メアリを惚れさせるという任務に支障が無い程度の簡単な仕事を終えてルッチが長官室に出向くと、そこにはスパンダムだけでなく、カクとメアリの姿もあった。何故かメアリの手にはヴァイオリンが握られている。カクだけがルッチの入室に気がついたようで、軽く手を上げていた。そうしてその手でスパンダムを指差したことから、スパンダムが無理を言ってやらせたということなのだろう。
 もはやメアリを惚れさせることにより得るものについての欲は下がりつつあり、こんなものを観る気などルッチにはほとんどないのだがそうも言っていられなかった。メアリの演奏が終わるまではおそらく、スパンダムに報告することはできまい。ならばとルッチは壁に背を預け、演奏を聞くことにした。音楽に興味など毛頭なかったが、それでもある程度の教養は骨身に染み込ませられているため理解することはできる。メアリがヴァイオリンと弓を構えた。その姿は存外様になっている。

 ふ、と空気が変わった。──音が鳴り響いた途端、背中がざわついた。頭が冷静な反面で、身体が引き込まれるような感覚に襲われている。これは一体、なんだ。

 曲はヴィターリのシャコンヌだった。それなりに難しい曲ではあるが、随一に難しい曲というわけではない。他のシャコンヌの方がよほど難しいだろう。しかもヴァイオリンのせいなのか、それともメアリの問題なのかはわからないが譜面通りの正確無比な演奏とは言い難い。だがそれはミスタッチではなく、アレンジやアドリブと言えるものだった。高い技術力を理解させられる繊細でありながらよく響く音に、悲壮感を思わせる色を乗せている。
 ルッチとて、これくらいの曲なら容易に弾けるはずだ。それこそメアリよりも正確に弾く自信もある。だが、これほどに他人の感情を揺さぶる音を出せるか、と言われたら首を振ることになるだろう。ルッチは音楽家ではなく暗殺者だ。だからそれでいい。けれどメアリもまた、音楽家ではないはずだ。ただの、小娘である。そのメアリに、どうして暗殺者たるルッチが心を揺さぶられなければならないのか。

 ルッチの顔が不快に歪む。それでもこの場を離れないのは、演奏が聞きたいからではない。スパンダムへの報告のためである。まるで自分に言い聞かせるような考えに、吐き気さえした。
 曲が佳境に差し掛かる。ぞくりとした何かが背を駆けていくのが気に食わなくて唇を噛んだ。メアリが強く弓を引いた瞬間──勢いを持って弦が切れ、メアリの顔に向かっていくのがルッチにははっきりと見えた。

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 ばつん、と音が切れた瞬間、演奏が止んでしまって素直に勿体ないと思えた。それほどメアリの演奏には心惹かれるものがあったのだ。しかも佳境に入って、かなり気持ちが引っ張られていたところだったのだからなおさらである。
 ところで人間は危険が差し迫ればとっさに目を瞑る生き物だ。目に向かってきた弦に対し、メアリも当然のようにそう反応した。おそらく考えてのことではなく反射的にだろう。目蓋や頬など切れたところで大したことはないが、眼球に傷がつけばそれだけで失明の可能性も出てくる。だからこそ、メアリの判断は間違っていなかった。綺麗な顔に傷がつくだけで済むのだから儲けものだろう。
 しかし、そうはならなかった。予想もしていなかったことが起こって、長官があんぐりと口を開けている。わしはつい、唇をにやにやと歪ませてしまった。


「おお、さすがじゃなァ、ルッチ」


 嫌みったらしくそう言えば、わかりやすくルッチの眉間にシワが寄った。一瞬で詰められる距離とはいえ、その反応を見るに助けようと思って助けたというよりはそれこそとっさに身体が動いたのだろう。まさか打算も何もなく、ルッチが助けるなどとは予想もしていなかった。もしかすると、もしかするのではないだろうか。
 メアリがそろりと目を開いて、とても驚いていた。目の前にはルッチが立っていて、しかもその手にヴァイオリンの弦が握られているとなれば、驚くのも無理はないことだろう。しかしメアリはすぐさま状況を理解したのか、慌てた素振りでルッチの手をつかんだ。


「だ、大丈夫ですか!? 手は、」

「……こんなことで切れるほど柔じゃねェ」


 ぱっとメアリの手を振り払ったが、ルッチの振り払い方は通常よりもずっと優しかった。ルッチなら触れられればもっと鋭く振り払うだろうに、とわしが思ってしまうのも仕方のないことだろう。メアリはそんなルッチに気を悪くしたふうでもなく、綺麗に頭を下げた。


「ルッチ様のおかげで怪我をせずに済みました。ありがとうございます」

「次に弦が切れたときはヴァイオリンから手を離せ」

「申し訳ございません。ご指摘ありがとうございます」


 …………なんじゃあれ、まさか本当に心配しとるのか? 惚れさせるための、ふり、にしては、荒いような?
 ルッチはメアリの方をもう見てはいなかった。驚いたまま馬鹿面を晒し続けていた長官に任務終了の報告をしてさっさと出ていってしまったのだ。大人の男を演じたいのなら、もっと優しくしてやればいい。色気を出して無事だったかと軽く抱き寄せでもすればそこらへんの女ならころりと落ちることだろう。ルッチにもそんなことは分かりきっているはずで……は? まさか惚れているふりをするつもりが、本当に惚れたんじゃあなかろうな。


「お、おいカク……」

「長官、言いたいことはわかるが、まあそれは後でな」


 とりあえずはメアリに惚れたかもしれない最強の男をからかうために、メアリの演奏を褒めておこうか。


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