、柊はきらり!と目を輝かせる。
何の話だ、と二人の様子に山本が首を傾げていると、柊は「山本君は座っててくださいね」と彼をセッティングが済んだ客間に押し込んだ。
「え?ちょ、先輩?」
「主役は座っていてください」
「な、何の話っすか?」
柊美冬はにこりと笑った。
「今日は山本君の退院祝いですよ!」
「……え!?」
▽
宴を終え、後片付けがひと段落したところで。
薄暗い店内とは反対に、しらじらと蛍光灯が灯る調理場に山本剛は立っていた。
彼はめったに使うことのない黒い携帯電話を手にし、口を開いた。
「……おう。俺だ。頼まれたもんは渡しておいたぜ。三日分くらいはもつだろうよ」
その日の午後、退院する息子を迎えに行こうとした彼の下には、めったに連絡などしてこない、大変珍しい相手から入電があった。少し栄養のあるものを見繕って、ある少女に渡してほしい、という内容だ。
彼の息子はとある事件に巻き込まれ、怪我を負ってしまい、入院する羽目になった。
だが、同じく事件に巻き込まれたかの少女は、素性が素性なだけに、下手に入院して“痕跡”を残すわけにもいかず、自宅療養をする羽目になったのだ。最近やっとどうにか自力で外出できる程度には体力も戻ってきたが、まだまだ栄養は必要だった。
そこで、料理人でもある彼に白羽の矢が立ったのだ。
「まあ〜…質問攻めだったな。」
たとえば、煮物。
里芋と人参とレンコン、ごぼうと鶏肉を、出汁と醤油ベースで味付けした、ごくごく普通の煮物だ。晴れの日の料理としては一般的なそれも、彼女にとっては初めての食べ物だったのだろう。これはどうなっているのかと、メモを片手に彼に詰め寄ってきた。
ついつい気持ちよくなってしまい一番だしと二番だしの違いまで説明すると、彼女は唸りながらさらさらとメモを取っていた。(息子は呆れ顔でこちらを見ていたが。)
または、ちらし寿司。
寿司屋の威信をかけて作った豪勢なちらし寿司は我ながら傑作だった。彼女は「これは宝石ですか?」と真顔でじっと桶の中を見つめ、「目で味わわせる職人の技…日本文化はこれだからたまりませんね…」と感慨深げに一人呟いていて、息子と一緒になってついつい笑ってしまった。
「そんでまた美味しそうに食べてくれるんだよな」
息子の退院祝いは3人という小規模なものではあるが、それはそれは賑やかなものになった。何を食べても美味しい美味しいと顔をほころばせる彼女に、「これも美味しいから食べてみて下さい」と上機嫌で次々とおかずを渡す息子の甲斐甲斐しさたるや、涙ぐましいものがあった。
彼女は時折はっと気づいたように「山本君が主役なので主役がたくさん食べるべきでは」と言うのだが、「俺はもう腹いっぱいなんで」と息子は眩しそうに目を細めて彼女を見つめるのだ。
「…ウチのを見ていると不憫になったわ」
ウチの。それは、彼の息子のことであった。
「わかってるぞ、アンタの思惑は」
それまで楽しそうに喋っていた声色が、急に渋くなる。
彼には、息子に伝えなければいけないことがある。
それがいつの日になるかはわからない。もしかしたら、だいぶ先か、もしかしたら伝えないまま終えるのかもしれない、なんて思った時期もあった。
だが、中学に入った息子に、新たな友達が出来たことで、その日はあれよあれよと近づいてきた。そして彼女が現れたことで、おそらくその日はもう目前に近づいているのだ。
それもこれも、電話の相手が、仕組んだことである。
「よくもまあ、巻き込みやがって」
出来れば、手塩にかけて育てた息子には、青空の下で楽しく白球を追いかけていてほしかった。けれど、それは最早、どうにも叶いそうにない願いである。
彼が継承してきた心と技を伝えた時、息子はもう、一般人には戻れなくなる。
例え青空の下で、どんなに明るくふるまっていたとしても、心のどこかに巣食う闇を感じずにはいられなくなるのだ。
(武には、出来ればそんなこととは無縁でいて欲しかった)
だが、その日はもうすぐそこまでやって来ているに違いない。
今日、少女が見せた奇異に居合わせた山本剛は、直感していた。息子も、そして彼女本人も気づいていない、ごくごく小さな奇怪。それは、近いうちに二人が運命に絡めとられて、身動きが取れなくなる予兆だった。
「だいたい、何も知らないあの娘にこんなことさせやがって…」
あの様子では、彼女自身も、身に起きつつある異変に気がついていないのだろう。無意識下で発動する能力を抑えきれず、全てが混濁したまま、彼女から漏れ出ているように見えた。能力を扱いきれていない者を放り出すことの恐ろしさを、電話の奥にいる男は十二分に分かっている筈なのに、どうして彼女を管理しないのか。
「アンタ、いったい何を考えてんだ…あの子、アンタの娘だろ?」
もし自分の子どもがあの状況だったら、まずは保護しなければいけないと考えるだろう。山本剛は、剣士としてではなく親として、ついつい辛辣な言葉を投げてしまった。
すると、何を言われても笑いを絶やさなかった電話の向こう側が、すう、と底冷えした空気を纏った。そうして、嘆いているんだか悲しんでいるんだかよくわからない、鷹揚とした声が無機質な携帯電話から響いてきた。
『あれは俺の娘じゃないよ。ちょっとした預かりものだ。』