ドラマCD『諸行無常』のネタバレを含みます。 東京、六本木。テーブル席に座って一人でシャンディガフを流し込んでいる男の横顔は目を引いた。何か悩み事でもあるのか憂いを帯びた頬のまろみがひどく美しい。グラスを傾ける細い指にはめられた指輪が妙な存在感を放っている。夜の闇を思わせる漆黒の髪に映える白い肌は艶めかしく、女性のみならず男性の中でもちらちらと視線を送る者が少なくはなかった。 それらすべてを拒むでもなく許すでもなくただゆったりとした笑みで受け流し続けている男は、その名を折原臨也という。池袋ではちょっとした有名人として知られているはずの新宿の情報屋がなぜ一人で六本木のバーにいるのか、というと――話は数日前にさかのぼる。 その日、臨也はとても機嫌がよかった。前日にナジャタウンで食べた一日十個限定ぷるぷるプリンはとても美味しかったし、何より天敵である男への嫌がらせがとてもうまくいったのだ。ほくそ笑むのも無理はなかろう。愛すべき秘書のために働く片手間にからかってやったわけだが、なかなかどうして単純なあの男は気持ちいいくらいに怒髪天を衝いていた。にやにや笑いながら事務所の椅子に座ってくるくると回転する。 人間が好きだ、人間を愛してる、そう豪語してやまない折原臨也が唯一愛せない人間――折原臨也は彼を『人間』とは決して認めていないのだが――それが平和島静雄だ。いい年した図体のでかい男が目の前で大好物のプリンを食われたくらいであそこまで怒る地獄絵図、思い出しただけで臨也の背筋は歓喜に震えた。 「あー馬鹿だなあ馬鹿だなあ馬鹿だなあ! ほんっと成長してない」 ほんとうに機嫌がいいのだろう、美しい妖精の首を両手に抱えたまま視界を揺らし、臨也は歌でも歌いだしそうなくらいの声を喉から吐き出した。黙ったままそれを聞いている矢霧波江の反応は対照的で、実に不機嫌極まりなさそうである。それはそうだ、大事な大事な弟のことをどこの馬の骨とも知れないアングラ稼業の男と死ぬほど嫌いな雇い主(便宜上)にこきおろされたのは記憶に新しい。 「ねえ、波江さん……なんで昨日からそーんな怒ってるの?」 「あなたに言ってもわからないわよ」 「えー傷つくなあ……」 「よく言うわね」 頭から熱湯をぶっかけてやろうかと思うほどに苛立っている波江の表情すらも、臨也にとっては愛すべき人間の愛らしい一面に過ぎなかった。それがまた波江の神経を逆撫でしているということも理解しているが、心から愛しているのだからもう少し優しくしてほしいよねえと臨也は首に愚痴を零す。 夢見る少女のごとく目を開かない首を見つめる瞳は一見優しげに見えるが、どこまでも拭いきれない侮蔑がそこにはあった。人間ではないものは愛せないと嘯く情報屋が抱える最大級の矛盾を知っているからこそ、波江にはその姿がどこまでも不気味に見えるのだ。 そこまで考えて、波江はふとあることに思い至った。矢霧製薬を捨ててかつての立場と権力をほぼ失った彼女だが、子飼いの人間を持っていないわけではない。愛する弟のためにと池袋で動かすことが多いのだが、そういえばつい一週間ほど前に六本木でおもしろいものを見たのだと聞かされていたことを今唐突に思い出した。 しばし思案してから、波江はちらりと上司の顔を盗み見る。相変わらず楽しそうなその顔にムカついたことを理由に据え、その美しいくちびるを開いた。 「そういえばあなたのお友達のことだけど」 「新羅がどうかした?」 「いいえ。セックスしている方の爛れたお友達のこと」 「はあ? 友達じゃないよ。やめてよねーせっかくいい気分だったのに……シズちゃんが何?」 指摘されても少しも動じないところも憎たらしい。不潔だわと顔を顰めた波江に、臨也は悪びれた様子もなく続きを促す。恥じらいを持てとは言わないが、もう少しきまり悪そうにしてもいい場面だと思うのだが折原臨也にそんなことを望んでも無駄というものだった。なにせ上司とその天敵であるはずの男が真昼間から睦み合っている場面を見せられて固まっている秘書に対し、笑顔で「交ざる?」と言ってのけたような男だ。あのときばかりは慌てた様子で臨也を殴ってそのまま気絶させた平和島静雄に対し、ブラボーと叫びたかったくらいである。 愛せないはずの男とセックスをしている。しかも、恐らく臨也には他にそういう相手がいない。たとえ臨也がゲイでとんでもないマゾヒストだったとしても、顔を合わせれば殺し合いをするような男をベッドの相手に選ぶ理由がさっぱり理解できない。だが実際に二人はセックスしているのだ。まさしく事実は小説より奇なりである。 まるで理解できない矛盾を抱えた男の顔を気味悪げに見つめながら、波江は口を開く。話を続けるためだ。 「私の知り合いがね、六本木で見かけたんですって。平和島静雄を」 「へえ? あの池袋引きこもりがねえ……で? それがどうかした? まさかただの世間話じゃないんだろう?」 首を入れてある容器を愛しそうに撫でながら、臨也が口の端を持ち上げる。その顔がどんな反応をするか、少し見てみたくなった。腹いせと好奇心、臨也にぶつけるにはちょうどいい感情だ。 「シングルズ・バーだったそうよ、見かけた場所」 「…………………………は?」 鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。臨也の下で働きだして随分と時間が経っているが、こんな顔を見た記憶はほとんどない。 「あら、シングルズ・バー知らないの? 最近流行ってるみたいよ」 「いや、え、待って、知ってるけど……なんでそんなところに行くわけ? なんであれがそんなところに?」 「なんで、って……婚活でしょ?」 そのときの臨也の様子といったら、まるでこの世の終わりを見ているようだったわ。後にこの日のことを振り返った波江は、ため息とともにそう語る。 平静を装っているつもりらしいが、首を抱えている手はぶるぶる震えているし眉が下がっている。おまけにくちびるの色も悪く、誤魔化そうと噛みしめているのが逆効果にしかなっていなかった。 「まさか。あの化物にそんなことできるわけない。どこか、違うお店と間違ったとか」 「料金システムも正しく理解してたのに? 少なくとも一見じゃないわよね、それ」 「……バーテンとして雇ってもらう下見、とか……」 「どうして客側になって下見する必要があるのよ」 「だって、波江さん。シズちゃんがそんな積極的なわけがない……」 少なくともあなたの腰を掴んでるときはとても積極的に見えたけれど、と皮肉を言う気にもならなかった。目に見えて動揺している。それどころか落ち込んでいるようにさえ見えるのだ。そんな臨也に、流石の波江も驚きを隠せなかった。 食えない男だと知っているし、食うつもりなど毛頭ない。それ故にこうもしおらしくなられると逆に扱いに困るのだ。面倒だという気持ちを隠すことなく、波江は静雄が通っているかもしれないバーの名前を臨也に告げる。後はご自由にどうぞと言っておいたが、それが臨也に聞こえていたかは波江の知ったことではなかった。 → |