なう | ナノ

 そんなわけで今こうして店員から声をかけられるのを待っているわけなのだが――まずこうして件の店に入り込んでいること自体がおかしいと臨也は気づいていない。気づきたくない、という方が正しいかもしれない。
 ここで静雄を待ちぶせしてどうしたいのか、臨也にもよくわかっていない。「この浮気者!」とシャンディガフをぶっかける? そもそも恋人ではないのだから浮気もクソもない。「俺に飽きたの?」と涙ながらに問い詰める? お前はどこの処女だ。
 どれもこれも見当違いでどうしようもない反応だ。臨也は呻いて頭を抱えた。そんな情けない姿すらも艶めいて見えるほどに美しい顔をしている男である。静雄が来る来ない以前に、臨也を悩ませる問題はもう一つあった。
「奈倉様」
「あー……はい?」
 すっかり慣れてしまった声かけに、瞬時に営業スマイルを浮かべてにこやかに対応する。忘れてはいけない、ここはシングルズ・バーだ。男女が出会いを求めて集う場所なのである。店員に連れられてくる女性客を見るともなしに眺めながら、臨也は胸中で嘆息した。
 よくよく考えなくても臨也は男だった。そして静雄も男だ。たとえ運よく静雄とこの店で鉢合わせしたとして、どう考えても同じテーブルにつけるわけがなかった。冷静になればすぐわかることだというのにそこまで気が回らなかったという事実が何よりもきつい。ようやく冷えてきた頭を振り、臨也は店員が次に口にするであろう申し出を断ろうとした。そして会計を済ませて帰ろうと思った。
 店員の肩越しに、網膜に嫌というほど焼きついてしまったバーテン服の男さえ見つけなければ。
「奈倉様? どうかなさいましたか?」
 店員の声を遠くに聞きながら、臨也はくちびるを噛みしめる。まるで海で溺れているような感覚に襲われている。苦しくて、息ができなくて、視界がぼやけていた。
「……ここ、VIPルームってあるかな……?」
「はい、ございますが……?」
「いくらでも払うから貸し切りにして。で、あそこのバーテン服の彼を呼んでほしい」
「は、はい……?」
「店長でもなんでいい。責任者に聞いてきて。早く」
 常にないほどの苛立ちを抱えながら、静雄を睨みつける。いつもなら臭い臭いと失礼なことを叫んで真っ先に臨也に気づくくせに、今はこちらを見向きもしない。呑気に声をかけられるのを待っている姿に、過去最大級の殺意すら覚えた。
 ほどなくして、奥に引っ込んでいた先ほどの店員が戻ってきた。概ね臨也の注文は聞き入れてもらえたらしい。先にお通しいたしますので、と言う店員の後についていきながら、臨也は視線だけで静雄の姿を追った。やはりこちらを見ていないその瞳にナイフを突きたてる瞬間を夢想しながら、臨也はゆっくりと視線を前に戻した。


「なんで手前がこんなとこにいやがんだ!? あァ!?」
 VIPルームで対面した後、開口一番そう言い放った静雄の態度は想定の範囲内だった。手にしたロゼワインをぶっかけてやろうかとも思ったが、バーテン服を汚した相手は何があろうと許さない男に対してそれは自殺行為だ。もっとも、臨也が何をしようとも静雄は変わらぬ殺意を向けてくるのだが。
「なんで? ここに来る理由なんて、そうないよね?」
「っ手前……!」
「なーんで怒ってるのかなあ……座れば? なかなか悪くないよ、このソファ」
 どろどろどぐちゃぐちゃな胸中などおくびにも出さずにそう言うと、静雄はちっと舌打ちをして乱暴に腰かける。女性の前でもそんな態度を取るのかと聞きたくなったが、自爆する未来しか見えないのでやめた。どんな答えが返ってきても嫌だった。
「何か飲めば? おごるよ」
「手前の施しなんざ受けねえよ」
「人の好意は素直に受け取るもんだよ、シズちゃん」
「何を要求されっかわかったもんじゃねえ。なんせ手前はノミ蟲だからな。むしゃぶりつくしてポイはごめんだ」
「ふん……よく言う」
 ポイ捨てしようとしてるのは自分のくせにと詰りたかった。臨也のプライドがそんなことを許すはずもない。一時でも静雄のものだったのだと自ら認めるような、そんな発言できるわけがなかった。
「じゃあ俺が勝手に注文するからね。カルーアミルクでいいでしょ」
「……おう」
「最初から文句言わずに選べばいいのに」
 自分と静雄の分のオーダーを伝え、臨也は軽く息をついた。向かいに座る静雄は眉間に皺を寄せていて、見るからに不機嫌そうだ。プリンを目の前で食べてやったときの比ではないその顔に、臨也の臓腑がずんと重くなる。
「大っ嫌いな俺とこんなとこに閉じ込められるの、嫌だよね。邪魔して悪かったよ。話がしたかっただけだから、ちょっとだけ我慢して。終わったら俺もう帰るから」
「はあ? 手前、その、なんだ……あー……喋りに来たんじゃねえのか?」
 女と、と聞きたいのだろう。憎たらしい。臨也は足を組んで視線を下げた。
「別に。結婚願望とか、特にないし」
「ねえのか?」
「君と違ってね」
「……ねえのか」
 二度も答える気はなかったので口を噤む。沈黙が降りてきそうになったが、タイミングよく店員がドリンクを運んできた。興味津津といった様子の視線にやわらかな笑みを向けて早々に追い出し、グラスを傾ける。ギムレットが喉を落ちていく感覚に目を細め、臨也は息を吐いた。
「……シズちゃん、結婚したかったんだね」
「ああ」
「……即答かよ」
 グサリと傷ついている臨也に目もくれずちびちびとカルーアミルクを飲む姿すら可愛いと思ってしまう。そんな自分を殺したい。静雄とセックスなんてするんじゃなかった、臨也は漸く後悔し始めている。
 絆されるほどの情など自分にはないはずだった。そうなるのはむしろ静雄の方だろうと思っていたのに、蓋を開けてみれば傷ついているのは臨也ただ一人だ。セックスしたくらいで我が物顔していたのは自分の方だったかと笑い飛ばしたくなるくらいに滑稽で、惨めだった。
 グラスを掴む静雄の大きな手から、筋張った腕へと視線を滑らせる。あそこに爪を立てるのはもう自分ではないのだと思うと泣きたくなった。何度も臨也の中で吐き出した倒錯的な欲望を正しい方向へと軌道修正するのか、結構なことだ。反吐が出る。
「シズちゃんがこんなとこ来てるなんて、俺知らなかったよ。秘書に聞くまで全然気づかなかった。君のことならなんでも知ってると思ってたんだけどなあ……」
「油断してたんじゃねえの」
「あは、そうかもねえ……手の中にあるって思ってたのに、違ったんだ……シズちゃんはさー蜃気楼とか逃げ水とか、そんな感じだ。きっと永遠に俺には捕まえられないんだよね……」
「追っかけてんのは俺だろうが……つーか、手前もう酔ってんのか?」
 心配そうな声、だと思いたかった。ギムレットをすべて流し込んでから、臨也はぼんやりと静雄の発言を反芻する。
「そうかもしれない……この部屋に来る前から飲んでたし……」
「……俺が来る前、何人かと話したのか?」
「うん。定石どおりの会話ばかりでつまらなかったな」
「そうか? 俺は、割と楽しいと思うけどよ」
「……君って、あれだよね。人を殺してから『そんなつもりじゃなかった』って言ってのけるタイプ」
「手前を殺すぞ」
 ああそうしてよと喚くことができたらもう少し幸せだったかもしれない。臨也はぐすっと鼻を鳴らした。アルコールが入ると妙に感情の振れ幅が大きくなるから困ったものだ。もう十分に傷ついているからとにかくこの場を去りたかった。
「俺、帰るね」
「あ? 話、終わってねーだろ」
「いや、いいよ。もういい。よくわかったからさ……さよならだよね?」
 静雄の目がどんぐりのように丸くなる。可愛い、ずっと見ていたい。そう思う度に傷つく心を支えられるほど臨也は頑丈ではない。寂しがりな静雄と相性がよかったのは、何も身体だけに限ったことではなかった。
「ちょっとだけ楽しかった。ごはん食べたり、テレビ一緒に見たり、ほんとにちょっとだけ楽しかったよ。信じなくてもいいけど。あ、シズちゃんとやらしいことするの気持ちよくて好きだったから、もうできないのはちょっと寂しいかな……」
 べらべらと勝手に回る口を恨めしく思う余裕もない。とにかく泣き顔だけは晒すまいと心に決めて臨也は俯いた。氷の残ったグラスは玉のような汗をかいている。
「鍵は捨てといて。そのうち変えるし、もう来ることないと思うけど、捨ててね。ちゃんと捨ててくれよ。でないと俺……俺……」
 でないと、何だというのか。やっともつれてきた舌をもてあまし、臨也は言葉を繋げなくなった。何か言ってくれればいいのにと身勝手な期待を寄せていた静雄に不意に腕を引かれて体が傾く。咄嗟にテーブルに片手をついて支えた。
「別れようってことか?」
 地を這うような、地獄の釜から響いているような、そんな物騒な声だった。しかもその内容も穏やかではない。なんでそんな表現を使うのだと静雄を詰りたくて仕方がない。
「違う。君が俺を捨てるだけだ」
「あ? 寝言は寝て言えよ、臨也ぁ……俺にわかる言葉で話せ」
「だって君、結婚したいんでしょ……教会で誓いのキスして子供とかつくってさぁ……幸せになりたいんでしょ」
 俺以外の誰かと、と付け足さなかったのは最後の意地だった。視界が勝手に滲み始めたせいで、静雄の表情はよくわからない。聞こえた溜息に肩が大げさに跳ねる。
「臨也くんよォ……そりゃどう解釈されても文句言えねえってわかってんのか?」
「何が、ん、ぅ?」
 やわらかで、少しカサついた感触には覚えがありすぎる。ふんわりと甘いカルーアミルクの香りがさらに涙を誘う。滑り込んでくる舌を噛み切るどころか喜んで受け入れてしまった時点で完全に臨也の負けだった。
 互いの足がぶつかってガタガタと鳴るテーブルを静雄の足が蹴り飛ばした。大きな手が臨也の腰を掴んで引き寄せる。ぴたりとくっつく身体が愛しくて、たまらなく寒かった。
「やめて……」
「嫌だ」
「これ以上惨めになりたくないんだ」
「だからそういうこと言うなって……」
 すげえ興奮すっからよ、と耳打ちされて背筋が粟立った。どこでそんな手管を覚えてきたのだろうと憎らしく思いながらシャツを掴むと、何か勘違いしたらしい静雄にきつく抱きしめられた。
「別れねえぞ。別れねえ。絶対別れねえからな」
「別れる、とか、そもそも俺ら恋人じゃない」
「手前は付き合ってもいねえ男にここ使わせてやんのか?」
 するりと静雄の手が臨也の臀部をなぞる。びくりと反応した臨也に気をよくし、そのまま指を割れ目の部分に沈ませた。肌にかかる熱い息は、静雄が興奮している何よりの証拠だ。
「ち、違う……」
「だよなあ。でも、俺はここに触っていいんだよな? 舐めてもつっこんでもいいんだろ?」
「あ、あ、……ぐ、ぐにぐにしない、で……」
「ならよー俺ら恋人だよな? そういうことになるよなあ?」
 酒と刺激で理性が飛びかけている。もうどうでもよくて必死で首を縦に振ると、漸く指が離れていった。そのまままた両手で抱きしめられて、臨也は静雄のベストに頭を預けた。
「……結婚前から愛人キープしたいわけ? しかも男の愛人とかどんだけ悪い男だよシズちゃん」
「俺は手前一人で手一杯なんだよ、アホ蟲」
「助けて波江さん、俺のシズちゃんが天然タラシからただのタラシにジョブチェンジしやがった……」
「だから手前はマジで……あーめんどくせえ、何だよなんでそんな絡むんだよ、手前ほんとは知ってんだろ!? 俺はただトムさんに付き合って来てるだけで、別に女と付き合いたいわけじゃねえってよぉ! お、俺は……俺はもう心に決めたやつがだなぁ……っ」
 酸欠になりそうなほどの拘束の中、聞こえた名前に臨也はぱちくりとまばたきをする。
「田中トム? え、一緒に来てたの? いたっけ?」
「……は? 手前、気づいてなかったのか?」
「だってシズちゃん見つけたら他のものは見えなくなるから……」
「だからそういうこと言うなってさっきから……あークソ……つーことはよ、マジで俺の浮気を疑っていたと。そういうことだよなあ? ノミ蟲くんよォ?」
 静雄の声に不穏なものが混じり出す。思わず顔を上げたことを臨也は一瞬で後悔した。般若もびっくりの凶悪面だ。ほんのり朱に染まっているところがまた恐ろしい。
「むしろ手前の方が浮気だよな? 女と喋って酒飲んで無駄に色気振りまいてよぉ……あーあー臨也くんはマジで俺を怒らせる天才だなあ……いつだったか秘書のねーちゃんに3P持ちかけたりもしたしなあ? 手前この浮気蟲……揚句に合い鍵捨てろだ? さよならだぁ? 殺す殺す殺す殺す殺す殺すマジ殺すぶっ殺す犯し殺す」
「浮気じゃない断じて違う! だ、大体君が頷いたからじゃないか! 結婚したかったのかって俺が聞いたときに頷いたりするから……そんな嘘つくから話がややこしく」
「嘘じゃねえよ。だって手前としてえし」
「な、るん……だ……あああああやだもうこいつやだ死んで早く死んで」
 羞恥のあまりに耳まで赤くしている臨也の頬にちゅっと口づけて、静雄はにやにやと笑っている。大変よくない傾向だと身構えた途端に耳朶を舐められてひゃっと間抜けた声が上がるのを、静雄は心地よさそうに聞いていた。
「嫉妬ならもっとわかりやすくしろよ、クソめんどくせえなあ。俺は手前だけだ。教会で誓いのキスすんのも、子づくりすんのも、幸せになんのも、全部お前と一緒がいい」
 静雄の声がじんわりと身体に染み込んでいく。先ほど手離しかけた静雄の腕に爪を立てる権利を実行しながら、臨也は染まった目元で静雄を見返した。
「じゃあ、とりあえず……連絡先の交換から、で」
「いや、そんなことよりセックスだろ」
 俺の感動返せこのクソ天然タラシ野郎!


20120617

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