クロコダイルが怪我をしたのは、本当に些細なことが原因だった。たまたま目についた花瓶に手を伸ばし、たまたま花瓶が倒れて水を被った手で、割れた破片に手を伸ばしたら、指がざっくり切れただけの話だ。
 久しぶりに血を流す傷口を呆然と眺めていたら、部下でもあり恋人でもあるナマエが資料を持って部屋に入ってきた。そしてクロコダイルの様子に気がつき、ばさばさとその資料を落とした。任せていた重要な資料が床にひろがっていく。クロコダイルが眉間にシワを寄せて、何をしてやがる、さっさと拾え、と言葉を紡ぐよりも早く、ナマエがクロコダイルに近寄ってきた。そして腕をばっと掴まえる。ケガの状況を見ると、ほんの少し顔をしかめた。


「……そっち、座って」


 顎で指示してきたナマエに文句を言いたい気持ちもないわけではなかったが、今はただその指示に従うことにした。ナマエはクロコダイルをソファに向かわせると、救急箱を取りに行った。
 そうしてぼんやりと手を見ていると、ナマエが戻ってきた。特に言葉を発するわけでもなく、床に膝をついたナマエはクロコダイルの手を取って黙々と手当てをしている。滅多に傷を作ることもなくなったためにこうしてナマエが手当てをする姿を見ることも、随分、久しぶりのことだ。
 クロコダイルの手当てをするのは、いつだってナマエだった。何があってもその手を離さずに進んでくれた、たった一人の男であるのだから、当然と言えば当然だが、


「終わったよ」


 ナマエの声が思考を遮った。既に救急箱は片付け、さきほどばらまいた資料のところへとナマエは向かっている。クロコダイルはソファから立ち上がり、いつもの席へと戻った。そこに資料を拾い集めたナマエがやってきて、説明もなく資料をデスクにおき、「花瓶、おれが片付けるからそのままにしておいて」と言葉を残して去ってしまった。
 ……ナマエは怒るとき、嫌なことを極限まで我慢して隠し続け、それから唐突にカーッと強烈に、それはそれは苛烈に怒るというタイプだ。それまでは一切嫌だということを告げてこない上、態度にも出ないので、クロコダイルはそんなナマエをとても面倒に感じていた。もっと早くに言えばいいだろうと思っているし、そう告げたこともある。けれど言えば苛烈さを増した怒りが長引くだけで、いいことなど一つもなかった。相手がナマエでなければ処分してしまいたくなるほど、すこぶる面倒な性質である。
 しかしながらクロコダイルもいつしか慣れきってしまい、怒ったナマエを軽くいなして聞き流しているばかりだ。カーッと吐き出したそのあとはスッキリしたのか機嫌もいいし、怒っている間だって文句を言ってはいるものの、改善しろと強要するわけではなくただ愚痴を吐き出しているだけのことなので、頷いて聞いているふりさえすればどうとでもなってしまうのである。


「……」

「……」


 そんなナマエが、ただただ怒りの感情を振りまいている。文句を言葉にするわけでもなく、クロコダイルに詰め寄るでもなく、ただ黙々と作業をしながら怒っていますという空気を醸し出しているのだ。仕事中に無駄口を叩くような男ではなかったが、それでも無口というわけでもないナマエが、黙ったままで怒りを振りまいているというのは、それなりの精神的負荷をクロコダイルに負わせていた。
 ……いつものナマエが、どれほどマシだったかということを、クロコダイルは今日思い知った。黙って怒りの感情を漏れ出させている相手が同じ部屋の中にいるというだけで、クロコダイルまで不快な気持ちになってくるというものだ。そもそものところ、プライベートでのクロコダイルという男の沸点は非常に低い。それをわかっているだろうに、ナマエはひたすらに感情を漏れ出させているとなれば、おのずと結果は見えてくる。
 あまりにも苛立ちが増していき、機嫌がある一定のラインを越えた瞬間、クロコダイルは手元にあった灰皿をナマエへとぶん投げた。力のこもった投擲は一直線にナマエへと飛んで行き、そして難なく受け止められてしまった。灰一つこぼすことなく受け止められたそれをクロコダイルのデスクに戻しに来たナマエは、何をするんだと文句を言うことも、目を合わせることも、危ないと注意をすることもなく灰皿を置いて自分のデスクに戻ろうとして──クロコダイルの怒りを完全に買った。


「おいテメェふざけんじゃねェぞ、何が気に入らねェ」

「……なんの話?」

「わかってねェとは言わせねェ。機嫌が悪いのはよそでやれって言ってんだ。それとももっとわかりやすく言わねェとわかんねェか?」


 話しかければ言葉を返すが、不機嫌そうな顔には変わらなかった。真正面から目が合って、クロコダイルは息を呑む。……冷静に怒るナマエの顔を、初めて見たのだ。いつもの苛烈な、うるさい怒りとは違う、静かな怒り。デスクの向こうにいたナマエは、ゆるりと足を進め、クロコダイルの横に立った。それをクロコダイルは見上げる。
 「ああ、わかってるさ」。ナマエの唇が吊り上がる。けれど決して、目は笑っていなかった。ナマエは手を伸ばし、クロコダイルの顔に触れる。


「わかってないのはお前だからな、クロコダイル」


 その言葉だけ吐き捨てて、ナマエはすぐさまクロコダイルから手を離した。……ナマエは普段、クロコダイルに対してこんな態度を取るような男ではない。へらへらとしているわけではないが、基本的には穏やかで笑顔を絶やさない男なのである。にもかかわらず不機嫌そうな態度でデスクに戻ったナマエを、クロコダイルは呆然と見送ることしかできなかった。
 ……何が分かっていないというのか、何が悪いというのか、言われなければわかるはずもない。それに今日、クロコダイルがナマエに一体何をしたというのか。今日犯した失態など、手を切っただけだ。それ以上のことは何もしていない。手を切ったことにしたってクロコダイルの何が悪いというのだ。落として割ったくらいで怒ったりするような男でもないではないか。
 普段見ない姿に一瞬ばかり気を取られたが、クロコダイルは胃の中がムカムカとして、またとてつもなく腹が立ってきた。「おい」と声をかけ、こちらから苛立ちをぶつけてやろうとして、「何?」と冷たく返されて、思わず口をつぐんでしまった。ナマエはため息をついてもう一度言葉を繰り返した。


「何か用?」


 なじるように言葉をぶつけられて、クロコダイルは言葉に詰まった。腹が立っていて、自分は言葉をぶつけるべきだとわかっているのに、そうするのが当然なのに、どうしてもナマエをなじる言葉が出てこなかった。
 「 、  」小さな声でつぶやいた言葉に、はっとする。自分は何を言っているんだ、と戒めようと思ったのに、小さな声は届いていなかったようで、ナマエは不機嫌そうに「仕事に戻っていいか?」と無関心な言葉を吐き捨ててくる。だからもうたまらなくなって、


「悪、かった、って言ってんだろッ!」


 クロコダイルの声に、ナマエは目を点にさせて、呆然とした顔を見せた。息の荒いクロコダイルを見つめたまま、二、三度まばたきをする。そして、ゆっくり目を閉じて長い息を吐き出したナマエは、同じようにゆっくりと目を開いて、いつもと同じ穏やかな顔に戻った。クロコダイルの方へと近づいていき、申し訳なさそうに苦笑いを作った。


「………………あー、その、……なんかごめんな?」

「……ああ、本当になッ!」


 羞恥からクロコダイルがぶんッと勢いよく鉤爪を振り回す。けれどナマエはそれを灰皿のように難なく受け止め、再度謝った。到底許す気になっているわけもなかったが、苛立ちはクロコダイルの心からすっかり消えていた。それでもギロリ、ナマエを睨んでおく。ナマエは困ったように笑っていた。

さっさと甘やかしてくれる?

クロコダイルで、普段は激昂するタイプの夢主がマジギレして静かに怒る→仲直りする話@誠さん
リクエストありがとうございました!



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