柊美冬は落ち着いた様子でこちらを見下ろしている。
身体はあちこち痛むが、ところどころ手当てがされている。雲雀は、それが彼女によるものだとすぐに察した。
「今、何時?」
「さあ、私も気を失っていた時間があったので、正確にはわかりません。……入光角度を見るに、夕方前のようではありますが」
「……君はスパイか何かなの」
「えっ!?な、何言ってるんですか?!常識ですよこんなの」
「……」
明後日の方向を向く柊に白々しい目を向ける。女子中学生は入光角度から時間を割り出すことはそうそうできないし、こんなに的確な処置も出来ない。彼女の常識の範疇が疑われる中、ここで雲雀恭弥はやっと気が付いた。
自分の頭の下にあるものがコンクリートではないことに。やわらかなそれは、春の日に一度だけのっけたことのあるものだった。
そこで雲雀恭弥は思い出した。
忌々しくも、戦いに敗れたことを。
膝をつくことなんてしたくなかったのに、あちらは雲雀恭弥の弱点を的確についてきた。桜を見ると激痛に見舞われるなんて、情けない。
苛立ちにぎしりと歯軋りをすると、柊美冬が苦笑いを浮かべる。
「…四方はコンクリートに囲まれています。外部と接触できそうなのはあかりとりの小さな窓ですが、人間の出入りは出来ませんね。先程、小さな鳥が出入りしていましたが…」
「あの扉は?」
「外から鍵がかけられていました。扉はコンクリート製で穴をあけるのは困難、鍵は音からして、おそらく南京錠と思われます。なかなかいい牢屋ですね、ここは。」
雲雀がすぐにでも飛び起きてリベンジをしようとするのを察したのだろう。言外に、そう簡単には逃げられませんよ、と言われてしまう。
どうやら、柊は彼が気を失っている間に、いろいろとこの部屋のことを調べたのだろう。いつも紅茶を淹れていた彼女の手指は今や泥で汚れ、べっとりと血がついている。扉には妙に新しそうな泥の手形が見え、彼女が何かしら、脱出のための努力をしたことが察せられた。
泥と血に汚れた手。
腕も足も擦過傷だらけ。
頬はすっかり腫れあがっている。
「…きみ、こんなところで、なにしてるわけ?」
まるで、当たり前のようにいるけれど、ここは敵地ど真ん中である。柊美冬は今頃並盛中で大人しく図書当番でもしているか、まっすぐ家に帰っているべき人間だ。
こんな姿で、この場にいるということが何を意味するのか。考えただけで頭が痛い。
問うた声は地を這うように低くなり、こんな状況でも平然と受け答えしていたはずの柊は、途端に「ひぇ」と小さく声を上げた。
「なんといいますか、成り行きと言いますか」
「勝手にこんな傷までつけられてさ」
雲雀恭弥は手を伸ばす。
目の前で、こちらを見下ろしている柊美冬の頬に触れて、そうっと撫でると、ぶるりと柊が身震いする。
「なんか向こうの気に障ることを言ってしまったらしくて、」
「ああ、君けっこう無神経だしね」
「それ雲雀先輩が言いますか?」
柊は小さく憤慨した。
一方的に、あんなに冷たく突き放してしまったのに、まるで、夏を迎える以前のようなやりとりに雲雀はついつい可笑しく思えてくる。いかにも不愉快そうな面を晒す彼女の頬を撫で上げると、くすぐったいらしく、身動ぎをする。まるで猫の機嫌を取っているような心持だ。
あんなにも触れたいと思って、遠ざけたのに。
いざ触れてみれば、なんと。
「…ねえ」
「はい?」
「並盛に帰ったら、欲しいものがある」
「それなら、草壁さんにご相談されてみては?」
真顔で首を傾げた柊に、雲雀はただただ笑った。
「相談先は、君がいい。」
「え」
柊の目が、これでもかという程に丸くなる。それって、と言いかけた柊の唇を、雲雀は親指で封じた。顎に指を添え親指で唇に触れる様子に甘い空気が流れるのか……と思いきや、雲雀恭弥は力づくで顎を掴み、咥内に親指を押し入れるのではないかという勢いで押し付ける。
「んぐ〜〜〜〜っ!!!」
「君にある選択肢はYes、か、はい、だ」
「!!!!(どっちも同じじゃないですか!!)」
「わかった?」
突然の無体である。
口を封じたうえに、選択肢のない選択権を与えるという所業。本来ならば、六道骸に負けて弱っている筈なのに、彼の目は妙にギラギラとしていて、身体を預けられているはずの柊のほうが、身の危険を感じている始末。
(だ、だめだ、ここで頷かなければろくなことにならない…!)
本当は。
一方的に突き放された雲雀に、どんな顔をすればよいのか解らなかった。まして、CEDEFとしての彼女が六道骸の入国を見逃したことによって、本来ならば関係なかったはずの雲雀までこんな事件に巻き込んでしまった。合わせる顔もないとさえ、思っていた。
それでも、雲雀が覚醒する時はいつかやってきてしまう。
だから、いつも通りの、彼が必要としていた、有能な自分を演じることにしたのに、話そのものが、妙な方向に転がっていく。
予想外に優しく触れられてこちらの調子は狂い、対する雲雀は起き抜けよりも格段に元気になっていく。そして謎の交渉と来た。
(ええい、しょうがない…!!)
わかりました、と言わんばかりに、柊はこくこくと首肯した。
すると雲雀は、「約束だよ」と満足そうに頷いて、唇から指を離す。やっと解放された柊はジンジンと痛む顎を擦った。すると、柊の惨状など我関せず、雲雀はぽつりと呟いた。
「決まりだね」
「…へ?何がですか?」
「さっさとこんなところ出て、アイツを倒す」
……いやいや、さっきあなたボロボロにやられたんですよね。相手、能力不明のマフィア関係者ですよ?どうやって戦うんですか。
矢継ぎ早に柊の頭にはこんなセリフが流れる。
だが、雲雀恭弥の瞳にはすっかり平時の“強さ”が戻っていて、柊は口を噤んだ。
雲雀は柊の腿から身を起こして、ひとつ、伸びをした。
「ふわぁ、よく寝たな」
「…ええと、おはようございます」
「おはよ」
そこは、廃墟にある牢獄だった。
雲雀恭弥も柊美冬も、決していつもの身綺麗さではなかった。二人はボコボコのドロドロ、酷い有様で、冷たいコンクリートの床に座り込んでいた。
だが、それはまるでいつもの、並盛中応接室で行われる、朝のやりとりのようだった。
「帰ったら、紅茶淹れてよ」
「…?わ、わかりました」
「飲むなら、美冬が淹れたのが、一番いい」
腫れて自由が利かないはずの美冬の頬は、自然と緩んだ。何処までも透明な橙の瞳が、きらきらと光を湛えて細められる。
美冬はこの日のことを、きっと一生忘れないだろうと思った。雲雀恭弥はこの時初めて、彼女の名前を、呼んだのだから。
§星をめぐる、overtune