『……平和島静雄?何か用かしら?言っておきますけど、臨也に会わせる気はないわよ』 逸る気持ちを抑えてインターホンを押したはいいが、スピーカーから聞こえてきたのは知らない女の声だった。あいつのことを臨也と呼ぶ女を、俺はセルティしか知らない。しかも出鼻をくじかれた。 何を言おうか迷っている俺の耳を、冷たすぎる女の声が貫く。どうやら、ひどく怒っているようだ。 『黙ってないでさっさと帰りなさい。あいつ、最近やっと落ち着いてきたところなの。これ以上私の仕事を増やすのは許さないわ。わかったら帰ってちょうだい。二度と来ないで』 「……黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって……あんたはあいつのなんなんだ?あ?」 『あら、一人前に嫉妬?それはそれは』 鼻で笑われて、血管が二、三本逝った。それでも、目の前にあるスピーカーやらパネルやらをぶっ壊さずにすむくらいには、今の俺の頭は臨也に会うことだけでいっぱいだったのだ。 深く息を吸い込んで、同じくらい深く息を吐く。ここでキレて暴れたら、多分二度と臨也には会えないだろう。漠然とそう思った。 「……臨也に会わせてほしい」 『会ってどうするの?またボロボロにするのかしら?……ガキね、あんたもあいつも』 ブツリと途絶えた通話。もう一度インターフォンを押そうと指を伸ばしたが、それよりも早くにオートロックのドアが開いた。驚いたが、閉まられてはたまらないので素早く中に入り込む。 エレベーターに乗り込んで臨也の部屋がある階で降り、廊下を歩いていると、臨也の部屋の前に長い髪の女がいた。もしかしなくても、さっきの女だろう。冷たい美貌に息を飲む俺を、女はさっきと同じように鼻で笑った。 「鍵は開いてるわ。私は帰るから、殴るなり犯すなりお好きにどうぞ」 「しねえよ。もう、しねえ」 「当たり前よ。そんな可能性があったら死んでも会わせないわ。いい?次臨也をあんな目にあわせたら、間違いなく始末するわよ」 「……あんた、マジで臨也のなんなんだ?」 「関係ないでしょ。精々悩んだら?」 それじゃあさようなら、と言い残して、女は去っていった。ふつふつとやり場のない怒りが沸き上がるが、自業自得だし、なにより今は臨也だ。飛び出したいくらいに焦る手でドアを開く。鍵は、ほんとうにかかっていなかった。 「……なあに、波江さん。帰れって言っただろ。有休にしておくから安心しなよ」 寝室に入った俺を見ることなく、臨也はそう言った。ナミエというのはきっとあの女なのだろう。寝室に入っても不思議ではない仲なのか、と身勝手な邪推が脳裏を過ぎる。ノミというかミノムシのような臨也の背を撫でたのは、ほとんど無意識だった。 「なに?慰めてくれるの?……珍しいこともあるものだね。明日は雪かな。ねえ、雪が降ったら一緒に鍋を食べてくれるかい?君が好きなやつでいいからさ」 シーツの中からくぐもった声が聞こえてきた。黙って、ただ耳を傾ける。臨也はどこかぼんやりとした口調で続けた。 「どうしたの?ほんとに珍しい……ああ、人間て不思議だよねえ……自分しか可愛くないくせに、時折他人のためだけに動くんだから。これだから俺は人間が好きさ。君も含めてね……ねえ波江、珍しいついでに俺の話を聞いてよ。誰かに……ううん、君に聞いてもらいたい気分なんだ。君は、俺と似てるから」 返事をする代わりに、もう一度背を撫でる。臨也はそれだけで理解したのか、はたまた答えなどどうでもよかったのか、ありがとうと小さく呟いて話を続けた。 「好きなんだよ。たまらなく好きなんだ。惨めで、辛くて、苦しくて、いつだって死にたくなるのに、目を反らせない。愛してるんだ。もう自分でもどうしようもないくらい。シズちゃんが……好きだ。シズちゃん、シズちゃん……シズ、……ちゃん……」 だんだんと涙混じりになっていく声に、胸が締めつけられる。これほどまでに自分の名前が愛しく、切なく響くのを聞いたことがなかった。臨也はいつもこんなに優しく俺を呼んでいただろうか。俺は、ちゃんと聞いてやったことがあったろうか。 「苦しい。助けて。シズちゃんがいないと、俺は呼吸の仕方もわからない」 俺は、こんなにもいじらしい生き物を見たことがない。 「臨也……っ」 耐え切れなくなって、シーツを剥いだ。枕に顔を埋めて嗚咽を漏らす臨也の体に手をかけ、抱き上げる。合わせたはずの視線はどこか虚ろで、臨也は弱々しく泣いている。記憶よりも軽くなっているその体を、気づけば俺はきつく抱きしめていた。 「……シズちゃん、どうして……ああ、夢か……そうだよな、あのブラコン女が俺に優しくするわけがないし、君が俺を抱きしめるなんてもっとありえない……ひっどい夢。最低だ。でも、うれしい。うれしい、シズちゃん」 すり、と寄せてくる頬は濡れていないところがなかった。きっと、臨也はいつも泣いていたんだろう。たった一人で。 次から次へと落ちる涙と同じように、幾度も幾度も繰り返される好きと愛してるとシズちゃん。俺の胸に突き刺さっては熱を生む臨也の声に、俺はただ謝るしかできない。 「臨也……臨也、悪かった。ごめん、俺が悪かった」 「なんで謝るの?シズちゃん、好きだよ、好き、愛してる。好きになってごめんね。こんな夢見て、ごめんね」 「っな、んで、なんで手前が謝るんだよ!!」 理不尽だとわかっているけれど、怒鳴らずにはいられなかった。夢と現実をふらふらしている臨也を捕まえて、ずいぶんと久しぶりのキスをした。臨也を宥めるためと言えば聞こえがいいが、結局は俺がしたいだけだ。 「……っ、ん、ぁ」 吐息に紛れて零れた声が甘い。くちびるはやわらかくて、気持ちがいい。よくもこれに触れずにいられたものだ。俺はこれまでの自分を殴り飛ばしたい気持ちでいっぱいだった。 キスに酔いしれていた俺の胸を、不意に臨也が突っぱねた。正気を取り戻したらしい瞳が、困惑と拒絶をもって俺を貫く。背筋がぞくりとした。 ああ、そうだ、その目。どうして忘れていられたのだろう。俺は――ずっとその目に焦がれていたというのに。実に様々な意味で。 「な、んで、ここに」 これが俺に残された最後のチャンスだと、確信に近い予感があった。臨也がまだ俺を好きでいてくれるうちに、もう一度俺のものにする。 「臨也、今まで悪かった。傷つけた分、大事にする。もう手前以外抱かねえ。だから、俺に愛させてくれ」 臨也が目を見開いた。うそだと紡ぐくちびるにもう一度キスをして、かき集めたありったけの誠意を捧げさせてほしい。傷つけすぎたこいつを、またこの手に抱くために。 「勝手すぎる話だけどよ……俺、手前がいねえとだめだ。愛してる、臨也。俺の傍に、いてくれよ」 「……っ……シズちゃん……っ」 「ごめん、ごめんな。許さなくていいから、愛させてくれ」 ぼろぼろと新しい涙を零した臨也を、ただ抱きしめた。遠慮がちに背中に回る腕も、真っ赤な瞳も、綺麗な声も、全部愛させてほしい。俺がつけた傷は俺が癒すから、どうか俺の傍にいてほしい。 身勝手すぎる懇願に、臨也は静かに頷いてくれた。こんなにいじらしい生き物を、俺は知らない。泣きたいくらいのこの気持ち。人はきっと――これを、恋と呼ぶのだろう。 110123 |