・エクソシスト×ヴァンパイアパラレル 古ぼけたベッドの上で、この部屋の主であるはずの己は身動きの一つも許されていなかった。 押さえつける腕の力にこれ以上ないくらいの愛しさを覚えるのは、幼かった彼をこの腕に抱いてあやした日々がまるで昨日のことのようによみがえるからだろうか。 眼前で煌めく銀のナイフに恐怖は覚えない。これが心臓を貫くために作られた杭であっても同じことだ。 十字架なんてもっての他で、信仰心など欠片も持ち合わせていないはずの彼に押しつけられたところで臨也の皮膚には傷の一つもつかないに違いなかった。 「どうしたんだい? 殺さないの?」 うっすらと微笑みながらそう尋ねると、ナイフを掴んでいた指がびくりと震える。やわらかくて優しい大地の色をしていた瞳が眼鏡のレンズで遮られるのはいただけない。何から、誰から、その瞳を隠しているのか――尋ねたところで、きっと教えてはもらえないのだろうけど。 「久しぶりだね、もっとよく顔を見せて」 指を伸ばして眼鏡に触れると、彼の肩が揺れる。チェーンが音を立てながら彼の肩を滑り落ちていった。あらわになった瞳に見つめられると、愛しさと懐かしさと寂しさがこみ上げてくる。 「立派に……なったじゃないか……」 胸の詰まる思いだった。何も答えない彼を見つめながら、臨也の心だけが勝手に昂ぶっていく。感動の再会を演じるつもりはない。けれど、目の前にいる青年は臨也にとってたった一人の可愛い子だった。今も、昔も、そしてきっと――これからも。 「君が出ていってしまった夜は、柄にもなく泣いたんだよ」 そう言っている今だって泣きそうだ。人間にしてみれば数年に及ぶ長い時間でも、臨也にとってはほんの一瞬の離別に過ぎなかったはずなのに。 「もう会えないと思ってた。うれしいよ、こうしてまた君の顔を見られて……たとえ、君が俺を殺しにきたんだとしても……」 涙ぐみ、たくましくなった腕に手を添える。こちらを見返す瞳はすっと細められていて、夜目が利くはずの臨也にもその感情はわかりづらかった。昔はもっと素直で可愛かったのに……と、またしんみりとした気持ちになる。 「……泣くな」 装甲で覆われた手で頬を撫でられ、体が震えた。それだけではない。臨也が知っているものとは随分と印象が変わってしまった声も、臨也の心の奥底を震わせてやまなかった。 彼が臨也の手の内にあった頃、まだ幼さの残る声で「臨也、臨也」と呼ばれた記憶があざやかによみがえる。ほんとうに変わってしまったのだと寂寥を覚える臨也の首を、あたたかい人の肌が撫でた。 「っ……」 驚いて跳ね上がろうとしたが、押さえつけられているせいでそれは叶わなかった。わずかに浮いた背の下に腕を入れられ、きつく抱きしめられる。 いつの間に装甲を解いたのか、あたたかいてのひらがはるか昔に温度をなくした臨也の肌に触れていた。少し高めの体温だけは、昔とちっとも変わっていない。 「臨也」 低く、男らしくなった声が臨也を呼ぶ。久方ぶりに他人の口から聞いた自らの名前を噛みしめながら、臨也は「何だい?」と返事をした。 「わかんねえのか? 俺が帰ってきた理由も、出ていった理由も?」 切なげに瞳を細め、くちびるを噛みしめている。臨也は首を傾げた。どうしてそんな悲しい顔をするのかわからない。君には笑顔の方が似合うのに。 「俺が嫌いになったからだろう? 出ていったのも、帰ってきたのも、俺が恐ろしいからだろう? あのときは逃げたけど、今日は殺しにきたんだよね」 丸く見開かれたその瞳を傍で見守っていたいと願い続けていた。今も、ずっと。 「……違う……そうじゃねえよ……」 声が揺れているように感じた。けれど、確かめる時間は与えられなかった。 「臨也……っ」 切羽詰まった声を皮切りに何故かくちづけを施され、目を白黒させる以外にいったい何ができたというのだろう。もがく体を押さえこむ腕が絡みついてくる。首を振って逃れたくとも、許さないとばかりに顎を掴まれてはなす術もない。 「シズ、ちゃ、…んんっ」 伸びた牙はさぞ邪魔だろうに、彼―静雄がくちづけをやめる気配はなかった。 「なんで俺が帰ってきたか、ほんとにわかんねえのか」 切なく震える声に、臨也は弱い。一人で眠れないと泣いていた静雄のことを思い出すからだ。 「シズちゃん……どうしたの、泣かないでいいんだよ……?」 だってここには、君を攫おうとする悪いやつなんていないのだから。 「泣いてねえよ」 低く逞しくなった声はやはり揺れていて、とっくの昔に正しい動きなど忘れてしまった心臓がざわざわとさざめいているような気がした。今目の前で頼りない表情を浮かべている青年が、臨也にとってはそれほどに特別な存在であるということだ。 先ほどから鼓膜を震わせている聞きなれない金属音は彼の装甲から聞こえてくるものだろうか。もしかして震えている? でも、一体どうして――そこまで考えて、臨也はふと思い出した。今がいわゆる冬と呼ばれる季節であることを。 体温のないヴァンパイアにとっては、外気の温度が下がって困ることなど特にない。だがしかし、静雄は人間なのだ。れっきとした、生身の肉体を持つ人間である。 ああなるほどなあと一人納得し、臨也はそんなことにも気づいてやれなかった己を恥じた。 「シズちゃん、寒いんだろ?」 「は? いや、別に……俺は、」 きょとんと目を丸くする姿はあどけなく、あの頃の面影を匂わせる。ああよかった、変わっていないところもあるのだ。時の流れから外れてしまった化物であるはずの自分がこうして過去を惜しむようなことを思うのも、偏に彼というかけがえのない存在があるからだった。 「遠慮しないで。君が出て行ってからは暖炉使ってなかったんだけど、今用意させるよ。えーっと薪……あったかな……」 「あ……」 「わっ?」 おかしい。自分は確かにベッドを降りようとしたはずだった。それなのに、どうしてまたデュベの上に背を預けているのだろう。先ほどよりもずっと、彼の顔が近い。 「し、シズちゃん……」 「行くな」 眉間にぎゅっと皺を寄せ、吐き出した三文字の言葉には聞き覚えがある。あのときはストールの裾を小さな手で引っ張って泣いていたのに、今はこうして押さえつけらているのが妙におかしかった。 「……行かないよ。君を置いて、俺がどこへ行けるの」 昔と同じようにそう答え、臨也は指を伸ばす。すっかり色の変わってしまった髪は、記憶の中のそれよりも少し強く、きしんでいた。 「ずいぶん派手な色に染めちゃったんだねえ……綺麗だったのに」 もったいないなあと独りごち、臨也は溜め息をつく。親の知らないところで子供が変わってしまうのは、人間もヴァンパイアも変わらない共通事項なのかもしれない。 「……臨也」 何度かサラサラと音を立てて髪を弄んでいると、不意に静雄の手が臨也の首に伸びてきた。あたたかい指が臨也の肌を優しく愛撫する。うっとりと目を細め、その熱をただ感じていた。 「……そんな顔、すんなよ」 「え?」 「お前は、変わんねえな」 ぼそぼそと呟かれた言葉をなんとか拾い、頭の中で反芻する。変わらない、それは当たり前のことだ。時間の流れから切り離された醜い吸血鬼、それが己なのだから。 「そりゃあそうさ。だって俺は、」 「手前は化物なんかじゃねえよ」 今まさに言おうと思っていた言葉を先取りされ、しかもそれを否定された。そんなところにも成長を感じている。たった一人の可愛い静雄。たとえ自分を殺しに来たのだとしても構わない。彼をこの手にかけるくらいなら、自分が消える方がずっとマシだった。 「ありがとう、嘘でもうれしいよ」 「嘘じゃねえ……みなしごだった俺を拾って、十六になるまで育ててくれたのは手前じゃねえか。化物にそんなことできるわけねえだろ」 「……シズちゃん。その言葉だけで、俺には十分だよ」 そっと目を閉じ、体をベッドに投げ出す。 「痛いのは好きじゃないんだ……一思いにやって」 ごくりと喉を鳴らす音がする。獲物を前にして舌なめずりできるなら、彼はきっと立派なヴァンパイアハンターになれるだろう。 服に手がかかった。来たるべき最期の時を待つ。だが、鼓動を忘れた臨也の胸に触れたものは銀のナイフではなかった。ぬろりと蠢く濡れた熱が肌を這っていく。 「な、なに……?」 未知の感触に驚いて目を開けた臨也が見たのは、赤ん坊のように自分の胸に吸いついている静雄の姿だった。 「シズちゃん……あの……そこ、何も出ないよ……?」 女の乳房を愛撫するように舌を這わせる静雄の姿は、臨也にかつてないほどの衝撃を与えた。どんなときでも冷静さを欠くことがなかったはずの自分を、今はすっかりと見失っている。それくらいショックだったのだ。 静雄がこんな倒錯的な行為に走ってしまったのは、きっと自らの教育が至らなかったせいに違いない。申し訳なさと情けなさで固まっている臨也に、静雄が囁きかける。ひどく熱を帯びた声だった。 「何も出なくてもいい。関係ねえだろ、そんなこと。すげえ可愛い……ずっとこうしたかったんだ」 「え?」 「ほんとに気づいてなかったんだな」 静雄の指が臨也の乳首を捏ねくりまわす。思わず漏れそうになる声を噛む臨也のくちびるを、静雄が舐めた。 「手前が好きだ。俺のもんにしたい。めちゃくちゃにしたい。泣かせて、よがらせて、喘がせて、俺じゃなきゃダメな体にしたい。ずっとそう思ってた。だからここを出ていったんだ……嫌われるのが、怖くて」 そう言った静雄は、臨也が知らない顔をしていた。ひどく苦しそうで切ない顔だ。臨也がとっくの昔に忘れてしまった感情が、静雄の何かを揺らしている。 「育ての親にこんなことしたいって思うのは間違ってるって、頭ではわかってんだ……でも、手前が俺に笑うたびにここが苦しくなって、たまんなかった」 ここ、と静雄が示した場所には、あたたかく脈打つ心臓がある。人間である静雄とヴァンパイアである臨也を明確に分かつ、永遠の境界線だ。 「し、シズちゃん……」 声が震えている。恐怖からではない。だが静雄はそうは思わなかったらしく、臨也の声を聞いた途端に泣き出しそうになっていた。そんな顔をさせたいわけではないのだ。 「臨也……俺、もうガキじゃねえ。手前に守られてばっかだった頃とは違うんだよ。強くなったし、ちょっとは有名にもなった。だから、俺のことちゃんと見てくれよ」 好きなんだ、という告白は、まるで罪を懺悔するような重さを纏っている。大きくなったはずの体は、夜の闇に怯えていた小さな頃と変わらずに、臨也を求めて泣いていた。 「シズちゃん……」 臨也には、静雄の情熱をきちんと理解することができない。もう数百年も眠ったままになっている感情だ、すぐに呼び起こすことは不可能に近い。愛も恋も肉欲も、この体はすっかり忘れ去っている。 だが、静雄の苦しそうな顔は、臨也の死んだ胸の奥にある扉を確かに叩くのだ。いつかまたこの朽ちた胸に愛や恋や肉欲が戻るその日まで、彼の迸る若さと情熱を受け入れる器になってやりたい。そしてその熱い手で臨也の魂を揺さぶり続けてほしい。 死が二人を分かつその瞬間まで。 「君は子供だよ……俺にとってはいつまでも可愛い可愛いちっちゃなシズちゃんのままだ」 「臨也ぁ……」 傷ついた、泣き出しそうな顔。泣かせたくないのに、意地悪をしてみたくなるのはどうしてだろうか。いつか聞いてみたい、温度を失ったはずの胸に熱をくれる可愛い君に。 「なら、ちゃんと大人になったか俺に教えてみなよ。おいで、もう一回キスしてごらん」 途端に明るい顔になる。素直でいじらしい、臨也だけの可愛い養い子だ。 「口にしてもいいか?」 「いいよ」 「さっきみたいに舌入れてもいいか?」 「いいよ」 「俺の血、吸ってくんねえ?」 「それはだめ」 即答する。静雄はまだ若い。人生を賭けた博打など、まだまだやらせるわけにはいかないのだ。 「……チッ」 あからさまな舌打ちは聞こえないフリをし、くちびるを寄せる。若い血の香りは芳しい。とろけた濃密な時間にまつげを震わせ、臨也は入り込んでくるあたたかい舌を受け入れた。 20130324 |