ととと、と階段を降り、外靴に履き替えて、柊は玄関口から校庭に回り込む。秋の入り口とはいえ、まだまだ日差しは夏真っ盛りだ。ジージーと暑苦しく鳴く蝉の声を聴きながら、柊は慌てて現場に向かった。
昼休みも始まったばかりで、人影はまばらだ。目撃者が少ないのは幸いだった。
何せ、2年A組のダメツナこと沢田綱吉と、風紀委員兼図書委員長の柊美冬には、関係性があっては困るのである。観察対象と観察者、その距離は遠ければ遠い程、良いに越したことはないと美冬は考えていた。
(……近ければ近い程、情に絆されてしまうかもしれない)
たとえば、隣の席の笹川了平のように。長い時間を共に過ごす羽目になっている雲雀恭弥のように。距離が近い人間ほど、柊美冬は甘くなってしまう自分に気が付いていた。
しょうがないなあ、なんて言いながら手伝ってしまう自分がいるだなんて、イタリアにいた時には気が付かなかった。時間や業務に余裕があれば引き受けるが、無理な時は無理だと断っていたほどだ。それが今となってはこの有様である。これもひとえに、これまでにない程近い人間関係が生んだ状況といえる。
(手伝いたい、と思う人がいるなんて)
じくりと、肩口の傷が痛んだような気がした。
さて。
「……完全に気を失っていますね」
先程放り出された格好とおなじ状態のまま、沢田綱吉は気絶していた。美冬は、致命傷を与えたハードカバーの蔵書を回収してから、ひっくり返っている沢田の横にしゃがみ込む。
きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないことを確認した美冬は、沢田の柔らかな茶色の髪をそうっと掻き上げた。指に絡む柔らかな髪にドギマギしながら、美冬は先程与えた致命傷を探した。
「うわ…」
頭頂部には思いっきりこぶが出来て腫れ上がっていたが、皮膚から血が流れだすような大惨事には至っていないのは幸いだった。男たちに殴られた頬の腫れの方がよっぽど痛そうで、切れた唇からは血が滲んでいる。
「もうちょっと早く助けられれば良かった」
そう言って、美冬は怯むことなく唇に滲んだ血を指で拭った。
沢田の頭頂部に本を落としたのは意図的だ。
誘拐犯に囚われた被害者の脚を銃で撃ちぬくことで、犯人は被害者を連れて逃走することを諦め、結果的に被害者は救われた…という有名な事例がある。CEDEFの人間は、万が一自分が捕まることで利用されるようなことがあれば、躊躇せず自分の足を撃ち抜くよう訓練されているが、美冬もまたその一人だ。
今回は沢田の意識を失わせることで、結果的に彼を救えたわけだが、余計な傷を負わせてしまった。美冬はしょんぼりとしながらそうっと沢田の髪を梳いた。すると、苦痛のまま固まっていた沢田の表情が、幾分か和らいだように見える。
「…ごめんね、綱吉君」
そうして、美冬は手を退けて立ち上がろうとした時である。
背後より「あれ?美冬先輩?」と声が聞こえた。
「!?」
「こんなところでどうしたんですか……って、ツナ!?」
呼ばれるまで、気配を感じ取ることは出来なかった。慌てて振り向いた柊の前には、制服姿の山本武がいた。彼は柊の足元で地面に伏している沢田綱吉の姿を見つけ、素っ頓狂な声を上げた。
(ま、まずい)
山本が沢田に駆け寄った瞬間、柊はさっと本を後ろ手に隠し、「図書室にいたら声が聞こえたので…」と間違ってはいない事実を口にした。
「ツナ、どうしたんだよ!?こんなにボコボコにされて…」
「なんか、夏祭りのときはよくも、とか、許さない、とか言ってましたよ。」
山本は気絶した沢田の頬に出来た殴打痕を見て嘆いた。
そして、柊はまたしても、間違ってはいない事実を述べた。
「…あいつらか。ひでえことしやがって。」
「………」
殴ってたのは確かに彼等ですが、気絶の主な原因は私です。
……とは決して言えず、柊は「山本君が来たなら大丈夫そうですね」と一歩足を退いた。すると、目敏い山本は柊の手にしている分厚いハードカバーに気が付いた。
「先輩はどうしたんですか?その本…」
「えっ!!い、いや、図書室の真下で、騒ぎを見てびっくりしちゃって、本を落としちゃって」
「ふーん…?」
慌てて言い募るが、山本は首を傾げてじっと柊を見つめた。
(こ、怖い…)
なにせ、目の前にいるのはやたらと勘のいい男だ。図書室からの柊の視線に気が付いて乗り込んできたくらいである。柊の嘘など、すぐに見破られてもおかしくはない。柊は内心ダラダラと冷や汗を流すが、山本は暫く考えた後、「ま、いーや。また今度」と思考を切り上げたようで、視線を足元の沢田に移した。
「俺はコイツ、保健室に連れて行きます。あ、コイツ、友達のツナっていうんだ。今度紹介します。今はこんなんだけど、コイツホントはすげーヤツなんですよ」
にかり、と笑った山本は沢田の肩を担いで、立ち上がる。「しっかりしろツナ〜」と声をかけながら沢田をひきずり、沢田はう〜ん、とかむにゃむにゃ、とか、口をもごもごさせているあたり、覚醒は近そうである。
柊はひらりと手を振って、二人を見送った。
その胸に反芻するのは、山本の言葉である。
“コイツ、ホントはすげーヤツなんですよ”
「……知ってますよ、そんなことは」
そのまなざしは、どこまでもまろく、やわらかい光を帯びていた。