「別れる」 いきなり押しかけてきた上に今にも泣きそうな顔をしてそう言った臨也を、新羅は溜め息交じりに迎え入れた。ソファに誘導する間も、ずっとぶつぶつ「別れる別れるもう別れる」と繰り返す臨也には下手に触らない方がいい。それは決して短くはない臨也との付き合いから新羅が学んだことの一つだった。 「コーヒーでいいかい?」 「嫌だ、ハーブティーにしろ」 「はいはいはいはい」 めんどくさいなあと思っていることを隠さずに返事をすると、ビュン!とナイフが飛んでくる。やれやれと竦めた肩をかすめるぎりぎりを狙って投げたのだろう、相も変わらず無駄に器用なことだ。そして、相も変わらず手のかかる男だ。新羅はそう思いながら眼鏡を押し上げる。 「ああ……ああ……ああ、セルティ……麗しい僕の君!早く帰ってきて!」 もう一人の手のかかる友人に呼び出されて出かけてしまった恋人の名を虚空に叫んだ。間髪入れずに飛んできた罵声を聞き流し、新羅はひたすらに愛する女性の名を叫び続ける。臨也の機嫌が直らない限りはセルティが解放されることがないことをわかってはいるけれど、そうせずにはいられなかった。 「だからねぇ〜……しんらぁ……もっとちょーらい……」 「臨也……もう、そのへんに……」 「やら」 やら、じゃねーよ、とは思うものの、下手に刺激をして妙な行動に出られでもしたらたまったものじゃない。臨也がグラスをぐいぐい傾けるのを止めあぐねてから、もう一時間以上が経過している。あたたかかったハーブティーは、いつの間にか泡の弾ける百薬の長へとすり変わっていた。 「だからねぇ、聞けったら……」 「聞いてるだろう?君こそ俺の話を聞いてくれよ、臨也」 こうなった臨也はいつも以上に面倒そうだと新羅は思う。とはいえ、決して短くはない付き合いだというのに、臨也がここまで酔っているところに遭遇した回数は片手の指で足りるほどだから勝手がわからない。 なにせ酒の席では、臨也が酔い潰れそうになるその前に、彼の独占欲の強い恋人が攫うようにして連れ帰ってしまうのがほとんどだったのだ。どれだけ場が盛り上がっていようがお構いなし。そんな静雄に呆れて罵倒しながらも、なんだかんだで言うことを聞いてしまう臨也も臨也だった。 だからこそ、ああ、君は今こそこいつを連れて帰るべきだよ!? 新羅は今ごろ己の最愛の恋人に愚痴っているであろう幼馴染に向けて救援要請を心の中で叫んだ。届くはずもないことは知りながら。 「新羅……なあ、新羅ぁ……」 うーんうーんと唸りながら片手で頬杖をついている臨也の頬は赤い。美目麗しいことに定評のある男だが、染まった顔のせいで今は随分と可愛らしく見えるなあと新羅は思った。 「ドル安なんだってばぁ〜……」 「うん、円高だね」 「新羅のばか、嫌い。首無フェチ」 「私は割と君が好きだよ」 「知ってるよ……だから嫌いなんだよ、ばーかばーか!だめがね!」 「あのさあ……その意味のわからない悪態を僕じゃなくて彼氏に見せてやりなよ。そうしたら私の愛しいセルティがこんな小春日和の穏やかな日に静雄に呼び出されるなんてこともなかったんだからね。ほんとなら、今日はセルティと一緒に安納芋を焼いて」 「、ず、ちゃ……?」 「るはず……だっ、た………………ごめん、今のは私が悪かった……」 せっかく今まで静雄の名前を出さないでいた努力が水の泡だ。ぷるぷると震え出した臨也の背中を宥めるように撫でながら、新羅はできるだけ優しく臨也の名前を呼んだ。 笑ったり泣いたり、酒が入ると面倒さが三割増しになるらしい。それでも追い出せない程度には、自分は臨也のことを大事に思っていたらしいと新羅は思い知らされた。 宥めても宥めても、臨也の震えは止まらない。まるでチワワか何かのようなその姿を、静雄なら可愛い可愛いと誉めそやすのだろうか。生憎新羅は静雄ではないので、もういい加減勘弁してくれよと泣きたくなるばかりだった。 それにしても、と新羅は思う。ひっくひっくとしゃくり上げる子供のような姿は初めて見るもので、ああなるほどこれは静雄が早々にかっさらうはずだと一人合点した。 実際、新羅とて同じことをするだろう。もちろん、大前提として、それが臨也ではなくセルティだったなら、の話ではあるが。 「だって、聞いてくれよ!なあ、新羅!ひどいんだよ、シズちゃんはほんとにひどいんだ!」 相変わらず俯いたままぷるぷる震えていた臨也が、いきなりばっと顔を上げた。面食らった新羅になどおかまいなしで、臨也はマシンガンのようにべらべらとまくし立てる。 やれ静雄がああした静雄がこうした、自分はこんなにも静雄のことが好きなのに静雄ときたら言葉も愛も足りない。静雄はひどい、静雄はずるい、もっと自分を愛するべきだ――そんな、文句なんだか惚気なんだかよくわからない話を聞かされる自分こそ心から憐れだと新羅は思う。恋人と焼くはずだった安納芋より甘いらしい臨也の愛になど、新羅は微塵も興味がないのだ。 臨也が溜まったものを吐き出すかのように口を開いてから、すでに十分近く時間が経過している。 酒が入っているというのによくもまあそこまで噛むことなく滑らかに喋れるものだと感心しかけたが、そういえば目の前にいる人物が折原臨也であることを思い出してうんざりしてしまった。 時にいとけなく、時に艶めかしく、しかしやはりうざったく、臨也の表情はころころと色を変える。色づいていく様はセルティしか目に入らない新羅さえ少し目を見張るくらいなので、たぶん、あの不器用なばかりの男はそこに惚れてしまったのだろう。 とはいえ、臨也とてそんな静雄のことを利用して弄ぶでもなく、こうして数少ない友人であるところの自分の家に上がり込んでつらつらと恨み言を口にするくらいには静雄に惚れこんでいるのだ。 だからこそ、新羅は問いかけたい。何故それをお互いにぶつけないんだ、何故揃いも揃って私とセルティを巻き込むのだ――と。 「そういうわけで俺はシズちゃんとは別れる!」 「なにがどうなったらそういうわけで〜になるって言うんだい?僕には『シズちゃん好き好き愛してる!』の部分しか聞き取れなかったからもう一度説明してくれるかな?」 「うるさい黙れ。ほら注いでよ、お前の可愛い友人がおかわりを御所望だよ」 「私に可愛い友人なんていたかな?心当たりがないよ」 やれやれ、と溜め息を押し殺し、新羅は腰を上げた。森厳のコレクションである高価そうなボトルを片っぱしから開封していくことに関しては胸は痛まないが、医者としてそろそろ止めておくべきだろう。 そう思って、新羅は冷蔵庫を開けた。スポーツドリンクを一本取り出してから扉を閉めて臨也の元に戻ると、その手の中にあるものに目敏く気づいたのだろう、不愉快そうに顔を顰めた臨也に出迎えられた。 「俺が頼んだのと違う」 「もう飲むのは止めておきなよ。百薬の長ってのは適量ならばの話さ」 「嫌だ、とことん飲む……」 「だめだってば。飲み過ぎは体によくない、普段あんまり食べない方の君にしちゃカロリーも摂取しすぎだと思うしそのへんに、……ん?臨也?」 「……………………カロ、リー…………」 さっと顔を青くした臨也を見て、まず思ったことは嘔吐の心配だった。慌ててトイレに連れて行こうと肩に触れたその手を、臨也の少し冷たい手が掴む。 「臨也?立てるかい?吐くならトイレに、」 それ以上言葉を紡げなかった。臨也が掴んだ新羅の手を、あろうことか自らのシャツの下に招き入れたからだ。呆れてものが言えないとはこのことだとすら思う。 「どう?」 あたたかい人の肌の感触、溜め息をつくのすら馬鹿らしくなって臨也の顔を見る。色が戻っていることに安堵したが、様子を窺うようにこちらを見てくる臨也の顔はあまりにも真剣すぎた。 「どうって何がだい?脈拍でも見てほしいならもうちょっと上じゃないかな?それとも肌触り?それこそ聞く人間を間違えていると思うけどね」 「違うって……医者から見て、その、どう?俺の腹やばい?」 「だから何が?触診してほしいならお金もらうよ」 「払ってやるから正直に言ってくれ。俺の腹って……メタボ?」 「……はあ?」 正直、臨也が何を言っているかわからなかった。臨也の真剣な顔と、どこからどう見ても痩身の二文字しか当てはまらないその体を交互に見つめ、新羅はまた深々と溜め息をつく。 「な、何だよ、はっきり言えよ……まさかもう取り返しが……!?」 「君はいつからそこまで馬鹿になったんだい?むしろ痩せすぎだからね?静雄に何を言われたかは知らないけど、メタボのメの字も当てはまらないから安心するように。納得したらとっとと帰っておくれよ。はー疲れた……まったく、これのどこがメタボだって?」 さわさわとてのひらを滑らせて、薄っぺらい腹には申し訳程度にしか存在していない弾力を確かめるように押してみる。 その間にも臨也がどこか不安そうな顔で「ほんとか?」と繰り返し繰り返し聞いてくるので、新羅はその度にめんどくさく思いながらも首を縦に振ってやった。 「安心しなよ。痩せすぎ。むしろもう少し太ってもいいんじゃないかな?」 「……けど、あいつ……あの化物野郎が……」 もごもごと言いにくそうに、臨也が口ごもる。さっさと言えと視線で促すと、臨也は観念したようにくちびるを噛んで、そして重々しい溜め息をついた。 「……俺のお腹を……きゅってつまんでさ、」 「……どういう状況でつままれたかとかすごく聞きたくないけど、それで?」 新羅の言葉に、臨也がぐっと顔を近づけてくる。静雄に見つかったら殺されるかもしれないなあと思いながらも、にこにこと新羅は微笑んでみせた。どうせつまらないことしか聞けないことはとっくに知っているのだ。 「手前意外とぷにってんな、って!言いやがったんだよあの野郎!」 それは新羅の想像以上につまらない、そしてどうでもいい内容だった。たったそれだけのことで、とは言うまい。昔から臨也と静雄のことを100%理解できた試しなどないのだから。高校以来の付き合いのくせに、よくもまあいまだにそんな付き合いたてのカップルのような喧嘩ができるものだと、いっそUMAを見ているような感情すら覚えていたとしても、言うまい。 「そりゃあ静雄の馬鹿力でなら君のうっすい腹の肉も掴めるかもしれないけどねえ……想像以上にくだらなくて涙が出てくるよ。君は静雄が絡むと本当に呉下阿蒙だね。それが惚れた弱味というやつなら、まあ僕も人のこと言えないんだけど。それにしても意外だな、君がそんなに体型のこと気にするなんて」 「俺、これでも割と体型には気をつかってるんだよ……見た目はいい方がいい。その方が懐に潜り込みやすいからね。人は見た目が十割さ。もちろん、俺は美醜ひっくるめて人間はみーんな愛してるんだけど!」 「で?そんなに気をつかってるはずの体型を誰よりも愛してる静雄に揶揄されて悔しくて恥ずかしくてつい飛び出してきちゃったって?」 「……新羅、何か今日刺々しいな?」 「当たり前だろう!僕はセルティと芋を焼きたかったんだからね!絶対に許さないよ、臨也。謝ってもらったって、今日という日のセルティはもう二度と戻ってこないんだ」 自分で言っておきながら、どうにもイライラしてしまって臨也の腹を殊更強く押す。やっぱり薄っぺらいそこを、静雄がぷにっていると評した意味はよくわからなかった。 「い、た、痛い……新羅、苦しいってば……」 「君が触らせたんじゃないか」 「そうだけど、もうやめろったら。苦しいんだよ、シズちゃんよりは力弱いけどさあ」 「ついでに悪い病気にかかっていないか診てあげようとしてるんじゃないか。まあ君の中二病は一生治らないだろうけどね」 「お前にだけは言われたくない」 そう言って臨也が笑った瞬間だった。 ガチャリという音に、二人同時にドアへと目を向ける。開いた扉の向こうにいたのは、目を丸く見開いている静雄だった。握られたドアノブがミシミシと悲鳴を上げている気がして、新羅は臨也の腹から手を離した。 「……何、やってんだ……」 「触診だよ、ただの。ていうかセルティは?」 「来良のガキとどっか行ったけどよ……つか、触診って……」 「シズちゃん死ね!シズちゃん死ね!!」 「あ?手前……俺以外の前で酔うまで飲みやがったな!?」 「死ね死ねばーかばーか!俺ぷにってないって!俺の腹ぷにってないって!新羅がちゃんと触ってくれたよ。そんで君は痩せすぎだって言った。だからおかしいのはシズちゃんだ。俺はぷにぷにじゃない」 ねえ、新羅?と甘えたようにすり寄ってくる臨也を本気で殴り飛ばしたくなった。案の定というか何というか、静雄の額に浮かぶ血管たるや壮観すぎて目も当てられない。 「……手っ前ぇええええ……」 「うるさい!大体、君のせいじゃないか……もし俺の腹がぷにぷにになったって言うなら、お前のせいだろ!」 「はあ?なんで俺のせいになんだよ、大体なんでそんな怒ってんだ?意味わかんねえ、せっかくヤった後いちゃいちゃしてたっつうのによぉ……」 「あーあーあー聞きたくないんだけど!」 新羅の悲痛な叫びなど、この傍若無人が服を着て歩いているような池袋で最も関わってはいけないバカップルに届くはずもない。相変わらず体だけは新羅にすり寄せてくる臨也は、ぎろっと鋭い視線を静雄に投げつけた。 臨也と静雄の間には、ばちばち弾ける火花が見える気がする。そのまま燃え尽きてしまえばいいのにと、割と本気で思った。臨也が口を開く。 「君が悪い。甘いもの大好きな君に付き合ってミルキーウェイに行ってパフェ食べるし、ジャンクフードも大好きな君に付き合ってマック行ってハンバーガー食べてロッテ行ってシェーキ飲むし、せめてモスにしようって俺の意見なんて聞いちゃいないし、デートはもっぱら家でだらだらだし、運動しようにも最近はパルクール使う前に強引に抱きしめて喧嘩強制終了させるし、唯一運動っぽいセックスだって能動的に動いてるのは君だけだろ。疲れて動けない俺を散々揺さぶって自分だけ筋肉つけてさ……あまつさえ、手前意外とぷにってんなだと?はあ?マジで死ねよ……誰のせいだと思ってんだよ」 つらつらと恨み言を吐く臨也の顔は、まるで親の仇でも見ているようだった。それに対する静雄はといえば、顔を赤くしたり青くしたりの繰り返しで情けないことこの上ない。池袋最強は、愛する恋人にめっぽう弱いのだ。完全に蚊帳の外に追い出されている新羅はもう黙って嵐が過ぎ去るのを待つことにした。 「い、臨也……違う、そういう意味じゃなくてだな」 「うるさい。もう決めたんだ、シズちゃんとは別れる」 「ああ゛!?手前、そりゃ冗談にしちゃちょっといきすぎじゃねえのか?あ?」 「冗談じゃないよ。俺をこんな体にした上に辱めるなんて許せない……さよならシズちゃん、次に付き合うならぼんっきゅっぼんっの年上美女にしたらいいよ」 「おい手前殺すぞいーざーやーくんよォ……」 にゅっと伸びてきた静雄の手が、新羅からもぎとるようにして臨也の体を引っ張った。ふうやれやれ、と息を吐きながら、新羅は二人から距離を取る。 いい加減に帰ってほしいものだが、こうなったら最後まで見届けるより他はない。なにせ、曲がりなりにも二人は友人だからだ。 「……離せよ、ぷにぷにの腹は嫌いだろ」 「言ってねえ、一っ言も言ってねえ。俺は……手前の腹、好きだ」 「うそつき」 「嘘じゃねえよ。好きだ。ぷにっとしてるっつったのは馬鹿にしたんじゃねえ……美味そうで可愛いって言いたかったんだよクソが!わかれよ!手前、最近なんかちょっと全体的に可愛いんだよ!死ね!」 臨也に自分の顔が見えないようにぎゅっと抱きしめて、静雄が叫ぶようにそう言った。その顔は情けないくらいに赤くて、なるほど、それは臨也には見せられないだろうなと思う。 たかが「可愛い」の一言を言うのにここまで照れるとは、やはり静雄はUMAなのだろうなと新羅は思った。散々やることはやっているくせに。 「……可愛い?俺の腹が?」 「腹だけじゃねえ。手前は頭のてっぺんからつま先まで全部可愛い。好きだ、愛してんだよちくしょう……」 「なにそれ」 ふふっと臨也が笑う。どうやら機嫌は直ったらしい。その単純さに、新羅は臨也に費やした数時間を返してほしいと切実に思った。言うまい、言っても無駄だとよく知っている。肩を竦めて、新羅はそっとリビングを後にするために足を進めた。 「ふつつかなお腹でもずーっと愛してくれる?」 「手前は腹の中が一番ふつつかだけど全部愛してやるから安心しろ」 そんな馬鹿げたプロポーズを背中に聞きながら、携帯電話を取り出す。UMAとUMAの一風変わった愛情劇に、どうやらあてられてしまったらしい。最愛の人の番号を呼び出しながら、新羅は胸の奥にいくつも沸き起こってくる愛の言葉を吟味した。とりあえずは――この妙な甘ったるい胸やけのような気持ちを払拭すべく、早く一緒に焼き芋を食べようと言いたい。 20111217 |