預かった鍵でドアを閉めてから、オートロックの自動ドアをくぐり抜けたときだった。遠くからでもよく目立つ、きらきらと光る金の髪を見つけたのは。 「……平和島静雄?」 ぽつりと口の中だけで呟いたその名前は私の神様の、否、神様『だった』人の天敵のものだ。どうしてこんなところにいるのだろう、だってここは新宿なのに。 不審そうに見すぎていたのか、ふと平和島静雄がこちらに顔を向けた。逆光になっているのと、そのトレードマークの一つであるサングラスのせいで表情はよくわからない。 「……」 「……」 私も彼も何かを言いだすわけでもなく、かといって視線を逸らすでもなく、見つめ合う形になる。睨まれている、という方が正しいかもしれない。平和島静雄の視線は、妙に鋭い気がした。 「……くせえ」 ぽそっと呟かれた言葉に、思わず目が丸くなる。なんてことを言うのだろう、間違っても私くらいの年頃の女の子に使う言葉ではないと思う。 とはいえ、怒りとか屈辱とかは湧いてこない。なぜなら、それがまさしく私自身に向けられた言葉というわけではないことをわかっているからだ。平和島静雄の意識は、いつだって私の元神様にしか向かない。 「ノミ蟲の匂い……あいつ、こんなガキと同棲してんのか……?」 ぶつぶつと独り言を言っているつもりなのかもしれないけれど、聞こえてる。なるほど、よくわからないけど私は何かを誤解されてるみたいです、臨也さん。 「あの、臨也さんにご用ですか?」 「! な、なんでわかった?」 「だって、あなたが新宿まで来る理由なんて一つでしょう?」 そう言うと、平和島静雄はちっと舌打ちをした。そしてずれてもいないサングラスを忙しなくかけ直し、ちらちらと視線を泳がせる。なんてわかりやすい人なんだろう。 「臨也さんならいませんよ。三時間くらい前に出かけました。帰ってこないから、もう帰ろうと思って」 「……あんた、ここに住んでるわけじゃねえの?」 どこかほっとしたような顔でそう聞かれて、素直に頷いた。意地悪をしてみようかとも思ったけど、この人にそうしていいのは臨也さんだけだ。 「たまに寄るくらいです、今は」 「今は、」 耳ざとく聞きつけた単語を繰り返して、また平和島静雄は眉間に皺を寄せた。 まったく、どうして変なところで鋭いのかなあ? あの人の綺麗な声が、頭の中に響く。変なところじゃなくて、臨也さんに関することに対して鋭いだけなんじゃないかな、なんて思ったり。 「昔は……一日のほとんどを、臨也さんの傍で過ごしてましたよ」 懐かしい記憶に、自然と笑みが零れる。臨也さんが私のすべてだったあの頃を、私は今も愛しく思っている。正臣と過ごす今とはまた違った意味で、あの日々は私にとってまさしく蜜月だった。 「臨也さんはとても冷たいから、一緒にいると自分があたたかくなった気になれるんです。ほんとは全然そんなことなくて、もっと寒くなってるだけなんですけど」 何か思うところがあるのか、それとも私の話を聞く気分なだけなのか、平和島静雄は何も言わずにただ私の方を見ている。その目がちゃんと私を見ているのかは、私にはあまり関係のないことだ。 「でもね、優しい人なんですよ、臨也さんは。手を差し伸べるだけじゃなくて、ちゃんと突き落してくれるもの」 「ただの趣味悪ぃクソッタレじゃねえか」 「そうかもしれません。でも、私には他に誰もいなかった」 まぶたを伏せて、あの人の綺麗な顔を思い出す。柔和な笑みも、冷えた目も、私にはこれ以上ないくらいに優しく思えた。私を掬い上げて、突き落として、新しい道をくれた人だ。私の、私の大切な―― 「神様、でした」 伏せていたまぶたを上げて、自然とほころぶ口元を自覚しながらそう言う。丸く見開いた目のせいだろう、平和島静雄は少し幼く見えた。寝顔は可愛いんだけどね、と、いたずらっ子のように笑った臨也さんの声は、今も色褪せず美しいままだ。 「臨也さんと出会わなかったら、私は誰も愛せなかったかもしれない。私の大切な人を傷つけることも、一緒に泣くことも、できなかったかもしれない。臨也さんは私には特別な人なんです。だから、あんまりいじめないであげてくださいね」 「……いじめてねえよ」 困ったように頭をかいて、平和島静雄はそうぼやく。寝顔だけじゃないですよ、臨也さん。 「臨也さん、可愛い人でしょう?」 「知るか」 「嘘。顔に書いてありますよ。誰にも見せたくない、って」 「ねえ! 書いてねえ!」 「そうですか?」 やっぱり可愛い人だなあ。思わず零して笑みをどう思ったのか、平和島静雄は眉間に皺を寄せてそっぽを向いてしまった。今度こそ堪えきれず吹き出すと、弱り切った声を上げられる。 「……俺、あんた苦手だ。あいつの次に」 「私もあなたが苦手です。臨也さんの特別は、ずっとずっと、あなただけだった。そんなのずるいですよね?」 「あ? 特別……?」 まさか、と笑い飛ばそうとして失敗しているあたり、身に覚えはあるのかもしれない。ずるい人だ、ほんとうに。ずるくて、可愛い人。 「じゃあ私は帰るので。あ、もし臨也さんに会ったら伝えておいてくださいね……今日の穴埋めに、またおやすみのキスしてくださいって」 「キッ……!?」 絶句してる平和島静雄にお辞儀をしてから、くるりと踵を返した。背後で炸裂した爆音に笑いを噛み殺しながら、空を見上げる。澄みきった空が語りかけてくるような、そんな美しい声の持ち主の顔が脳裏に浮かんだ。 「臨也さん、仕返ししておきましたよ」 ありがとう、沙樹はほんとにいい子だね――私の元神様が、含みのある声でそう囁いた気がした。足取りはひどく軽やかで、どうしてだろう、今すぐ正臣に会いたくてしかたない。 20120421 |