君にあげよう、僕の愛と破り捨てて、ラブレターの続き 夢見ていたことは何一つ現実にはならなくて、相変わらず俺とシズちゃんの間には深くて冷たい川が流れている。 越すに越されぬその川を挟んで見つめ合い、ただひたすらに傷つけあってきた。 気づけば、十年以上もそうしていたらしい。俺たちは、もう三十歳を少し過ぎていた。 変わらぬものがあるように、変わりゆくものもある。 たとえば、シズちゃん。 暴力がバーテン服着て歩いているような破壊神だったシズちゃんは、今では標識を引き抜くことも自販機をぶん投げることもしなくなった。その理由は後述するとして、俺はそれが少しつまらなかった。 たとえば、俺。 シズちゃんを傷つけながら自分も傷つけていた俺は、三十を過ぎてようやく自分を守ることを覚え始めていた。もう少し具体的に言うと、彼と会うとき、二回に一回はセックスしないようにしている。 シズちゃんは最初、他にいい金づるができたのかと俺をひどく疑った。でも、昔を思い出しながらすり寄って手を握ったら、戸惑いながらもそっと握り返してくれた。 俺はそれがうれしかった。とてもうれしくて、泣きそうになったくらいだ。もちろん、君程度がいい金づるになってるわけないだろ自惚れんなって付け足すのはわすれなかったけど。そもそも、金が欲しくてシズちゃんとヤってるわけでもないけど。 いやらしいことをせず、ただシズちゃんにくっついているだけの時間はとてもあったかくて、とても幸せな気持ちになる。でも、高校の頃よりもずっとシズちゃんのことを好きになっている自分が怖い。触れられるたびに増えていく「好き」は、金をもらうたびに絶望へと変化する。 ただ一言、もうやめよう、って。そう言わずにはいられなくなる日が、そう聞かされる日が、怖くて怖くてたまらないんだ。 「なんかよ、最近やけに声かけられんだよなあ」 煙草の煙をふうと吐きながら、シズちゃんがガシガシと頭をかく。髪抜けるよ、そう言おうとしてやめた。抜けて禿げれば寄ってくる女も少しは減るかもしれないと思った。かどうかはご想像にお任せしよう。 シズちゃんの言うところの「声をかけられる」は、スカウトやらキャッチではない。そう知っているからこそ、シズちゃんのその報告は決して愉快なものではなかった。 「へー」 「なんだよ、ちゃんと聞けって」 「聞いてるさ。ただ、あまり興味はわかないかな」 「……そうかよ」 途端にぷいっとそっぽを向いてしまった彼は横顔までも端正で、俺は溜息をつかずにはいられない。どういう反応を求められているかがわかるだけに、素直に期待に添えないでいる。こんなところは、いつまでも成長しないものらしい。 「好みの子がいたら、電話番号でも聞いたら? 直でホテル行ってもいいかもね。平和島静雄に美人局しかけるような命知らずはいないだろうしさ」 「……なんでそうなんだよ」 「なんでって……自慢でしょ? それ。俺は選り取りみどりだぞーってね」 「そうじゃねえ」 わかってるくせによ。そう唸りながら、シズちゃんはさほど短くなったようには見えない煙草を灰皿に押しつけた。俺を引き寄せて首筋に顔を埋めてくる、その吐息がひどく甘い。背中がぞくぞくするのは、もうどうしようもない反射だ。すりこまれているのだ、身体の奥の奥まで。 「シズちゃん……今日は、しない日だ……」 「うるせえよ。手前がクソムカつくことばっかり言うからだ。色つけてやるから黙って抱かれてろ」 「っ、シズちゃん……」 がぶがぶと首を、耳朶を、感じるところを優しく噛みながらしゃべられることに、俺はとんでもなく弱い。肩を叩く手を束ねられて押さえつけられたら、抵抗する手段はもうなかった。少なくとも、第三者がここにいたらそう思うことだろう。 ああ、君は優しくてひどい男だ――いつだって俺に逃げ道を与えてるくせに、出口には行かせてくれない。 本気を出せば逃げられる程度にしか、力をこめていない腕の檻。嗅ぎ慣れてしまった煙草の匂いに強い恋慕と執着と後悔を覚えながら、俺はまた彼に身体を売るのか。 もうやめようって、そんな一言すら言えないままで。 「嫌だよ、シズちゃん……話がしたいんだ……」 「……触んなきゃ、死んじまうんだよ」 「何それ。馬鹿だな、君って」 思わず鼻で笑ってしまったから、シズちゃんは怒ったのかもしれない。頬を赤くして首に噛みつかれて、痛みよりも快感に襲われた。 甘い、甘い痛みの中で、ただ思う。死んでしまうのは俺の方だ。君が触れてくれなければ、俺はたちまちひとりぼっちになって死んでしまうだろう。 俺をほんとうに傷つけられるのは君だけで、君をほんとうに傷つけられるのも俺だけがいい。裏を返せば、それは真の幸福を与えてくれるのも互いだけということだから。 抱き合いながら、貪りながら、俺たちはずっと探し続けている。自分から手放した青い鳥、いつか再びこの手でその羽に触れる日を夢見たままで。 「っは、も、いや」 逃げようと捻った腰を、許さないと言わんばかりに引き戻された。熱くて硬いものが、またずぶずぶと潜り込んでくる。三十過ぎても精力の衰えないシズちゃんのセックスは、むしろ年数重ねた分だけねちっこくなるばかりだ。気持ちいいのが、実によくない。 「な、んで、っ、そんな元気、なんだよ……っ」 「ああ? そりゃ、手前がやたらめったらエロい顔してエロい声出してっからだろうが」 「ん、ぁ……っ人のせいに、すんな……っ」 耳朶を甘く噛みながら、どろりとした声を注ぎ込んでくるシズちゃんが嫌いだ。三十路の男に、どうしてこうもがっつけるのだろう。やはり化物の琴線は理解しがたい。 快楽と限界に震える腰を、汗で滑る彼の手が強く掴む。痛くないのが、たまらなく痛かった。もっと壊すみたいに触れてほしい、最初の、あのときみたいに。 「あ、あっ、ああ……っ」 シーツを掴んで喘ぐ姿を、ひたすらに見つめられている。顰められた眉、射精が近いのかもしれない。ミルクを注いだコーヒーのように揺れて混ざって回る頭で考えながら、後ろの穴にぎゅっと力を込めた。 「ば、か……っ」 途端にビクビクと震える彼を、俺はいつだって可愛いと思っていた。そういえば、最近シズちゃんは泣かない。その理由は知らないけれど、なんとなくそれが寂しかった。可愛い泣き顔は、俺だけが見れる宝物だったからだ。 「いざや……ぁ……っ」 「イ、きそ……?」 こくこくと首を振りながら、シズちゃんは肩に頬を寄せてきた。荒い息に混じって聞こえる「臨也」「好きだ」「愛してる」に酔ったまま、いいよと何度も頷いた。中に出して、割増なんてしないから、と。 「ぅ、く、……っ」 「あ、あ……」 中を汚される感覚に背をのけぞらせながら、くちびるを噛みしめて声を殺す。近頃はここに触れてこようとはしなくなったけど、それはもうほとんど癖になっていた。小さく聞こえた「ごめん」は、今も強く胸を打ち続けている。 「いち、にい、さん、……あーもう……中出しの分いらないっつったのに」 薄っぺらい布団にくるまって眠るシズちゃんの横で、今日の分として渡された金を数える。そんなシュールな光景にも、もうすっかり慣れていた。 律儀にプラスされていた分をシズちゃんの財布に戻しながら、そろそろ新しい財布でも買えばいいのにとぼんやり思う。何もかもを俺中心に考える必要はないのだ、これ以上進むことも戻ることもできない淀んだ関係なのだから。 そっと視線を落とす。指に光る二つのリングは、俺の罪の意識と憧憬そのものだ。いつまでも変わることのないその二つを、昔よりも関節が目立つようになった指で愛撫されるのが好きだ。変わってゆく君を引きとめる術を、俺は知らない。道連れにと選んだリングが、近頃ひどく重くてかなわない。 眠る彼の髪を梳く。少し傷んでいて、でも、やわらかい。ここにキスをしていいのは俺だけだと思いたかった。他の誰にも渡したくはなかった。恋とか愛とか、そんな言葉だけで片づけられるほど美しい想いではない。それでも、俺には大切な宝石箱だった。 きっと最初から間違っていた。もう一度やり直しても、俺たちは何度でも間違うに違いない。青い鳥を見つけられないまま、ひとりぼっちの体を寄せ合って泣いている姿が容易に想像できた。 一人と一人がくっついても二人にはなれないのだと、君を好きになって初めて知った。君の傍にいると、俺は寒くてたまらない。それでも、君から離れたくなくてたまらない。 「シズちゃん……」 愛しているよと声には出さずに呟いた。眠る彼にすら言えない俺は、どこまでも我が身だけが可愛い臆病者だ。愛されていると感じている。愛していることをわかっている。それだけでは歯車が元に戻らないことも、痛いくらいに知っていた。 俺が解放してやれば、君は幸せになれるだろうか――もう何年も思い続けていることを、また考えている。与える側の人間になったつもりはない。けれど、手を離すことが、薄情だった自分にできる最大の愛情表現なのかもしれないとも思っている。単に自分以外の誰かが彼に寄り添う姿を見るのが嫌なだけかもしれない。そうなる前に手離して傷つけてやりたいだけなのかもしれない。確信は一つもなかった。ただ、彼が好きだというこの想い以外には。 「……ん……」 もぞ、と身を動かして、彼が何かを探すように手を彷徨わせる。しばし考えてから、その手に触れた。途端にぎゅっと握りしめられて、思わず笑ってしまいそうになる。安心したように動かなくなった彼を、とても愛しいと感じている。 君とこんな風に手を繋いで、水族館に行ってみたかった。二人で食事をしたり、映画を見たり、街を歩いたり、普通の恋人たちが普通にしているだろうことをごく普通にしてみたかった。お金のいらないセックスがしたかった。気持ちよくして、気持ちよくされて、もらうのはきっと愛情だけでよかった……どうして、こんなことに? シズちゃんを見ていられなくなって、顔を上げた。視線の先にあったレトロ感たっぷりの豆電球はぼんやりと滲んでいる。握られた手があたたかくて、指輪がいつもよりもずしりと重い。 君を愛している、君を不幸にしたい、君に愛されたい、君を殺してしまいたい――綯い交ぜになった感情を解く術を、俺はもう思い出せなくなっている。絡まった結び目を放り出すべきなのか、断ち切るべきなのか。答えを出しあぐねている。 俺とのキスを知らないくちびるに、そっと指を這わせた。少しかさついていて、その彼らしさにまた涙が滲んでくる。 手離すことは、愛情だろうか。断ち切ることが、誠意だろうか。どこまでも俺の想像を裏切る君に、俺はもう一度期待しても許されるだろうか……? 「ねえシズちゃん。君は覚えてるかなあ?」 俺と君の、一番幼稚で、一番綺麗なあの約束を。 → |