異世界トリップなんてあり得ないことだと思っていたときが、おれにもあった。というか、そうなってしまった今でも若干信じられなかったりするが、残念ながら異世界トリップというものは存在している。しかもおれがトリップしたのは、漫画が主体の空想世界だ。……いや、空想だと思っていた世界、である。

 その事実に気が付いたとき、おれはかなりアレなことになった。恐ろしいことに、とんでもない悪者に飼われることになったのだ。特別優れた容姿はしていなかったが、物珍しいものを持っていたために、その男に気に入られてしまったというわけである。
 仕事帰りに着ていた吊るしのスーツは大した効果をもたらさなかったが、鞄の中に入っていたスマホやタブレット、上質な紙はそれだけでおれを生かしてくれた。おれしか使えない指紋認証システムと太陽光発電の充電器を持っていたのもかなりよかったのだろう。飼い主は人の命なんて紙屑よりも軽く見ていたが、少なくともおれを殺すつもりも傷つけるつもりもまるでなかった、と思う。
 だがおれはと言えば、飼い主の意思に反し、早く夢から覚めるために頭を打ち付ける奇行を繰り返した。だって異世界トリップだぞ? 実際にどこかにトリップしたと考えるより、おれの頭がイカレたと判断する方が冷静というものだ。おれは早く帰って仕事をしなければならなかった。処理しなければならない書類が山積みだった。納期が迫っている。プレゼンの資料は刷られているだろうか。戻ったら上司に何を言われるかわからない。早く帰らなきゃ仕事ができない。早く帰らなきゃ。早く帰らなきゃ。早く。早く。早く。

 ──待てよ。おれ、帰れない方が幸せなんじゃ?

 気が付いたときには、顔は包帯やガーゼだらけで、打ち付けていた柱はおれの血を吸って赤いシミができていた。身体には拘束具がつけられて、重篤な精神病患者のような扱いを受けていた。もちろん、飼い主からは頭がイカレていると思われていた。当然である。実際、おれは病んでいたのだろう。
 異世界にトリップして心配することが仕事の心配ってなんだよ。家族とか、こっちの世界に対する恐怖とか、もっとなんかあっただろ。目の前の生き死により、頭を打ち付けて早く仕事に戻ろうとするってなんだよ。怖ェよ。

 多分、ゴリゴリのブラック会社による七十二連勤が効いてたんだろう。おれは二ヶ月半休みがなかったのか。やべェな。こっちに来なかった方が死亡率は高さそうだ。

 そこでようやく冷静になったので、ピタリと奇行を辞めた。すると飼い主は訝しげにおれを観察するようになった。突然奇行を始めて、突然奇行を終わらせたのだから、飼い主の反応は間違ってないと思う。おれでもそうするだろう、というか、さっさと捨ててしまえばいいのに、存外いい人なのだと思った。


「一体どうした。ようやくあんなことしても戻れねェと気付いて、イカレた日課はやめたのか」

「そうですね」

「……おいおい、まともに話せるのはいつぶりだ?」


 そこらへんはさっぱり記憶がない。頭を打ち付け過ぎたせいだろうか。もしかしたら今もまともな思考をしていないのかもしれない。とりあえず笑って誤魔化すと、飼い主もクハハと笑った。


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 おれの傷は塞がって、けれど過度に打ち付けたせいで綺麗に治ることはなく、額と右目の瞼には結構目立つ傷が残った。右目の視力は一メートル以上のものは見えないし、一般人が見たらドン引きの顔になって散々だったが、脳ミソがブラック会社から解放されたのでむしろプラスと言えるだろう。それに、見えづらいことを伝えたら、飼い主がモノクルを作ってくれたので生活に支障はないと言える。
 むしろ、今の生活は快適だ。食欲もあるし、寝て起きたときに頭痛も吐き気も目眩も起こらない。ましてや空気が美味しいし、太陽光もまともに浴びられる。食事も味があるし、毎日ベッドで眠れる。風呂にも毎日入れる。そんな生活がたまに飼い主と話すだけで保障される。
 その飼い主は些細なことでおれに暴力を振るわない。仕事をしろと食事や仮眠の時間を削ることもしない。やれと言ったことをできたあとに無償で変更しろと怒鳴り散らしたりもしない。この飼い主、もしや最高なのでは?


「……なんだ」

「いえ別に」


 カシャ、とタブレットで写真を撮ると、お仕事中だった飼い主が振り返った。盗撮がばれてしまったらしい。けれど彼は怒らない。それはカメラというものがあっても法整備が進んでいない社会ではさほど問題にならないから──というよりも、彼はさほどおれを怒る気がないらしかった。ペットか何かだと思っているのだろう。


「どうかしましたか」

「……いいや、別に」


 おれの手元をじいっと見ていた飼い主は、写真がお嫌いなのだろうか。有名人だし、やっていることは国家転覆の類。うっかり何かが写ったら問題だ。撮られたいわけもないか、と判断して、後ろ姿の写真を消した。


「それを壊したら、お前、どうする?」


 突然の問いに一瞬何を言われたのかわからなかった。だが顔を上げて確認してみれば、視線の向かう先は、間違いなくおれの手の中に向かっている。タブレット端末。この世界にはないであろう、未来の技術。この人にとって、おれの価値はこれだけだ。……思わず指先に力がこもる。捨てられたくない。おそらく捨てられても、この世界で生きていくことはできると思う。あのブラック会社で生きられたのだ、そう難しい場所もないだろう。だが、この人に、捨てられたくない。この人に捨てられたくないのだ。強くそう思った。


「……クハハ、冗談だ。便利な道具を捨てるつもりはねェよ」

「面白くないジョークでした」

「海賊にユーモアを求められてもな」


 はん、と鼻で笑った飼い主は、背を向けて仕事に戻った。……よかった。まだ捨てられずに済む。
 サー・クロコダイル。国盗りを企む大悪党。けれど頭のイカレたおれを、なんの気まぐれか世話を焼いてくれた大恩人。ブラック会社に殺されるのは真っ平だが、この人のためなら、命の一つや二つ、張ってもいいかと思っている。──ちびっ子たちに希望を与える主人公を、罠に嵌めて殺してやろうと画策する程度には。

クロコダイルお相手でもう帰る気のないトリップ主人公が帰りたがってると勘違いしてしまうお話が読みたいです!@匿名さん
リクエストありがとうございました!



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