懐かしい記憶だ。クリスマス前はどうも感傷的な気分になってしまっていけない。苦笑じみた吐息を聞く者はいなかった。あの人のよさそうな青年は、今ごろ家族とケーキでも食べているだろうか。 あの悲しかったクリスマスが終わってすぐに臨也は東京を飛び出した。いつだって身を守るための策に労を惜しんだことはない。痕跡の一つも残さずに姿を消すくらいは実に朝飯前のことだったのだ。 すっかりと日も落ち、雲の隙間から見える空には星が輝いている。手を伸ばせば届きそうなほどの満天を、彼も池袋で見ているのだろうか。 「そういえば雪降るっていってたような……」 寒さに身を竦め、ぶるりと肩を震わせる。このまま冬の星を数えるのもいいけれど、風邪を引いてしまいそうだ。 そろそろ帰ろう。そう思い、踵を返す。 「……え?」 カペラが落ちてきたのかと思った。それくらいの衝撃を受けたせいで、うまく息ができないでいる。 「……よお」 久しぶりだな、と片手を上げる男はこんな田舎では目立ちすぎる金髪だ。ダウンコートをはおってはいるものの、その下には相変わらずバーテン服を着ているという事態に頭が痛む。 「……なんでこんな所にいるんだ……」 やっと絞り出した声はひどく震えていて、情けなさにくちびるを噛むしかできない。彼の左手を見ないようにしながら、ポケットに手をつっこむ。彼は俺の指になど興味はないだろうけど、なんとなくそうしたい気分だった。 「なんで、って」 困ったように頬をかいた彼の表情は穏やかで、そこでようやく俺は彼とだいぶ長いこと会っていなかったことを実感した。俺のいない時間に、きっと彼の周りには彼を愛する人が増えたのだろう。彼の纏う空気がそれを物語っていた。 俺は、どうだろう。何一つ変わっていない気がする。今でも相変わらず彼が好きで、いまだに左手の薬指は裸のままだ。今だって気を抜けば心臓が止まりそうなくらい、ただひたすらに彼しか愛せないでいる。 「なんで? シズちゃん」 俺が何度も羽田行きのチケットを買ったことも、同じ回数だけ破り捨てたことも、何も知らないくせに。ようやくベッドの真ん中で眠ることに慣れてきた今になって、どうして君はまた俺をかき乱すんだろうか。 「なんでって……そんなの、手前を捕まえに来たに決まってんだろ。何年探したと思ってやがる」 ツンと鼻の奥が痛くなった。それは、あんまりじゃないか? 「何言ってるのか、わからないよ……」 「わかんねえわけねえだろ! 急に俺の前から消えたくせに……なんだよ、全部計算だったのか? 手前は俺のことが好きなんじゃなかったのかよ……俺のこと騙してたのか? 俺への嫌がらせにしちゃ、手ぇこみすぎだろ」 「……何、言ってんの……ほんとに、勘弁してよ……」 喉が痛いし、目も痛い。何よりも胸が締めつけられて苦しかった。あの日見た光景が胸を浚っていく。自分には見せたことがないくらいの優しい笑顔で笑う、彼の姿を。 「それはこっちのセリフだ。さっさと帰れよ、顔も見たくないんだ」 「なんだと!? 手前やっぱり騙してたのか!」 「っ、ふざけんなっ!!」 ここ数年自分でも聞いたことがないくらいの大きな声が出た。驚いたように目を見開く彼の姿がぼやける。 「騙してたのは君だろ! 指輪がどうのこうのって期待させといて結局あの子にどんな指輪買ってやったわけ? ムカつくなあ、ムカつくよ……俺がどんな気持ちで毎年のクリスマスを乗り切ってるか知りもしないで、君はのうのうと腰振って生きてんだろ!? 信じられない……君ってやっぱり最低の化物だよ」 熱い頬を冷たく濡らすものがある。涙と、雪だ。クリスマスの夜に舞い降りる雪は神様からのプレゼントだと聞くが、無神論者の俺にはただのトラウマの塊でしかない。 彼は先ほどからずっとぽかんと口を開いたままの態勢でこちらを見ている。それにもまた腹が立って、ますます涙が込み上げてきた。 「どうせ捨てるなら、なんで優しくなんてしたんだ……ひどいよ、シズちゃん」 ゴシゴシと目元を拭う袖からは、もう煙草の――彼の匂いがしない。ようやくそれに寂しさを覚えなくなってきていたのに、今日彼がここに来たことですべて台無しになってしまった。 「君が好きだ。君を殺してやりたい。他の誰にも渡したくない。何度でも、何度でも、君にばかり恋をしてる。もう嫌だ。でも好きだ。苦しい。助けて、シズちゃん……胸が痛くて眠れないんだ……」 最後の方は涙まじりの情けない声で、なんともカッコ悪かった。でも、ようやく口を閉じてこちらに駆け寄ってきた彼が俺を抱きしめたりするから、涙の量は増える一方だ。あの頃と同じ、こわごわと抱きしめるその仕草。 ああ、シズちゃん、 「……あいしてる……」 たとえば世界が明日滅ぶとしても、俺はやっぱり君にそう伝えたいと思うのだろう。頷いた彼が施してくれた触れるばかりのくちづけを、もっともっととねだって甘えてみせるだろう。 くちびるを何度か甘く食んだあと、彼は顔を離した。じっと見つめてくる目は真剣で、あの日「指輪は好きか」と聞いた顔と少し似ている。 「俺も、好きだ……臨也」 そして、あのときよりもずっと酷いことを言うのだ。 「うそつき……でも初めてだね、好きって言ってくれたの」 ほんの数分前まで今すぐ殺そうと思っていたはずなのに、すぐに流されてしまうのは俺の悪い癖だ。今だけは騙されてやってもいいかもしれないと思い始めてしまっている。 そんな俺の何かを見抜いたのか、彼が抱きしめる腕の力を強めてきた。このまま抱き潰してくれないかなあと甘ったるいことを考えている耳元に、低い声が吹き込まれる。年齢を重ねたことで深みを増した声に、あの頃よりもずっと反応してしまう自分がいた。 「そりゃ手前だって……つーか、嘘じゃねえし」 ぼそぼそと呟きながら、彼が俺から片腕を離した。ごそごそとポケットを探っている。 「シズちゃん?」 「手前が逃げるから……遅くなったんだからな……デザイン古いだのなんだの文句言われても、もう返品きかねーからな」 「何のはな、し……」 眼前に突き出された左手と、そのてのひらにある小さな白い箱。古臭いとまでは思わないけど、若干の年季を感じるのは確かだ。 箱と彼の目を視線で往復する。けれど見逃してもらうことは期待できそうもなく、諦め半分で黙って箱を受け取った。この形、このサイズ、中に入っているものなど見なくてもわかる。 「……あの、開け」 「なきゃ殺す」 「……ですよね……」 なんだか、とてつもない嫌な予感がするのだ。これはさしずめパンドラの箱だろうけど、底に希望が残っているかはわからない。なんせあの化物が寄越したものなのだから、どんな結果が待っているのかなんて俺にだって読めやしない。 意を決し、蓋を開く。パコッという音を立てて開いたその中には、思ったとおり指輪が鎮座していた。 「……えーっと……渡す相手を」 「間違えてねえ。内っかわ見てみろ」 言われるままに箱をポケットにしまし、取り出した指輪の内側を覗く。S to Izaya――どこかで見たことのあるアルファベットの羅列が目に染みた。 「どういう……こと……?」 手の中にある指輪をじっと見つめる。確かこれは数年前……つまり俺が東京から逃げ出したあの頃、俺が彼と彼女を見かけたあのジュエリーショップで限定販売されていたものだ。 「シズちゃん……」 美しい曲線を描くリングに輝くダイヤモンド。あの日夢見て期待に胸を躍らせたすべてがここにつまっている。 「なんで……あの子に買ったんじゃなかったの?」 「あの子って誰だよ……なんで俺が手前以外のやつに指輪買うんだ? 意味がわかんねえな」 「だって、あの子の指にはめてあげてたじゃないか」 「ああ? だから誰だよ、それ」 「君の後輩だよ! ロシア人の!」 「ヴァローナか? なんであいつの名前が出るんだ?」 まったくもって理解不能だとその表情が訴えている。まさか覚えていないのか……そう思い、恐る恐る尋ねた。案の定頷かれ、今までとは違った意味で眩暈を覚えている。 「だ、だって、あの日……クリスマスの日に、池袋の百貨店であの子に指輪選んでやってたじゃないか」 「ああ? ……あー……はいはい、そういえばあいつに付き合ってもらったような気がしねえでもねえ」 けどよお、と続ける彼の声がなんとなく喜色を滲ませていて、やっぱり大人になったなあとしんみりした。まあ、現実逃避である。 「手前の薬指がな、ヴァローナの親指と同じぐらいだなあって思ってよぉ……手前にサイズ聞くの恥ずかしかったから付き合ってもらっただけだぜ?」 「な……う、そ、だよね?」 「嘘じゃねえよ。なんでそんなくだらねえ嘘つかないといけねえんだよ。俺にもあいつにも失礼なこと言ってるってわかってんのか?」 そうすごまれては返す言葉もない。彼の真剣な目が何よりも如実に真実を訴えていた。 「お、れの……勘違い……?」 思わずその場にへたりこみそうになった俺を支え、彼が溜め息をつく。情報屋だなんだとえらそうなことを言っておきながら、確かめることが怖くてそのまま逃げ出したことを今さらながらに後悔した。どうしてこんな風になってしまうんだろう。遠回りをしたいわけじゃない、ただ好きなだけなのに。 「おい、泣くんじゃねえよ」 「っ、シズちゃん……」 「……まあ、その、なんだ……死ぬほどムカつくし、逃げられたときは随分荒れたりもしたけどよ……ちゃんと言わずにヤってばっかだった俺も悪いだろ。だから泣くな、手前だけのせいじゃねえよ」 「……シズちゃん?」 思わず涙が引っこんだ。これは誰だ、俺相手にここまで素直に自らの非を認める彼など彼ではない。彼の皮をかぶった異星人に違いない。確かに俺と彼では住むべき星が違うのだと思った時期もあったけれど、今はちゃんと地球で愛し合いたいと思っているのに。 「……手前、なんかまたぶっ飛んだこと考えてるだろ」 ぎゅっと抱きしめられ、まぶたの裏でアンドロメダが爆発する。雪はいつの間にか止んでいて、彼の肩越しにカシオペヤ座が輝いていた。 「好きだ、もうどこにも行くな」 「……」 「臨也、なあ、お前が好きだ。愛してる」 彼がぎゅうぎゅうと抱きしめるせいで、今までとは違った意味で胸が締め付けられる。苦しい。痛い。でも甘くて幸せだから、やめないで。 (これ、俺の……?) 指輪を握ったまま、恐る恐る腕を背中に回そうとしたのだが、彼が「そういやよぉ……」と切り出してきたので動きを止めた。覗きこんでくる瞳はにやついていて、身構えざるをえない。 「これさあ、手前の字だよな?」 そう言って彼が再び俺の目の前に突き付けたのは、手紙の入った小瓶だった。反射的に伸ばした手を掴まれ、小瓶を高く掲げられる。 「ここ歩いてくる途中で見つけたんだけどよ……やべえわ、これ」 「やめろ」 「正直これ読んだおかげで手前のこと殺さなくてすんだっつーか」 「やめろ言うな」 「俺って、愛されてんだな……と」 「やめろって言っただろ!」 呆けたように呟いた男の横っ面をはたき、レベルアップしたとしか思えないでたらめな皮膚の硬さにこちらがダメージを食らった。 「おい、大丈夫かよ」 「大丈夫じゃないよ!」 ギッと睨みつけ、脱兎の如く駈け出した。砂浜の走り方はきっと俺の方がうまいので、スタートダッシュで引き離せれば勝算は十分である。 「臨也ァ!」 「シズちゃんの馬鹿! 早く死んで!」 「誰が死ぬかクソ蟲! つーか! 手前人ラブ都会ラブはどうしたよ、なんでこんな田舎にいやがんだ!? ああ!? おかげで見つけんの遅くなっただろうが!」 「君が老後に住みたいっつってたからだよ、ばーか! ばーか!」 「なっ……ん……手前、クソ臨也ぁああ!」 ものすごい形相で追いかけてくるけだものに見つかったが最後、俺はあのクソ甘ったるいクリスマスイブの夜の再現に付き合わされてしまうだろう。それはすごく、ものすごく魅力的だが、今はもう少しこの懐かしい空気に浸っていたかった。 二人が指輪の光る手を重ねながらキスをするまで後――……? (Happy Merry Christmas!) 20121223 |