サヨナラノツバサ | ナノ

池袋クロスロード×5での無配でした。






 覚えているのは轟音、閃光、鈍痛。
 そして、雨など一滴も降っていなかったはずの空にかかった虹と、やわらかそうで真っ白な鳥の羽根。

 白く可憐な花が風に舞い踊り、耳に心地よい音を奏でている。決して見慣れているわけではないのだが、偶然にも名前を知っている花だった。
(エーデルワイス、だっけ?)
 しゃがみこみ、静雄はその花弁に指で触れる。抵抗するように揺れ戻る花は見ためよりも案外強かにできているのかもしれないと、こんな些細なことであのノミ蟲野郎を思い出す自分はまったくどうかしているとしか言えない。鮮明に思い出してしまった艶やかで芳しい黒髪を、舌打ちでもって脳内から追い出す努力が間に合わない。
 浴室でキスを交わしていたにもかかわらず「最近はこれがお気に入りなんだ」と聞いてもいないシャンプーの説明をされた記憶が今も鮮明に残っている。口頭だけに飽き足らなかったのか、風呂を出たあとはネットで花の画像まで見せられてしまった。泡にまみれた白い裸体でとっくに興奮していた静雄はとにかく一分一秒でも早くベッドにその細い身体を押し倒したくて、爽やかなその声にただ黙って耳を傾けた。意識はすでに黒い髪がかかるうなじに飛んでいる。「いい匂いだろ? エーデルワイスの香りなんだって」なんていう、どこかうっとりとした呟きなんか心からどうでもいい。そんなものより、もっとあられもない喘ぎ声を聞きたい。なあ今ってそういう場面じゃねえだろうという憤りは決してひとりよがりで理不尽なものではなかったと、静雄はしばらく時間を置いた今でも強く思っている。
 重ねるほどの情すら抱けないはずの相手と怠惰の限りを尽くす時間を、静雄はなぜか嫌いになれなかった。たとえ一時とはいえ、手に余るとわかっている男を手中に収める征服欲は何にも代え難く、おそらくそれをあのノミ蟲も理解していたのだろう、時折媚を売るような目で見つめてくるのがムカつくのだが、そこがまたそそるのだからもうどうにも仕方がない。
 爛れていると揶揄する者が己と相手の他にいない関係はおそろしいほどに気楽で退屈で淀んでいた。そのくせ少しでも気を抜いた素振りを見せれば、狙いすましたように首をナイフで狙われる。「今日も仕留めそこねちゃった」と赤い舌で歯を舐める仕草はありえないくらいに扇情的で、殴るよりも先に触れたい衝動を抑えられなくなるのはいつものことだ。キスすら命がけで仕掛けなければならないスリルと背中合わせで得られる快楽がこれほどまでに強烈だということを、静雄は臨也と出会って初めて知った。
(あいつのせいだ。臨也、あのクソ野郎のせいで)
 知らず知らずのうちに、指先には力がこもっていた。人を小馬鹿にしくさった臨也の笑みを思い返すたび、静雄の腹も頭も怒りの熱で焼け焦げそうになる。けれど、あの薄くて形ばかりは完璧なくちびるからちろちろと覗く赤い舌を思い出した途端、腹の底が怒りとはまた違った熱を帯びていくから困ったものだ。
 静雄の指先が、間に挟まれた花弁を丸きり無視してぎちぎちと指紋を鳴らそうとしている。生きている植物が放つ独特の青臭さと芳しい香りが鼻の奥をくすぐったそのとき、静雄の背後でバサッと音がした。まるで鳥が羽ばたいたようなその音を呼び水に、記憶がフラッシュバックを起こす。轟音も閃光も鈍痛もここにはないけれど、ただ一つ、最後に見たあのやわらかそうな鳥の羽根の白さが、眩しく脳裏を舞い踊った。
静雄は立ち上がり、頭上を振り返る。そして見事に固まったまま、ただぽかんと口を開けた。
(……なんだ、ありゃ)
 バサリ、バサリ。羽ばたいているのは確かに鳥の羽根だったが、その根元にくっついているのは鳩や白鳥なんかではなく、この世で最も恐ろしくて、厄介で、いやらしい笑顔が似合う生き物だった。
「……手前なにやってんだ、ノミ蟲」
 おそらく非日常と呼んで差し支えない光景が目の前に広がっている割には、至極まともな問いかけだったのではなかろうか。後にこの日のことを振り返るたびにそう自画自賛することになるのだが、このときの静雄にはまだ関係のない話だった。
(とうとう頭がイカれやがった……)
 これでもかと憐みを込めた視線を寄越してみても、真っ白な鳥の羽根をその薄っぺらい背中に背負った天敵こと折原臨也ことノミ蟲野郎は、静雄の声が届いているのかいまいち推し量りにくい表情を浮かべている。だが、何かを考えるように頤に当てられたほっそりとした指にはいつも通りきちんと指輪が輝いていて、静雄はムッと眉根を寄せた。
静雄はあれが嫌いだった。冷たくて、ゴツゴツしていて、とてもじゃないが進んで触れたいとは思わない。あれがなければもっと頻繁に臨也と手を重ねてやってもいいと思っているのに、と、臨也が聞いたら鳥肌を立たせそうなことを静雄は真剣に考えていた。
「のみむし……ノミ蟲? おやおや、随分とまあ酷いことを言うものだ」
 静雄の神経を逆撫でして舐め上げて唾棄する憎ったらしい声の響きは相変わらずではあるのだが、どことなく違和感を覚えるのはなぜだ。その背中についた妙なもの以上に、何かが抜け落ちているように思える臨也の表情はひどく薄気味悪いものがある。
「愛する者にはもっと優しくするべきだよ」
「愛っ……誰が手前なんか!」
「うん、そうだね。わかってるよ。俺じゃなくて君の好きな人に優しくしてあげなってこと」
「ああ? 手前、俺が手前以外のやつとヤってるとでも言いてえのか!?」
「……君の言ってること、よくわからないんだけど……」
 眉を下げた笑みは臨也がよく浮かべる表情の一つだったが、やっぱりどこか違って見える。柔和、とでも言えばいいのか。臨也と出会ってそろそろ十年になろうかという腐れ縁だが、臨也が静雄に対する態度を完璧に軟化させたことなどない。ただの一度もだ。褥を共にしているときでさえ、気を抜けばアレを切り取られるんじゃないだろうかと疑うくらいには、臨也は静雄と馴れ合うことを嫌悪する男だった。
 それが今や殺気のさの字も見当たらないこの腑抜けぶりだ。鳥の羽根をつけたくらいでこんなにも大人しくなると知っていたならば、自室のせんべい布団をさっさと羽毛布団に取り替えたのに……まったく惜しいことをしたものだ。
「何かおかしなことを考えてるね?」
 バサァッと惜しみなく羽根を広げたかと思えば、臨也はふよふよと空を舞って静雄の眼前へと迫りくる。地に足のついていない臨也とは、見下ろすことなく視線を重ね合わせることができた。そこでようやく静雄は気づく。くすぶり続けた、大いなる違和感の大元に。
「……手前、臨也じゃねえな?」
 すんと鳴らした鼻に届いたのはエーデルワイスの香りだけだ。いつもなら静雄の意識のすべてを引きつけて離さないノミ蟲臭がまったくしないのだ。艶やかな黒髪から人工的な花の香りを振りまいてシーツの上で乱れていたときでさえ、あの何とも形容しがたい甘ったるい香りは顕在だったというのに。
 臨也(仮)はきょとんと目を丸くした。かと思えば、すぐにまた眉を下げた笑みを浮かべる。慈愛に満ちた表情、とでも言えばいいのだろうか。一言で表すならば、吐き気がする。
「そうだよ、俺は君のノミ蟲くんじゃない。死に逝く君の魂をヴァルハラへと導きに、虹を渡ってここへ来たんだ。君の国の言葉では確か……ああそうだ、戦乙女とか呼ばれてたかな」
「乙女っつーのは、女のことだぞ。手前はどっからどう見ても男だろうが」
「まず気にするところがそこなの? ほんとうに変わった子だね……さあ類稀な資質を秘めた英霊くん、俺の手を取ってくれるよね?」
 差し出されたてのひらは、記憶の中のそれよりも滑らかで美しい。静雄がつけた数々の傷など見当たらない真っ白なてのひらを握り返す気には到底なれず、ただ深く息を吐いた。
 この臨也(仮)は、本物の臨也と同じくらいに頭がイカれている。ヴァなんたらいう単語は他ならぬ臨也の口から何度か聞いたことがあったが、自分には縁のない話だと思っていただけに記憶が曖昧だ。天国みたいな場所、とかなんとか言っていたような気もするが、トラックに撥ねられても骨折すらしない自分が老衰以外で死ぬことなどありえなさすぎていまいち実感がわかない。臨也(仮)も死に逝く君の魂を導きにとか言っていたが……手の込んだドッキリだと言われた方がまだ納得できる。
「俺、死んだのか?」
「正確には死にかけてるっていうか……まあそのうち死ぬんじゃない? だから俺と一緒に行こう。ラグナロクが君を待っている。こんな狭い場所で朽ち果てるには、君は惜しすぎる逸材だ。君を認めない世界なんて捨てて、俺と一緒においで」
 バサリと震えた羽根が美しい。ぼんやりと見つめながら、静雄はそっとまぶたを伏せる。
「なんでそんな格好なんだよ、よりにもよってよぉ……」
「気に入らない? 君の恋人の姿を借りただけだけど?」
「恋人なんかじゃねえよ、ふざけんなクソが」
 そうだ、臨也と己は恋人などではない。この街にあふれかえり、光の速さで消えていくような、そんなありふれた関係ではないのだ。
「……俺はいかねえぞ。偽者なんか興味ねえよ。自分でも趣味悪くて反吐が出そうだけど、俺はあいつしかいらねえ」
 足元のエーデルワイスが、囁くように体を揺らしている。白くて脆くて強かなあの身体を、なぜだか無性に抱きしめたくなった。
「……ヴァルハラは楽しいよ?」
 小首を傾げる仕草は少しだけ本物の臨也に似ているかもしれない。それは臨也がキスをねだるときの癖だった。思わず笑みを零した静雄の視界を、一筋のきらめきが貫いていく。眩しさにしかめた顔に触れた指先は、記憶の中のそれよりもずっと冷たくて容赦がなかった。
「なるほど、あれくらいじゃまだ死ねないってことか」
 まじまじと検分するような視線を寄越したかと思うと、触れていた静雄の顔からぱっと手を離し、臨也(仮)は微笑む。聖母のように穏やかな微笑はまるで女神だが、同時にどこかぞっとするような冷たさも孕んでいて、静雄はようやく自分が対峙している存在が何かとんでもないものなのではないかという懐疑を抱き始めた。
「仕方がない、ではまた迎えに来るとしよう」
 静雄の視界を襲い続けているきらめきを背に、臨也(仮)は翼を広げる。よりいっそう細めたまぶたに触れたのがくちびるだということに気づいた瞬間、静雄の足元がぐらぐらと揺れ出した。
「次は逃がさないから」
 青空が語りかけてきたかのような声でそう言われるのは悪くないかもしれない。そう思ったのを最後に、静雄の意識はぶつりと途切れた。





 次に目を開いたとき、静雄が置かれていた状況は散々なものだった。住めば都と慣れ親しんできた自室は見る影もなく、吹っ飛んだ壁がキィキィと風に鳴いているし、天井など三分の一も残っていない。降り注ぐ日の光だけは穏やかだが、それ以外は非日常極まりない。今後差出人不明の段ボールは無闇に開けない方がいいだろう。
 可憐に揺れていたエーデルワイスはいったいどこへ行ったのか。夢だったんだなあ、では片づけられない。人工のエーデルワイスの香りを振りまき、静雄を見下ろしながらナイフを振りかざしている臨也の姿の方が、よっぽど夢の中の出来事のように思えるからだ。
「……何を泣いてやがる……」
 ぽた、ぽた、静雄の頬に降り注ぐ雨があの虹を呼んだのだろうか。吹っ飛んだ天井から覗く青空には七色の橋などかかってはいなかった。
「泣いてない。馬鹿じゃないの」
 仰向けに寝転んだ静雄の枕元に膝立ちになって無表情で静雄を覗きこむ臨也の目は濡れそぼっているが、本人が泣いていないと言うのならばそうなのだろう。臨也の手に握られているナイフに陽光が当たり、そこから鋭いきらめきが生まれている。
(ああ、これか。さっきのあれ)
 静雄のおかしな世界に入り込んでくるくらいに、臨也はこのナイフに何かしらの感情を込めていたのだろうか。背筋がぞくぞくと震えるのを隠し、静雄は手を伸ばして臨也の頬に触れた。びくりと震えるものの、抵抗はない。
「手前の仕業か?」
「まさか。俺ならちゃんと確実に仕留めるさ」
「そっか。それもそうだな。こんな中途半端なことやんねーよなあ……あー痛ぇ……」
 うっかり死神に迎えに来られたのは伊達ではない。体中痛いし呼吸もままならない。アバラいってるかもしんねえなあと溜め息をつくのすら辛い状態だが、不意に近づいてきた臨也の顔に息を飲んだ。痛みが駆け抜ける。
「……ふざけんなよ」
 能面のようだった顔はわずかに歪んでいた。上下が逆さまなせいでその表情をきちんと読み取るのは難しいが、喜んでいないのは確実だろう。
「なんだよ、死んでほしいんじゃねえの」
「ああ死んでほしいさ。でもね、今さら俺以外にあっさり殺されかけられるとすっごいムカつくんだよ!」
「なんだそりゃ。勝手だなあ、臨也くんよォ……」
 不自由な身体を動かし、静雄は臨也の上体を引き寄せた。腕を伸ばしてその背中に触れ、そこに翼がないことにこれ以上ない安堵を覚えたまま、静雄は囁きかける。願わくはこの言葉がこれまでの死んでいた関係をぶち壊すきっかけになればいいのにと、そう願いながら。
「なあ臨也、俺のことしっかり捕まえとけよ。じゃねえと、手前そっくりの死神が俺を迎えに来ちまうぞ」
「……新羅を呼ぶよ。ついでに頭も診てもらうといいんじゃないかな」
 呆れた顔が少しだけ可愛いとも思うのだが、目下静雄の頭を占めるのは新しく買う布団を羽毛にするか否かという非常に重要な悩みごとだった。


20120917

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