ラブレター | ナノ

人間が好きだ、愛してる。けれど、それ以上に愛しくて、可愛いものがあることも俺はちゃーんと知っている。 あれ以上に俺を苦しめて、俺を惨めな気持ちにさせて、それでもなお可愛くて愛しくて仕様のない生き物が他にいるのだろうか?


あれは何年前だっただろう。彼がまだ何の戸惑いもなく俺の手を握ってくれていた懐かしい日々、俺がまだ何の躊躇いもなく彼の手を握り返せていた遠い日々。俺も彼も、もう二度とあんな気持ちにはなれないのだろう。そう思うと、美しい思い出の中で笑う自分が少しだけ憎たらしかった。
きっかけは、ほんの些細な噂だった。俺は見た目も中身もこんなだから、まあなんというか、妙な噂はつきものだった。体売ってるとか、誰とでも寝るとか、そういう類の下衆の勘ぐりだ。もちろん事実無根ではあったけど、いちいち否定してまわるのも面倒だったし、その手の噂に惑わされて妙な目を向ける人間の視線はある種の快感だった。
たとえば首無にしか勃たない変態とか、本ばかり読んでる無駄に男前な級友とか、俺のことを他の人間よりもよく知っていると思われる近しい友人たちはそんな噂を歯牙にもかけてはいなかった。だから、俺は疑いもしていなかった。誰よりも俺の近くにいる彼が――平和島静雄が、そんな噂を信じるわけがないのだと。そう、思っていた。
「臨也、俺のこと好きか?」
「え?うん、好きだよ」
「……そ、だよな。悪い、変なこと聞いた」
「昨日も聞いただろ、それ。変なシズちゃん」
「ああ……ちょっと、変かもしんねえな。悪い、忘れてくれ」
おかしな質問ばかりが増えていた。もしもあのとき俺が彼の異変に気づいていたなら、俺は今ごろ彼にくちびるを寄せて愛を囁けていたのだろうか。寂しげな瞳に独占される喜びばかり覚えて、そこに紛れていた彼にはちっとも似合わない不安という感情を見逃していた俺が悪いだろうか。好きだと言うその声が少し震えていたことに、今さら気づいたところで遅いだろうか。
時計の針は戻らない。もしもの話をしたところで、それを現実にする術を俺は知らない。知らないのだ。もしも教えてもらえるのなら、いくらだって積んでやろう。シズちゃん、君の可愛いばかりだった笑顔を俺はもう一度見たい。

彼と俺のすべてが決定的に決別したあの日のことを思い出す。そうすると、俺の世界は雪に閉じ込められたみたいにシンと静まり返ってしまう。体の芯から凍りついていくような感覚に耐えるため、守るように両手で自分を抱きしめた。

金曜日の午後十一時、何度も彼を招き入れた俺の部屋、夜中なのに妙に蝉がうるさくて、彼は俺が見たことのない類の表情を浮かべていた。
「……シズ、ちゃん?」
機嫌をはかるように、そっと彼の名前を舌に乗せる。じわじわとにじり寄ってくる彼に妙に不安を煽られて、部屋の真ん中で床に座っていたはずの俺は、いつの間にか背中をベッドの足に押しつけていた。彼の大きな手が俺の肩を押さえつけた感触を、今でも鮮明に覚えている。
「臨也、俺のこと好きか?」
そう尋ねてくる彼の目はひどく胡乱で、ぽっかりと開いた穴のようにすら思えた。知らず鳴った喉をじっと見つめる視線が纏わりついて少し気味が悪い。
「……なんで何も言ってくれねえんだよ」
時間にしてたった四、五分を待てないだめな子が、悲しげに眉を寄せた。何度も何度も何度も、そんな当たり前のことに答えを求める君がいけないんだと俺は思ってた。この妙な雰囲気を払拭したくて、からかってやろうと思ってた。そんな不安になるくらい俺のこと好きなの?って。そんな機会は永久に失われたので、是が非でも言っておけばよかったと俺は今も深く悔やんでいる。
「俺じゃねえやつに脚開くのは、俺が嫌になったからか?」
「……は?」
何を言われているのか、わからなかった。俺はシズちゃん以外に脚を開いたことはないし、今後もその予定はない。そしてさらに言わせてもらうなら、当のシズちゃんにだってまだそういうことをさせてない。それは俺が彼に対して本気だったからだ。そして、彼もまた俺に対して本気だったからだ。と、思う。
おそらく、このときの俺はそれまでのそう長くはない人生の中で二番目に混乱していた。だから伸びてきた彼の手を避けられなかったし、ベッドに引きずり上げられてもろくな抵抗できなかったし、押し倒されて乗り上げられてマウントポジションとられてなお彼の悲しそうな瞳ばかりが目についてどうしたらいいかわからなかった。
「臨也」
今にも泣き出しそうなシズちゃんの、優しい色をした目が好きだった。今は薄暗い感情に覆われているそれが、どれだけ甘く優しく俺を見つめてくれていたかを肌が知っている。だから心のどこかで油断していたのだと思う。シズちゃんがほんとうにひどいことなんてするわけがないのだと。
「好きだ」
何度も何度ももらった言葉だった。何度も何度も返した言葉だった。俺が人生で一番混乱したとき、初めてシズちゃんに好きだと言われたあのときも、同じ言葉を言ってくれたね。でもどうしたのシズちゃん。どうして俺の話を聞いてくれないの、どうして俺の服を破くの、どうして俺の腕を縛るの、どうして――泣きそうになってるの?
「なんでだよ、臨也。なんでだよ……俺のこと好きだって言ったじゃねえか……」
「す、きだよ……シズちゃんが、好きだ……」
「聞いたんだ。三年のサッカー部の……名前忘れたけど、臨也とヤったって言ってるって。金払えばすぐヤらせてくれるって笑ってたって。そいつ死ぬ寸前まで殴ってやったけどよお、やっぱり殺しとけばよかったなあ……」
「三年のサッカー部……あ、ち、が……シズちゃん、違う、それは違う……!」
心当たりがあった。馬鹿みたいな告白をされたので、散々利用してさようならした男がサッカー部に所属してた三年生の先輩だった気がする。大した使い道もなかった上にこんな災厄落としていくなんてむしろ俺が殺しとけばよかった。後悔してももう遅いけど、とりあえず夜が明けたら手を打とう。
緊張で乾く喉に必死で唾を送り込み、シズちゃんに事の次第を説明する。シズちゃんはやっぱり胡乱な目で聞いていた。そして、大きく頷いてくれた。ああよかったわかってくれたのか――俺の喜びは一瞬だけだった。
「新羅もそう言ってたな。やたら詳しくってよお……俺が知らねえことも、いっぱい知ってたぜ」
ははっとシズちゃんが笑う。すべてを諦めたような、およそ彼には欠片も似合わない類の微笑みだった。ぬるい息を吐いて、シズちゃんはただ笑っている。真夏なのに、冷たい汗が背筋を伝っていった。
「俺は何も知らねえのにな……手前、俺には何も言ってくれねえよな。手前はいつもそうだ、怪我すりゃ新羅、甘えんのは門田。じゃあ俺って何だよ。俺は手前の何なんだよ、臨也」
何って、恋人だろ。特別だろ。だって君が言ったんだ。俺の考えてることならなんとなくわかるってそう言ってくれたじゃないか。悲しくて、ショックで、言葉がうまく出てこない。そのせいで、シズちゃんの誤解はひたすらに膨らむばかりだった。
「……そいつがただの噂でも、他は違うかもしんねえよな。確かめさせろよ」
「確か、め……?」
「ヤらせろっつってんだよ」
これは悪い夢だと、そう思いたかった。だって俺とシズちゃんはまだ、キスだってしていないのに。シズちゃんは約束を忘れてしまったのだろうか。誰も俺たちを知らない遠い所へ行って、キスしようってそう約束したのに。
必死で首を横に振った。落ち着いて、ゆっくりと話し合いたかった。そうしなければ、俺と彼はもう二度と戻れないと思ったからだ。まだ隣にいて、俺に笑っていてほしかった。世界でたった一人の、俺の好きな人だから。
「嫌か?」
感情を読み取れない声で、シズちゃんがそう問いかけてくる。どう返せばどう思われるかなんて、もう考えている余裕はなかった。ひたすらに頷いて、離してくれと訴えるだけ。そしたら、シズちゃんの顔がますます歪んだ。失敗したと気づいたときには、もうすべてが遅かった。
「……いくらだよ」
「な、に?」
「いくら払えば、手前を抱けるんだって聞いてんだよ」
全身から血の気が引いていくのがわかった。眩暈すら覚えて、いっそ意識を手離せたらどれだけ幸せだろうかと思った。ついでに記憶も持っていってくれたら、俺はきっと今から熱心な信者になるだろう。信じてもいない神の名を呼びながら、そんなことを考えていた。
押さえつけられた腕が痛い。膝で抑えつけられてる太ももが痛い。切り裂かれて血を流している心が、たまらなく痛い。あふれそうになる涙をこらえて、俺は精一杯の虚勢を張った。俺はまだガキだった。ずたずたにされたプライドと恋心を、シズちゃんを傷つけることでしか保つ方法を知らなかったのだ。
「有り金全部置いてけよ。そうじゃないなら、指一本触るな」
つくりものの笑みを貼りつけて、笑う。いつもなら気づいてくれるのに、シズちゃんは傷ついた顔をするだけだった。うそつきだ、俺の考えていることなんて君はやっぱりわからないじゃないか。
シズちゃんはひどく悲しそうな顔をしたまま、俺の上からどいた。そのまま入口辺りに向かって、無造作に置いていたバッグの中をガサガサと漁る。そして、何かを取り出してまたベッドに戻ってきた。顔の横あたりに投げつけられたものは、真新しい給料袋だった。
「今日、ちょうど貯まったんだよ」
何が、なんて聞く必要はなかった。鼻の奥がツンと痛くて、喉が焼かれているように痛い。シズちゃんの顔は、もうよく見えなかった。噛み締めたくちびるに触れる指に噛みついて、不自由な身体を捻ってうつぶせになる。死んでもキスは嫌だった。
「……臨也、」
悲しそうなシズちゃんの声が、背中に落ちてくる。指や舌が触れる度に、ぼろぼろと涙がこぼれた。枕に顔を埋めて、声を殺すことだけに集中する。扱かれても、イかされても、後ろを弄られても、つっこまれても、最後まで絶対にキスだけはさせなかった。
だって約束したからだ。俺と彼の、一番幼稚で、一番綺麗な約束だ。あの日の彼の笑顔が、走馬灯のように蘇る。ああ、俺はもう死んでしまったのだ。彼に愛された日々の中で笑っていた俺は、もう死んでしまった。
二度とは帰れない蜜月を恋しく思いながら揺らされる視界の中で、茶色の封筒が俺を蝕んでいた。




「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお……」
シズちゃんが帰ったあと、ナイフを突き刺してから給料袋を破いた。一緒に小さく畳んで入っていたのはパンフレットの切り抜きで、入っていた金はちょうどそこに書かれてる一人分の金額と合致する。一生懸命考えて選んでくれたんだろうなって、旅行会社の前でパンフレット選ぶ姿を想像したら笑いが込み上げる。ついでのように、涙も。
「……愛しているよ」
ぼたぼたと零れ続ける涙は、果たして枯れることを知らないのだろうか。俺は少し考える。俺がもう少し意地っ張りじゃなかったら、彼がもう少し寂しがりじゃなかったら、こんな風にはならなかっただろうか。どうしたらよかったんだろう、泣いて謝って縋ればよかったのだろうか。自尊心も矜持もかなぐり捨てて?それができたら、俺は折原臨也じゃない。でも、それでも、
「愛しているよ、シズちゃん」
疾く過ぎゆくな、春の中の春――二度とは戻らぬ日々を、甘く切なく胸を焦がす日々を、俺はこれから一生呪っては恋焦がれつつ生きていくのだろう。その道連れにするものが欲しい。何でもいい、欲しい。くっきりと手形の残る手首にキスをしながら、何がいいだろうかとじっと考えていた。











「い、ざや……いざや、いざや、いざや……っ」
最近遅さに拍車がかかったんじゃないだろうかと、快楽に霞む頭でそんなどうでもいいことを考えていた。シズちゃんのアレは大きくて太くて気持ちがいい。生でする方が触れてるって感じで好きだけど、中出しされたら料金上げなくちゃいけないのでちょっと困る。別に俺はシズちゃんから搾取して人生ズタボロにしてやりたいわけじゃない。傷つけたいとは思ってるけど、死なれるのは嫌だ。そんなことになったら俺も死にたい。だって彼を殺していいのは俺だけだし、俺を殺していいのも彼だけだからだ。
重ねられた手が、汗でぬめっている。がくがく揺れる視界で、恋人のように繋がれている手を見た。人差し指に光る指輪、彼と俺の金で買ったペアリング。ああ今日も綺麗だな道連れありがとう幸せな使い方してあげられなくて、ごめんね。
「好きだ、臨也……好きなんだよ……」
「あ、ははっ……あ、あっ、…知ってる、よ、シズちゃん」
最近ヤるたびに、シズちゃんは泣いてばかりいる。可哀想だと思って手を伸ばして涙を拭うと、調子に乗ってキスしてこようとするからやっぱり困る。
「だめだって。したら、もう二度と会わないよ?」
そう言って笑うと、またシズちゃんはぼたぼた涙を零す。甘ったれで寂しがりなところは昔とちっとも変らない。しょうがないから頭を引き寄せて抱きしめてやった。シズちゃんの涙が、俺の胸を濡らす。そのまま皮膚を突き破って心臓まで届けばいいのに。化物の涙なら、この鼓動をあっさりと止めてくれたりしないだろうか。
「泣き虫シズちゃん。目が溶けるよ」
「……いざや……」
しくしく泣いてばかりいる可愛い可愛い俺のシズちゃん。ねえ、もう一緒に死んでしまおうか。そして冷たくなったくちびるでキスをしようよ。俺たち以外に誰もいない場所――ヴァルハラっていう遠いところで。


20111120

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -