猫を飼い始めた。 | ナノ

 セクハラ、パワハラ、アルハラ、この世の中にはありとあらゆるストレスが入り乱れている。社会と縁をぶった切りたくてもできないお勤めの身には、ほとほとやるせないことばかりが降りかかる。
「……あーあ……社会人は辛ぇなあ……」
 ぼやきながら夜の池袋を歩く金髪の男が一人。その手に提げられたコンビニ袋がガサガサと音を立てている。その中身は外見に似合わないプリンや牛乳なのだが、すれ違う人の目には恐ろしい凶器に映っているかもしれない。
 無理もない話だ。不機嫌そうにぼやいているその男は、何を隠そうこの池袋という街ではもっとも危険な存在として知られているのだから。
 平和島静雄という名前だけはひどく穏やかな男はため息をつく。深く、深く、まるでこの世の終わりがすぐそこにきているかのようにただ深く、めまぐるしく変わる街並みを眺めながら。
 生まれ育った街だ、静雄も人並みに池袋のことは好いている。だがやはり逃れられないストレスが煩わしくて仕方がない。できることならのんびりと田舎で暮らしたい。そう、あのノミ蟲野郎さえどうにかできたのなら――今すぐにでも。
「………………」
 憎たらしい男の顔を思い浮かべたせいだろう、静雄の額に血管が浮く。それを見てしまったサラリーマン風の男がひしゃげた声を上げて足早に通りを抜けた。静雄もそれについていく。男はさらにひしゃげた声を上げた。「すみませんすみません」と謝る声に首を傾げる。
 なんてことはない、静雄の住むアパートが偶然にも男が進んだ方向にあるからそちらへ足を向けたというだけのことだ。男はただ逃げたいだけで、静雄はただ帰りたいだけだった。どこにでもある偶然が、時に悲劇に変わる。池袋とはそういう街だった。
「……あんた何言ってんだ? 謝るってことはよぉ……それなりに身に覚えがあるってことだよなあ……? 俺に謝んなきゃなんねえことをしたっつー自覚がよぉ……?」
「ち、違っ……す、すみません、すみません、そんなつもりじゃ……」
「だから何がだよ。はっきり言ってくんねえと決めらんねえだろ? あんたを殺すか、半殺しに抑えとくかってことをよぉ!?」
「ひ、ひぃい!」
 とうとう叫びだし、男は一目散に逃げ去った。途中、どこかの飲食店のポリバケツに引っかかったらしい。プラスチックとアスファルトがキスする間抜けな音を他人事のように聞きながら、静雄はふうと息をついた。
 平和島静雄の堪忍袋の緒はひどく脆い。あるかなきかにか細く、その用途に耐えうるのか疑問なほどに脆い。とはいえ様々な――ほんとうに様々な経験を積んだことで、ほんの少しは強くなっていた。たとえばどう見ても怯えすぎてろくに喋ることすらできなくなっているおっさんを見逃してやる程度には。
 静雄は何事もなかったかのようにまた足を進めだした。嫌な匂いに顔を顰めながらアスファルトを踏みしめる。さてはさっきの男が生ゴミをひっくり返しでもしただろうか。やれやれと頭を振り、角を曲がった。皮靴のつま先にカツンとポリバケツの蓋が当たる。中身を撒き散らして転がっている本体の向こうで、何かが動いた気がした。
「……?」
 首を傾げ、目を凝らす。嫌な匂いがひどくなった。





「猫ぉ?」
 翌日、仕事帰りのトムを捕まえて質問攻めにした。首輪がほしい、檻がほしい、何を食わせたら喜ぶかわからない、ミルクを飲ませようとしたら嫌がる、結局水にしたんスけど猫っつったらやっぱミルクでしょねえトムさん。矢継ぎ早にまくしたてる後輩に押されながら、どうどうと両手を前に突き出す。
「なんだよ静雄、飼うのか? お前の住んでるとこペットOKだったっけ?」
「わかんねッスけどダメだったら引っ越します」
「はあ……いれあげてんなあ……そんな好きだっけか? 猫」
「……ほっとけなくて」
 しゅんと肩を落とす静雄の姿はどこか懐かしいとトムは思う。中学時代はよく見ていたが、いつの間にかあまり見なくなっていた。そういやあこいつも大人になったよなあと妙な感慨を抱き、トムはうんうんと頷いた。先輩の心後輩知らず、静雄はとにかく質問の答えが気になって仕方ないようだった。
「つっても俺も猫のことはよく……」
「猫……ネコ目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類。肯定ですか?」
 ひょいっと美しい顔を覗かせたのは静雄の博識すぎる後輩だった。
「ね、ねこも……ねこあ……ねこぞ……?」
「犬と並び愛玩動物つまりペットとして飼われることの多い小動物。ニャーニャーという鳴き声が特徴的。肯定ですか?」
 目を白黒させる静雄とは対照的にヴァローナの表情は変わらない。その力を認めた男である静雄の肯定をひたすらに待つ姿は褒美を待つ犬のようにさえ見える。どれほどの美貌も静雄にかかればそんな評価になってしまう。デリカシーに欠けるというよりは、ただただひたすら静雄は無頓着な男だった。
「おーそうだそうだ! ヴァローナは物知りだなあ。なっ静雄?」
 言われた内容を理解しようと努めている静雄と肯定されるのを待ち続けるヴァローナは互いに見つめあったまま動かない。いい加減しびれをきらしたトムが間に割って入るまでずっとそうだった。
「はあ、そッスね」
「お二人の会話から類推します。静雄先輩は猫の飼育を始めた。肯定ですか?」
「おう」
 家に置いてきた猫を思い浮かべているのか、静雄がふっと笑みを零す。相変わらず表情を変えないヴァローナはそうですかと頷いた。
「動物とのスキンシップはストレス緩和に効果覿面。アニマルセラピーの例もあります」
「ストレス緩和……? マジか」
「あーそれ聞いたことあるわ。イルカとかあるよな?」
「肯定です」
「イルカ……サンシャイン水族館でも行けばいいんスかね?」
「いやお前には猫がいるんだろ?」
 きょと、と静雄の目が丸くなった。「あー」とか「うーん」とか意味のないつぶやきをしたかと思えば「それもそうッスね」と妙に納得したように首を縦に振る。そして話がズレていたことにようやく思い至ったのか、はっとした顔でヴァローナに向き直った。
「猫の飼い方教えてくれ!」
「……承知しました」
 静雄の剣幕に押されながらも、ヴァローナは頷いた。そんな二人を見ていたトムだけがにやにやと頬を緩めている。
「いやあ若いっていいよなあ」
「トムさん俺とそんなに年変わんねえでしょ」
「うるせえな、言いたかっただけだよ!」







 猫を飼い始めてからの静雄はすこぶる機嫌がいい。最初の方こそ頬や腕にひっ掻き傷をつくりまくっていたものだが、流石に同居が一ヶ月近くともなれば扱いにも慣れてくるらしい。日に日に減っていく傷と比例するように、静雄のストレスも目に見えて減っているようだった。
「調子いいな」
 静雄の機嫌がいいと仕事がやりやすい。トムはにこにこと笑みを浮かべながら静雄に缶コーヒーを差し出した。「ありがとうございます」と控えめに礼を言って受け取る静雄の手の甲には真新しい傷跡がある。トムは首を捻った。
「最近めっきり減ってたのになあ。今朝はご機嫌斜めだったのか?」
 トムの視線を辿って傷を目にした静雄は、ああと納得したように頷いた。
「寝てたのを無理に起こして抱いたから、俺が悪いんスよ」
 そう言って傷を撫でる静雄の瞳は優しかった。慈愛に満ちている、といったら言い過ぎかもしれないが、とにかく猫が大事でたまらないらしいことは窺える。変われば変わるもんだなあと思いつつも、どこか背筋が寒いのは否めない。
 静雄の体は特異だ。自販機を持ち上げてぶん投げる、ナイフは5mmしか刺さらない、ピストルで撃たれても歩ける――そんな静雄の肌に傷をつけられる猫ってどんなだ、トムは想像して少し震えた。やはり背筋が寒い。
 そこでふと思う。そういえば静雄に猫の容姿について詳しく聞いたことがなかった。興味がなかったわけではないのだが、大抵はトムやヴァローナが質問するよりも静雄が猫について報告する方が先だったのでその機会をなんとなく失っていたのだ。
「そういやよぉ、静雄……お前が飼ってる猫って種類は?」
「種類? いや、知らねーッス。これまでの人生であんなの見たの初めてなんで」
「ほー珍しい品種なのかね……? 色は?」
「あー黒いッスね……いや、白……? あ、腹は白いッスね」
「へえ……?」
 つまり背中側の毛は黒で腹の方は白いのだろうか。ならば黒猫という括りでいいだろう。それにしても猫のことを話している静雄の表情はひどく穏やかで、声はどこまでも凪いでいる。今なら名前負けしているなどと誰も言わないだろう。ただ一人、静雄とは天地がひっくりかえっても相容れないであろうあの黒づくめの情報屋を除いて。
「いやあ、平和でいいよなあ……」
 とはいえ、静雄の前でその名前を出すほど愚かではない。静雄の機嫌がいいのはもちろん猫のおかげだろうが、あの情報屋が池袋に姿を現していないというのもあるだろうとトムは思っている。もちろんそれも言ったことはない。一つしかない命を守るのは人間ならば当然のことだ。
「そッスね……田舎にでも引きこもろうかな……山奥に小屋建てて鶏とか牛とか飼って、そんで社長に毎月借金返済して……ああいいなあ、そういうのいいッスよね」
 子供のように頬を染めて未来を思い浮かべる静雄の姿はどこまでも健全な好青年そのものだった。誰も理解してくれない当然だ俺だって気持悪ぃよこんな力でも愛されたいでも愛されないもう誰も傷つけたくないだから距離を取りたいなのに一人は嫌だひとりぼっちは怖いんですトムさん。いつかの日、酒に酔った口調でそう吐露した静雄の寂しげな背中をトムは今も覚えている。
「うん……いいんじゃねえか? 静雄ずーっと言ってたもんな、いつか田舎へ引っ越すって」
「ッス。ずっと夢だったんス」
「だよなあ、うんうん俺も覚えてるぞーいつか折原のこと始末したら絶対に……って……」
「……………」
「あ、……あー……や、その……」
 たり、とトムの額から頬へと汗が滑り落ちる。一瞬で表情を消した静雄を前にすると冗談抜きで体が硬直した。身近にいるからこそ、静雄の恐ろしさは身に染みているのだ。静雄の地雷を避けて避けて避けまくることで得ているポジションだというのに今ここで最大級の地雷を踏んでしまうとは。
「……トムさん」
「わ、悪かった! すまん、静雄!」
「あ、いや、いいんスよ。俺も過剰反応しすぎッスよね……もうそんな必要ねえのに」
 消えていた表情を戻し、静雄がポリポリと頬をかく。「すんません」と謝る静雄の頬は若干上気していて、心なしか照れているようにも見える。しかし照れる要素がどこかにあっただろうか。トムにはわからない。わからないながらも、手の甲の傷を愛しげに見つめる静雄の姿は妙な胸騒ぎを呼び起こした。
「静雄……?」
「はい? あ……やっべえ……すんませんトムさん! 今日はもうこのまま上がってもいいスか? もう回収終わりましたよね!?」
「え? あ、ああ……何か急用か?」
「繋いでくんの忘れてた。いま思い出したッス。首輪はつけてるけど、すぐ逃げようとしやがるから心配で……」
 そう言って静雄はぐいっと勢いよく缶コーヒーを流し込んだ。きっちりとクズかごに捨てるあたりが静雄らしいとは思うが、いまだに違和感は拭えない。去ろうとする背をこのまま見送るのはだめな気がした。静雄ほどではないが、トムの勘は割と当たる。
「な、なあ、静雄……繋いでなくたって逃げねえだろ、玄関も窓も閉めてんだろ?」
「だめッス。だって玄関も窓も中から鍵開けられるじゃねえッスか。賢いやつだからだめなんスよ、すぐ開けちまうんス」
 まるで当然のことのようにそう言う後輩の背中は、いつかのそれとは違って寂しげではない。ピンと張ったその背中にかけなければいけなかった言葉をいくつか飲み込んで、小さく「静雄」と呼びかける。振り向いた顔はとても、とても幸せそうだった。
「田舎に引っ越したら、繋がなくてもよくなんのかなあ……」
 そうだな、とは、言えなかった。


20120630

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