愛人契約番外編/頂上決戦後から一味再結成までの間


「クロコダイル、これ行きたいんだけど」


 ナマエが一枚の紙をぺらりと見せてくる。どこに行きたい、何をしたい、何が欲しい、という欲望をあまり見せないナマエにしては珍しい要望だった。紙を受け取って内容を確認すれば、近くで行われる個展について書かれていた。安っぽい紙に、安っぽい印刷。だが確かに目を引くデザインであることはわかるし、ナマエが気に入るのも納得が行った。
 しかしクロコダイルが個展のことを把握する前に、引きこもりがちなナマエが知っているというところに違和感を覚えた。


「どこで手に入れた」

「さっき散歩してたらチラシもらった。結構よくないか?」


 どうやら勝手にうろついていたらしいことを知って、クロコダイルの機嫌は下降した。それでも既に始まっている個展に一人で行かず、誘いに来たのは悪くない。及第点には足りない気がしたが、今回は許してやってもいいだろう。


「お忍びしようぜ、お忍び」

「は?」

「有名人がサングラスとかかけて変装しながら行くやつあるじゃん? 小さい個展みたいだし、騒がれないようにシンプルな格好で行こうぜ」


 言いたいことはなんとなくわかったが、ナマエのテンションが上がっている理由がよくわからなかったし、変装して隠れるようにこそこそするのはクロコダイルの矜持が許さなかった。戦略的撤退はあっても、逃亡はあり得ない。ナマエに言わせれば同じものでも、クロコダイルにとっては全く違う行為のように、遊びでも変装の真似事をするのはごめんだった。
 それからサングラスに対しては割と不快な感情がウェイトを占めている。あの馬鹿笑いを思い出して、クロコダイルの眉間に皺が寄った。


「サングラスは却下だ」

「夏っぽいじゃん」

「却下」


 だがこだわっているようでもないようで、ナマエはすぐに諦めた。夏なのに、ともう一度呟いてはいたが。
 クロコダイルは夏という言葉で、ふとナマエの格好を想像する。夏。たなびくワンピース。肩にはストール。つばの広い帽子。
 ありきたりな格好だったが、ありきたりということは受けがいいということでもある。クロコダイルはソファから立ち上がり、ナマエのクローゼットに向かった。ナマエが不思議そうな顔をしながら後ろをついてくる。シンプルながらも品のある服と帽子を選んで、装飾品は首元を彩る細いチェーンのネックレスと薬指を埋めるリングを取り出した。


「ん? おれが着るん……だよな?」

「当たり前だろうが」

「じゃあおれに合わせて爽やかな格好で頼むぞ」


 一式を渡されたことで自分の意見が取り入れられたと理解したのだろう。ナマエは楽しそうに笑って支度をし始めた。
 一方、クロコダイルはナマエの言葉に顔を顰めていた。爽やか。クロコダイルに合わない言葉の一つだろう。むしろナマエに言い寄っているあの海軍将校の方が似合う言葉だ。ナマエがクロコダイルと並ぶと悪役にさらわれた悲劇のヒロイン然としてしまうが、あの将校と並べばお似合いのカップルと言った雰囲気である。
 だがその兄の馬鹿笑いよりはまだ爽やかさはあるだろうとその思考を切り捨てた。別にナマエは爽やかな人と歩きたいわけではなく、夏に相応しくない暑苦しい服はやめて、ナマエに合わせた範囲で着ればいいだけだ。

 互いに支度が済み、顔を合わせるとナマエが目を細めて笑った。


「お、いいな。結構爽やかだし似合うじゃん」

「お前もな」

「クロコダイルが似合うように選んでくれたんだから当たり前だろ?」


 無論、その通りだ。だが、自分で思うのと他人に言われるのでは随分と違って感じるものだ。衒うこともなく、自然とクロコダイルを信頼しているような物言いをするものだから、思わず身体がむず痒くなる。
 正確に言えば、クロコダイルの美的センスに対する信頼なのだろうが、それがナマエの基点だとわかっているからこそ、むず痒さまで心地よいとすら感じてしまう始末だった。


「ナマエ」

「ん? どうし、」


 口を塞ぐとナマエは目を丸くさせて驚いていたようだったが、すぐに口を離せば困惑した表情に変わってしまっていた。いつものことだが、ナマエは自分の言葉にどれほどの力を持つかを理解していないらしい。


「出かける前にキスすんのはやめような?」

「ついてんのか」

「なんとなく色ついてる……か?」

「ならいい。行くぞ」


 触れただけなので、口紅が大きくずれるほどのキスではなかったが、ナマエは自分の化粧よりもクロコダイルの口が気になっているようだ。よく見ればわからない程度であれば、問題ない。どうせそんな距離まで近づくのはナマエだけであるし、注視してくるような相手であれば、ナマエとの仲を理解させるには十分だろう。

 拠点としている屋敷を出て、二人並んで歩いていく。わざわざ腕を組んだり、手を繋ぐことはないが、距離が近いことには変わりがないので親密さは伝わることだろう。
 比較的近くにあった個展会場は、こじんまりとしたところで、クロコダイルにはいくつも作品があるようには思えなかった。チラシの紙はたしかによかったが、ここの作品がそうとは限らない。いまいちだったらこのままどこかに出かけて、気を紛らわすのもいいだろう。


「い、いらっしゃい、ま、せぇっ!?」


 ナマエの顔を見たときにはどぎまぎしながらも笑顔で対応していたくせに、視線がクロコダイルに移って行くにつれて、受付の男は声を裏返しながら張り上げた。目を丸くさせ、まるで幻を見たかのような反応である。
 クロコダイルが眉をひそめると、男は喉の奥で一瞬だけ悲鳴を上げて、脂汗をだらだらと流していた。


「中って自由に回っていいのかな? 入場料とかいる?」

「い、要りません! ご自由にどうぞ!」

「ありがとう。ほら、行こうクロコダイル」


 ナマエがクロコダイルの名前を呼んだせいで、誰だか確信を得た男の顔色は真っ青になっていたが、クロコダイルは特に何もする気はなく、先に歩き出したナマエの後ろをゆっくりと追って行った。
 絵は、どれもこれも、特別上手いわけではなかった。そこらへんに転がっている絵描きのうちの一人でしかない。とびきりの技量もなく、新しい技法を用いたわけでもない。だが。


「……いいな」

「ああ」


 クロコダイルとナマエの感性には、刺さった。それ以外に必要なことなど何もない。値段も、技法も、画材も、どうでもいい。ただ美しいと思えるか、好ましく感じるか。芸術など、乱暴に言ってしまえばそれがすべてだろう。


「おい、受付。これはお前が描いたのか」

「ひ、あ、はいっ! そうです!」


 今から嬲り殺されるとでも思っているのか、男の顔は悲愴なことになっていた。取って食おうという話ではない──と思ったが、ある意味取って食おうとしているので、クロコダイルのその考えは間違いかもしれなかった。


「気に入った。スポンサーが他にいねェんならおれがなってやる」

「え……えっ、ほ、本当、ですか……?」

「アトリエがねェなら建ててやる。生活費はこっち持ち。絵さえ描いてりゃ文句はねェ。描いた絵で気に入ったのがあれば買う。要らねェ絵は他で好きにしていい。だが響くもんがなくなったときは容赦なく契約を切ってアトリエから追い出す。それでいいなら囲ってやる」


 悪いことをしているだけのことはあり、クロコダイルは金なら有り余っている。無論、ナマエの整備には金がかかるが、若い画家を囲い込むことくらいは問題なかった。
 画家は首をおかしくするのでは、と思うほどに泣きながら何度もうなずき、クロコダイルに礼を言っていた。汚い顔で近寄られるのはごめんだったので、何点か押さえたい絵を確保しておくように伝えてから部下を寄越すと前金を置いて、その場を後にした。

 いい絵を見たはずなのに、なんだかとても疲れたような気がしてクロコダイルが溜息をつくと、今まで黙っていたナマエが笑いをこらえるような顔をして言った。


「クロコダイルさァ、おれを囲うときと似たようなこと言ってたよな」


 これまでのことを思い出して、クロコダイルは何とも言えない気持ちになった。ただ傍に置くには都合のいいお人形だと思っていた美しいだけの女が、今では傍にいないと落ち着かない男になっているのだから、胸中が複雑でも仕方ないだろう。


「うるせェ」


 苦し紛れにそう返せば、ナマエが噴き出すように笑った。

クロコダイルで、愛人契約の主人公と一緒に画廊などを散策する@匿名さん
リクエストありがとうございました!



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