君に聞けなかったことがあるんだ | ナノ

ずっと、ずっと、高校生だった頃から好きな人がいる――なんてことを、俺という人間を知っているやつが聞いたらどんな反応をするだろうか。
運ばれてきた紅茶の香りに誘われるように、伏せていたまぶたを閉じた。店員の女性に視線を移せば、照れたように逸らされる。可愛いものだと思いながら、カップに手を伸ばした。
砂糖やミルクの類は入れない。湯気に向かってフーフーと息を吹きかけながら、周りの音に耳を傾けた。窓を打つ雨の音、控え目な音楽、楽しそうな声、そして――苛立ったようにテーブルを指でとんとんと叩く音。
「シズちゃん」
はぁ、と一つ溜め息をついて、その音を生み出している男の名前を口にする。けれど、音が止まったのはほんの一瞬だけで、すぐにまた指が不快な音を紡いだ。
「よしなよ、耳障りだ」
「手前のその声の方がよっぽど耳障りじゃねえか」
「おや、酷いことを言うね」
喉の奥で笑いを転がすと、彼はひどく鬱陶しそうに眉根を寄せた。心臓が、きゅっと縮まる。冷め切っていない紅茶に口をつけたせいということにしておいた。

平和島静雄という男は、昔から俺の特別だった。
噂に聞いていたときから興味があったし、あわよくば利用してやろうと思っていた。だから新羅が彼と知り合いだと聞いたときは、柄にもなく自分の幸運に感謝すらしていた。
結論から言えば、俺と彼のファーストコンタクトは史上稀に見る最低の出来だったの一言だ。互いに相容れぬことを一瞬で理解せざるをえなかった。
彼は俺を嫌い、俺は彼を憎んだ。それなのに、なぜか彼が欲しいと思う気持ちだけは燻り続けている。彼と出逢ってから実に十年近くが過ぎようとしている今もなお、消えることなく。
この気持ちを愛と呼べたなら、事はもっと簡単に終わっていただろうか。もっと違う関係を築けていただろうか。
何年考えても、俺には答えがわからない。そもそも、答えがあるかどうかだってわからない。何もかもわからないまま、幕を引くことを選んだのは俺だった。
「シズちゃん」
彼を呼ぶ際には使う必要のなかった声音を選んで喉を震わせる。何やら思うところがあったのだろう、彼はほんのわずかに眉を上げ、すぐにそれを元の位置に戻した。
彼は何も言わない。引き結んだくちびるのラインを目でなぞり、できうる限りの優しさを舌に乗せた。
「別れよう」
ほんのわずか、先ほどよりも鋭い角度で彼の眉が跳ね上がった。





新宿は雨だ。ということはつまり、池袋も雨。天と地ほどの距離がある俺と彼の心の距離に比べて、物理的な距離の何と無愛想なことか。
「別れよう、か」
一週間前、池袋のカフェで口にした言葉を再度呟いてみる。一週間前よりも現実味の薄れたその言葉は、むなしく虚空へと消えた。
そもそも最初から終わっていた関係だった。確かに喧嘩の合間にセックスはしていたが、逆に言えば俺と彼の関わり方は喧嘩とセックスしかなかったということだ。彼にしてみればよくてセックスフレンド、悪くてダッチワイフ程度の認識だったのかもしれない。
だからこそ、敢えてその言葉を選んで投げつけたのは俺のプライドを宥めるためだった。踏みにじられたのだと被害妄想に泣いている俺の身勝手な自尊心を慰めるには、少し安っぽすぎる言葉だっただろうか。
自分の中にこれほど感傷的な部分があることを、情けないことに愛すべき人間ではないモノに教えられた屈辱は計り知れない。反吐が出る。殺したい。あの日、無表情になった彼が席を立つその間際まで「別れねえ」の一言を切望していた自分を。
知らず自嘲に歪めていたくちびるの端が、ひくりと戦慄くのを感じた。物心ついてからというもの、自分のために泣いた記憶などない。けれど今は泣き叫びたい気分だった、できるならこの声が枯れ果てるまで。
恋は罪悪、まったくそのとおりだ。窓の外の景色がじわじわと滲んでいくのを窓ガラスを打つ雨粒のせいにしながら、さて、ではこの喉を焼く痛みの原因はどこになすりつけようか。そんなことを悩んでいたときだった。
ピピピ、と無機質な電子音が鼓膜を撫でた。首を動かし、音がした方を見る。部屋の中に雨は降らないのに、視界はどこまでもぼやけていた。
少し気恥ずかしくなって、ごしごしと目元を擦って誤魔化してから発信源に手を伸ばす。音を発しているのはプライベート用の携帯電話だが、初期設定の着信音ということは登録していない人間からの連絡ということだ。
首を傾げて、画面を睨む。数字の羅列をなぞり、息が止まった。登録していない番号、けれど見間違えるはずがない。それは無駄なことは覚えていられない性質であるはずのこの頭の中で、削ぎ落したくてもこびりついて消えてくれない記憶の内の一つだったからだ。
どうして電話なんてかけてくるのだろう。付き合っていた――便宜上、という言い訳をさせてほしい――ときですら一度もかかってきたことのないその番号を見つめたまま、携帯電話を握る手に力をこめる。どうして、どうして、どうして、頭の中はそればかりだった。
彼が寝ている間に、いたずらのつもりで彼の携帯電話に番号を登録したのは間違いなく俺だった。翌朝気づいた彼に怒鳴られ、キレられ、追いかけ回されたことを覚えている。てっきり消したものと思っていたのに、どうして今さら。君はどうしてそうなんだ、いつも俺の嫌なことばかりして。
カタカタと震え始めた手をさすり、携帯電話をソファに放り投げた。その上にクッションを被せて、音を殺す。自分で電源ボタンを押して拒絶を態度に表すことは躊躇われた。彼にはどこまでも憶病でしかないこんな自分をもう少し曝け出せていたなら、また何かが違っていたのだろうか。
くぐもった電子音は長く鳴り続いていたが、しばらくしてからぴたりと止んだ後はもう鳴ることはなかった。詰めたままだった息を吐いて、クッションに顔を押しつける。
雨の音の他には自分の乱れた吐息しか聞こえないこの部屋でこのまま死んだら、雨がやんだ後に出る虹を渡って戦乙女が迎えにきてくれはしないものだろうか。どこか遠くへ、彼を思い出さなくてもいい場所へ。けれど、首は相変わらず目を覚ます気配はない。
「……シズちゃん……」
クッションの下に手を入れて、携帯電話を引っ張り出す。よく見えない画面を必死で睨みつけながら、不在着信を呼び出してボタンを押した。
『……居留守かよ。殺すぞ』
三コール目で出た彼の不機嫌そうな声を音楽のように聞きながら、零れそうになる嗚咽を押し殺す。君に聞けなかったことが、あるんだ。怖くて、目を逸らし続けていたことがある。
「シズちゃん」
『なんだよ』
「シズちゃん」
『うぜえ……なんだっつってんだろ』
「シズ、ちゃん」
『……臨也?』
彼の声が変わる。しまった、泣いていることがばれる前に話を切り上げるつもりだったのに。思ったよりも彼の声が好きだったらしい俺は、数える程度にしか聞いたことがない電話越しの声の破壊力のせいで壊れてしまっていた。
できることなら、ずっとこのままこの声を聞いていたい。電話料金なんていくらでも払う、何なら君に給料を出してやってもいい。だから、ずっとこうして電話口で名前を呼んでいてくれないかな。お願いだから、ねえ、シズちゃん。
「シズちゃん……俺のこと、好きだって思ってくれたことある?ほんの一回でもいい、一秒でもいいから……俺を好きだって思ってくれたこと、あった?」
電話越しでもわかる、彼ははっきりと息を飲んだ。それが何よりの返事だったから、俺は「さよなら」と早口に告げて通話を切り上げた。彼が何かを言っていたような気がしたけれど、もう関係のないことだった。
そのまま携帯電話の電源を落とし、今度は床に放り投げる。壊れてしまっても構わなかった、だってもうあの声は聞けないから。


いまだしとしとと続く雨音を聞きながら、いつの間にかソファの上でうたた寝していたらしい。目を覚ましたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
おかしな体勢で寝ていたせいか、体中が軋む。若干重い頭を片手で支えながら、床を踏むために足を下ろした。
「ん……?」
カツンという音を立てて、爪先に硬質な何かが当たった。その正体を見極めるために視線を向けると、おぼろげだった意識がクリアになっていく。ぐっとくちびるを噛み締めて、それを爪先で思いきり蹴飛ばした。
自分自身の声で形にした「さよなら」に、心臓を握りつぶされそうだ。ふらふらと覚束ない足取りで、何かに誘われるように窓に近づいた。冷たくて硬いガラスに両手で触れて、顔を近づける。ここで後ろから入れられて、喘がされたこともあった。今となっては遠く儚い時間だ。
めちゃくちゃだったファーストコンタクトも、何の因果かセックスをするきっかけになったセカンドコンタクトも、俺にとっては最低極まりない人生の恥部でしかない。それに比べたら、別れのシーンは至極まっとうでまともだったと思う。もっとも、俺と終わらせるような関係にあったという自覚が彼にあったかは最早永久に闇の中ではあるけれど。
人間を愛していると初めて口にしたそのときから永遠の片想いを気取っていたはずなのに、こんなありきたりでくだらないことで押し潰されそうになっている俺は一体何なのだろう。俺は、一体どうなりたかったのだろうか。
降り続く雨は、万物を平等に潤す。いくつもいくつも落ちてくる雨粒に誘われるように、目線を下に滑らせた。何度か引っこ抜かれていたガードレール――雨に濡れた大型犬が一匹、そこに座ってじっとこちらを見ている。真っ直ぐに、俺を。
「……っ」
心臓が止まるかと思った。行くべきではないとわかっているのに、体が言うことをきかない。床を蹴る足がもつれて、転びそうになった。俺の命令なんて一つも聞こうとしない体は、たぶん壊れたままなのだ。さっき、電話越しに名前を呼ばれたあのときから。


ドライヤーの音を聞きながら、落ち着きなくリビングをうろうろしている。自分の家なのに、なぜ俺の方が緊張しているのか。そして、彼のそのくつろぎっぷりは何なのか。
「臨也」
「っ、なに」
「ドライヤー使い終わった」
「あ、うん。片付けてくるから、貸して」
そう言って手を出すと、ドライヤーを渡される代わりに手首を掴まれた。あ、と思う間もなく距離を詰められて、気づけば息がかかりそうなくらい近くに彼の顔がある。ゴト、と音を立てて、ドライヤーは床に落ちた。
「何考えてんだ」
つい三十分ほど前にも聞いたセリフだ。全速力でマンションを飛び出した俺に、彼は開口一番そう言ってのけた。勝手に待っていたくせにと思ったけど、髪の先から水を滴らせているその姿を見ると、不思議と何も言えなくなる。だから、ただ黙って彼の手を引いた。思えば、今とはまったく逆の体勢だ。
「何って、何が」
「わかってんだろ」
俺の手を握る力が少し強くなって、比例するように距離も少し近くなる。彼の乾いた髪から俺が使っているシャンプーの匂いが漂ってきて、不覚にも頬が熱くなるのを感じた。
彼の体から俺が使ってるものの匂いがするのは初めてではない。だからこそ余計に恥ずかしくて、余計に苦しかった。
「別れるだの好きだの意味わかんねえ。つーか、別れるって何だ別れるって」
「そのままの意味だよ。シズちゃんだって否定しなかったじゃないか」
「否定してほしかったのかよ」
馬鹿にするようにそう言って、彼は俺の顎を掴んだ。目を閉じるわけにもいかないし、かといってこのまま彼の目を見つめ続けることなんてできそうもない。困ったな、と思っていると、彼は「ノミ蟲」と呼びかけてきた。
「別れるって、つまり手前は俺と付き合ってる気だったのか?」
「……っ」
カッと頬に朱が走った。手を掴まれてさえいなければ、きっとナイフで切りつけていたと思う。なんて無神経な男なのだろう。忘れていた涙がまたじわりと浮かんできそうで、くちびるを噛んで耐えるしかできない。
「そうだって言ったら?笑う?蔑む?」
開き直って傍にいてくれと乞うことも、意地を張って否定することも、今の俺にはできそうになかった。それは彼が俺の特別だからだ。いい意味でも、悪い意味でも。
サングラスに守られていない彼の顔は、いつもより幾分か幼い。寝顔はもっと幼くて可愛らしいことも、俺は知っている。君に関することで俺が知らないのは、たった一度の過ちでおわることなく君が俺を抱き続けていた理由だけかもしれない。
彼はやけに真剣な目で俺を見返してきた。彼が俺に対してそんな目をしたことはほとんどないから、やっぱりどうしたらいいかわからない。居心地の悪さにわずかに身を捩ってみたら、がっちりと押さえつけられた。
「笑わねえよ」
真剣な顔のまま、彼はそう口にした。俺が絶句しているのをいいことに、もう一度同じ言葉を舌に乗せて、彼は眉根を寄せる。あの日は跳ね上がるだけだったそれが、今日は逆に下がっていた。心が冷える。雨に打たれたのは俺ではないのに。
「……君に同情されるなんて、俺も落ちるとこまで落ちたな」
「同情なんてしてねえよ。なんで俺が手前に同情なんかしてやらなきゃなんねえんだ。クソもったいねえ」
「それなら……それなら、それなりの態度を取れよ!殴るなり蹴るなり、なんなら殺したって構わない。今なら抵抗しないよ、むしろ協力してやってもいいくらいだからね!」
「……ああ、そうかよ。なら目ぇつぶって歯ぁ食いしばれや、いーざやくんよォ……」
顎を掴んでいた手が離れたかと思えば、すぐに胸倉を掴まれてその息苦しさに顔が歪む。言われた通りに目を閉じて、歯を食いしばった。多分顔を殴るのだろうなと思って身構える俺の胸倉を、彼はさらに力を込めて引き寄せた。
「臨也」
耳元で囁かれた声は、確かに俺の名前の形になって空気の中に弾けて消えた。どうしてそんな声で名前を呼んだりするのだろう、電話越しに呼ばれたときよりもずっと強い衝撃が体中を駆け巡って暴れている。
「また俺から逃げんのか」
名前の次に吹き込まれたその言葉の意味が、俺にはさっぱりわからなかった。衝撃から立ち直れていない俺を置き去りに、事は進んでいく。たとえばただ引き寄せられているだけだったはずの体がいつの間にか抱きしめられていたり、たとえば歯を食いしばったまま引き結んでいるくちびるに彼のくちびるが押し当てられていたり、と、まるでついていけない。
それなのに、彼は好き勝手に俺のくちびるを啄ばんでは、舌でそこをつんつんと突いて不機嫌そうな声で「開けろ」と言う。君が食いしばれって言ったんじゃないかと脳内で悪態をつきつつ、それでもまだ本調子ではない俺は素直に言うことを聞いてしまった。
ぬるんと入り込んでくる舌が、好き勝手に口内を暴れまわる。まるでそれ自体が意思を持っている生き物のように、彼の舌は俺の口の中を執拗に探っては愛撫した。
「うっ、ふ、ぅ」
膝がガクガクと震えて立っていられない。どうしようもなくて、彼のシャツを握った。俺のマンションに彼が置いていった唯一のものであるこの部屋着を捨てていなかったことに対して、彼は何も言わなかった。その意味に気づいているだろうに。そういうところが、嫌いだ。
「シズちゃん……」
これは誰の声だ。こんな情けなくてみっともない声なんて、俺は知らない。
「臨也」
これは誰の声だ。こんなに愛しそうに俺を呼ぶ声なんて、聞かせてくれなかったじゃないか。
「よかった。付き合ってるって思ってんの、俺だけじゃなくて」
くちびるを離してから、彼はそう言った。やっぱり言われている意味がわからなくて、ただ彼を見つめ返す。ひどく優しい色をしているように見えていた目の奥が静かに燃えていることに気づいて、背筋が震えた。恐怖したのではない、震えるくらいの興奮を覚えただけだ。
「え、なに……?シズちゃん、俺と付き合ってるつもりだった、の?」
「俺は付き合ってもねえのにヤったりしねえ」
ストレートな言葉に、先ほどとは違った意味で頬が熱くなるのを感じた。からかうようにそこを撫でられて、慌てて距離をとろうとしたけど許してはもらえない。抱きしめてくる腕を心地よく思いながら、とにかく必死で口を開く。
「じゃ、じゃあ、なんであのとき……何も言ってくれなかったんだよ……」
「手前は覚えてねえかもしんねえけどな、手前に嵌められた日は雨だった。手前が俺から本気で逃げようとするから捕まえて無理矢理ヤった日も、こないだ手前が別れようっつった日も、雨が降ってた。手前のせいで雨が嫌いになりそうだったから、責任取らせようと思って雨降るまで待ってたんだ」
「なにそれ、めちゃくちゃだ」
「いきなり別れるだのなんだの言い出す手前に言われたくねえ。こっちは死ぬかと思ったんだ……いいか、臨也。俺は手前と別れる気はこれっぽっちもねえぞ……逃がさねえからな」
首筋をべろりと舐めて時折脅すように歯を立てながら、彼はそう言った。独占欲が滲んでいるどころか、成分が独占欲しかないようなその声が愛しくて心の底が甘く痺れていく。なんて単純な構造なんだろう、人間とはやはり愚かしい生き物だ。
風呂上がりでふわふわの頭をかき抱きながら、シャツの下で蠢くてのひらの動きに背をしならせる。シズちゃん、シズちゃんと甘えた声で名前を呼ぶと、彼は首筋に埋めていた顔を上げてくれた。
「ねえ、シズちゃん。俺のこと、好き?」
「好きだ。何回とか何秒とか、数える暇ねえくらい手前のことばっか考えてる」
恥ずかしい言葉とともに与えられたくちづけは、どこまでも甘い。雨の音と互いの吐息しか聞こえないこの部屋で、このまま死んだらヴァルハラに行けるだろうか。そんなことを考えながら、そっと目を閉じた。



20120325

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