廿伍ノ参

寝ぼけ眼の笹川了平は、くぁ、と欠伸をしながら妹の名をよんだ。
手指の先から足の先まですっかり全身を包帯で巻かれた姿はミイラ男のようである。痛々しい姿に柊はズキリ、と痛む気持ち抑えながら、そっと笹川の横に立った。

「ん?柊じゃないか!見舞いに来てくれたのか!……ん?京子はどうした?」

笹川は、ここでようやっと柊の存在を認識して声を上げた。柊は京子から預かっていた花瓶をサイドテーブルに置きながら、先程のやり取りを浮かべた。

「京子ちゃんはお母さんからおつかいを頼まれたそうで」
「そんなのあっただろうか…?」
「お菓子を買ってくると言ってましたよ」
「……?」

笹川は眉根を寄せて考え込むような表情を見せたが、「わからん」と漏らした。柊は、京子に頼まれて彼女が帰ってくるまでここに居る、と説明すると、笹川は「助かる」と笑顔を向けた。

「……あの、怪我の具合は?」
「なに、たいしたことじゃないさ。三日もすれば治るだろう。」

柊の問いに笹川はいつもと変わらずに明快に答えるが、どう見ても重傷である。サイドテーブルに残されていた診断書に気が付いた柊は、勝手ながらその中身に目を走らせた。

「あっこら…!」
「完全骨折6箇所、不全骨折7箇所…これのどこが三日で治るんですか」
「気合いだ!なんたってボクシング部の秋大会まで日が無いのだ!いいか柊、完治した暁には休みを取り戻せるような過酷なトレーニングを組んでくれ」
「いやいや、あのね…」

確かに、秋大会は再来月と迫っているが、今はそれどころではない。なんなら出場だって危うい状態だ。笹川了平はこの大会に向けて長々と頑張って来たというのに、何故こんなことになってしまったのか。


「いったい、なにがあったんですか」
「あ〜……銭湯の煙突に登るトレーニングをだな……」
「私そんなメニュー組んでません」


京子についた嘘を、そのまま話そうとする笹川に、柊はぴしゃりと言い放つ。うぐ、と笹川は詰まってしまう。


「私は、貴方の身体を預かるトレーナーです。なにがあったか、知る権利があります。」


柊美冬は、じっと笹川を見つめた。
まなざしから有無を言わさぬ圧力を感じ取った笹川は、むぅ、と困ったような表情を浮かべ、やがて観念したように目を閉じた。


「……京子には言うなよ」
「はい」




観念した笹川了平は、ぽつりぽつりと朝の出来事を話し始めた。







朝。
いつもの河原でストレッチをしていた笹川は、いつまで経っても現れない柊が寝坊したことを悟り、独りでロードワークに向かった。
住宅街に入ったあたりで、何者かに喧嘩をふっかけられ、殆ど反撃も出来ずにボコボコにされてしまい、歯を抜かれたという。

「相手、見たんですか?」
「そうだな、歳のころは俺と同じくらいだろうか。」
「特徴は?」
「見慣れない制服を着ていた。あとは、こちらのことを知っている風だった」

名前を呼ばれたし、何かを探しているようすであった。
笹川の情報を総合すると、彼は意図して狙われ、意図して歯を抜かれた、ということになる。


(どういうこと…?歯を抜く目的とはなに?)


「あれはそこらへんの中学生じゃない。むしろ、中学生じゃないのかもしれない。」
「…?」
「なんというか、迷いがなかった。普通だったら、人を殴ることにはためらいがあるものだが、あの拳には一切の遠慮がなかった。」


普段の笹川からは想像も出来ないほどに神妙な面持ちで、彼はそう朝の出来事を振り返った。
無差別なわけではない。だが、周囲に被害が及んでも気にしない。目的のためなら容赦なく人を踏みにじることができる合理性と残忍性。柊美冬は、その性質の持ち主をよく知っていた。

(……まるで、マフィアのやり方ね)

この平和な日本・並盛町には、風紀を取り仕切る一匹オオカミはいても、無慈悲で残忍なマフィアは存在しない。これまでずっと、そう思っていた。
これが仮にイタリアンマフィアの仕業だとしたら、一般人を巻き添えにしたやり口は業界の中でも到底許されるものではない。もし相手がマフィアであろうものなら、“CEDEFの美冬”として犯人を探し出して、彼女の持ち得る全てを差し向わせて根絶やしにしてやるところだ。

笹川了平ならびに、並盛の平和を脅かす者を、“柊美冬”は赦せない。

それに、たかだか寝坊なんかでその場にいられなかった自分自身にも、苛立ちが募る。


「…そんな顔をするな」
「え」
「お前に非はないさ」


彼女が何を言わずとも、笹川了平は察していた。
にかり、と笑った笹川に、いよいよ居た堪れなくなった彼女はぽそぽそと心情を吐露する。


「私がいれば、こんなことにはならなかったんじゃないかって」
「…柊、」
「襲われる前に、誰か大人を呼んでくることは出来たかもしれなくて」
「……」
「私、なんで寝坊なんか…っ」


それは、笹川が襲われたと知った時から、彼女が薄々思っていたことである。
起こってしまった事象に対してのたられば論など、全く無意味であることをCEDEFの『美冬』は知っている。
だが、笹川了平の友人である『柊美冬』は、ドライにはなれなかった。
これまでに彼が努力してきたことを傍で見続けてきた彼女は、選手生命さえ危ぶまれるこの危機を、冷静に流すことが出来なかった。

次第に俯いていく顔にかける言葉も見つからず、身動きが取れないために彼女を制することも出来なかった笹川だが、柊の言葉が出尽くした後に、ぽつりと呟いた。



「……正直、俺はお前が居なくてよかったと思ってる」



柊は、その言葉に顔を上げた。


「それは、どういう…」
「あの場にお前が居たら、俺はお前を守り切れなかったかもしれん」


笹川は淡々と宣った。
その時の戦いのことを思い起こしているのだろうか、その瞳は中空を見つめたままだ。雲雀に負けては「解せぬ!!」と悔しさに怒り狂っていたあの暑苦しい男が、これほどまでに淡々と戦いを振り返る、その事実に、柊の背は凍る。


「必要があれば、周囲の人間にも容赦なく危害を及ぼすような奴だった。俺はきっと、自分の守りで精一杯で、お前のことを守れなかったに違いない。」
「そんな……っ」


常々最強のボクサーを目指している男の完敗宣言は、柊をも打ちのめした。
だがここで、笹川の回想は終わったのだろう、彼は目を閉じてすぅ、と一呼吸置いた。


「……より強くなって、次はお前ごと守るさ」


そう言って目を開けた笹川は、ここでようやっと柊の顔を見た。
ばちり、と視線が合えば、彼はそれはそれは穏やかな、陽だまりのような顔で笑った。


「頼むぞ、柊」
「……わかった、まかせて」




彼の方が、よっぽど次を見据えているではないか。

冷え切って震えていた柊のこころの奥に、ほわりとあたたかな灯がともる。
胸の中を占めていた畏れは、いつの間にか、その奥をぎゅうと絞るような静かな痛みへと移ろいゆく。あたたかくて、苦しい。嬉しくて、申し訳ない。
交差する痛みと感情に、柊美冬はふと、昨夜、寝る直前のことを、そしてあの春の日のことを思い出した。


頬に彼の背中の熱を感じながら、もしくは温かな掛布団の中で。

閉じ行く瞼に逆らうこともせず、夢うつつに彼女はこう思った。






(笹川君、“ごめんね”)







やっぱり私は、あなたがいい。









×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -