「いざ、や……なあ、臨也、臨也……」 もつれる舌で何度も何度も臨也の名前を口にした。何度目かの呼びかけの後で、臨也が横に向けていた視線をこちらに向ける。にこりと微笑んだその顔は、昔絵本で見た天使にしか見えなかった。冗談抜きで。 「臨也……なあ、臨也……」 「なあに、シズちゃん。どうしたの」 「触っても、いいか?」 臨也がきょと、とその特徴的な目を丸くした。少し考えるような仕草を見せてから、またにっこりと微笑む。形のいいくちびるが、まどろむ猫のようにゆっくりと動いた。 「いいよ?……約束を覚えているならね」 その言葉に、ふと現実に戻る。けど、目の前で笑ってる臨也が今すぐ欲しくて、どうしようもなくて、ただ必死に頷いた。臨也の表情が優しくなる。抵抗できない小動物を見ているような、そんな目だった。やっぱり頷くしかできない俺を、今にもとって食いそうなその目がたまらない。 「じゃあ、どうぞ?思う存分……君にできる範囲でね」 そう言って腕を広げた臨也を、思いきり抱きしめた。 「ふ、ぁ、あ」 臨也は耳を舐められるのが好きだ。耳の穴に舌をつっこんでねぶると、体がふにゃふにゃとやわらかくなる。そのときの顔もふにゃふにゃで、見ているだけで前が張りつめてきつくなる。 「い、ざや」 喉が勝手にごくりと鳴った。それを耳聡く聞きつけた臨也が、ふっと笑みをこぼす。心底馬鹿にしているような、それでいて興奮しているような、歪な表情だった。 「うまくなったよね……きっと女の子も喜ぶよ」 「女なんか、いねえ」 「そうだねえ、シズちゃんは俺がだーい好きだもんねえ……?」 からかい混じりの言葉に返事をする代わりに、首筋へと舌を滑らせた。腕の中で跳ねる細い身体を抱き潰してしまえたらと、いつだって思っている。本気で、そう思っている。 染みもほくろもない臨也の滑らかな首が、好きだ。これは俺のものだと声を大にして言いたい。世界中の人間たちに、示してやりたい。だから、ぱかりと口を開いて首に吸いつこうとした。 「あ?……待ちなよ、シズちゃん」 さっきまでどこか熱に浮かされていたはずの声が、冷めた響きで俺の鼓膜を引っかいた。その声とは裏腹に、表情だけは相変わらず天使のそれだ。甘さだけを与えそうなその顔で、その口で、けれど、臨也はいつでも俺に死刑宣告しか与えない。 「今、なにしようとした?痕つけるつもりだったろ?最悪噛むつもりだった?」 「……いざ、や」 「あのさあ、いつも言ってるだろ?痕つけんのはなし。鏡見るたび君のこと思い出すなんて冗談じゃないんだよね、気持ち悪いんだよ。わかる?わからなくてもいいけど、とにかくやめてくれ」 「臨也、でも」 「でももだってもないよ……これもいつも言ってるね?それでもどうしても痕をつけたいなら、」 そこで言葉を切った臨也が、にこりと微笑んだ。そして俺の耳元にそのいやらしい色をしたくちびるを近づけて、こう囁くのだ。 「別料金だよ?」 それはまさしく福音だ。ついでのようにふぅっと息を吹き込まれ、おかしくなりそうな興奮にぶるっと身を震わせるしかできなかった。ずいぶんとひどい顔をしているのだろう、臨也が憐れむような視線を寄越してくる。手を伸ばして頬を撫で、震える声で、気づけば懇願していた。 「は、らう、払うから……っ」 「そう?でもシズちゃん今月標識壊しすぎて借金増えたんじゃなかったっけ……?」 わざとらしく首をかしげる手前の差し金じゃねえか――荒くなる一方の息を吐きながら、両手で臨也の頬を包み込む。笑っているけど、笑ってない。俺は、ほんとはとっくに知ってるんだ。これは天使なんかじゃない、ただの悪魔だ。聖母の顔をして魂まで食らい尽くす悪鬼なのだ。 でも、好きだ。それでも、好きで好きでたまらない。愛しくてかわいくて、ただ欲しくて飢えている。 他の誰かに奪われる未来を想像するだけで、その顔も知らない誰かを殺したくなるくらいに。 「可哀想なシズちゃんのために、サービスしてあげよう。特別に一枚でいいよ」 猫撫で声が、脳髄を甘く揺さぶった。しびれた頭では、ああ許されたのだ、くらいしかわからない。だから、形容しがたい匂いを振りまいている臨也の首に噛みついて、吸いついて、ただひたすらに痕を残した。 決して俺のものにはならないこいつの首に、いくつもいくつも仮初の所有印を残す。虚しくないわけがない、けど、他に触れ方を知らないから。 「いった、ぁ」 「臨也…臨也臨也臨也……臨也…っ」 「あ、あ、痛いって、ば…ははっ、きみ、必死すぎるだろ……」 ああ必死だよ、いつだって必死だ。こんなに欲しいのに何一つ手前はくれねえから。臨也に縋って、その他大勢の人間と同じ括りに自分から飛び込んじまうくらいに好きなのに、これ以上何をしたら手前はこっちを見るんだよ。見てくれよ、頼むから。なあ、なあ、なあ――なあ! 「シズちゃん?」 じわじわと世界が滲んでいる。臨也がぼやけてよく見えない、だからだろう、いつもよりもずっと優しく俺を見つめている気がした。わかってる、わかってるさ、全部俺の妄想だってことくらい。ああ、だって、 「ねえ、涙、舐めてあげようか?安くしてあげるよ」 ほらな。 けどその言葉にだって、喜びだけで頷ける。だからどうか俺を見てくれ、今この瞬間だけでも構わないから。 臨也の肩に顔を埋めて、ぐすっと鼻を鳴らした。臨也の指が、俺の髪を撫でつけている感触がして余計に喉が痛くなった気がした。金額とかオプションだとか言わないから、これはタダなんだな。よかった、なんかあったけえから幸せだ。 「今日、挿れる?」 甘い声で、臨也が囁く。できることならそうしたい。けど、したいやりたいだけではどうしようもないこともある。少なくとも、俺と臨也の間にはそのどうしようもないことしか存在していない気がする。 「……いくら」 「んー……今日はこんくらい?中出しするなら加算」 臨也が片手を広げてみせる。五万、は、きつい。 「……しゃぶるのは?」 「あー三枚かなあ。俺が舐めるの?君が舐める?」 「俺、舐めてえ」 臨也にされるのが好きだ。でも、終わったあとに余韻しか残らない奉仕よりも、臨也のを舐めて口の中に出したものを飲み込みたかった。そうしたら、しばらくは俺の中にいてくれるだろうから。そう言ったら気持ち悪そうな顔で萎えられたから、もう二度と言う気はねえけど。 「ふーん。君、俺の舐めるの好きだよね……まあ俺も気持ちいいからいいんだけど」 「舐めていいのか?」 「ん、いいよ。脱ごうか?脱がせたい?」 「脱がせたい……」 「あは、かっわいい!ちゅーしてあげる」 何が気に入ったのかは知らない。けど、機嫌よさそうにそう言った臨也のくちびるが俺の頬に触れたとき、俺はまたぼたぼた涙をこぼして泣いていた。 「あれ、どうしたのシーズちゃん?今日は泣き虫なんだね」 いいこいいこ、泣かないんだよ。そう言って背中を撫でる手が優しいから、声が甘いから、俺はもっとほしくなる。優しさとかあったかさとか――愛、とか。そういうものを。 「いざやぁ……」 ぼやける世界の向こう側で笑ってる臨也に、手を伸ばした。捕まえるのだけはたやすいその身体を引き寄せて、抱き締めて、ひどいことばかり言うくちびるを求めて顔を寄せる。あとわずかで触れる、触れられる。期待と興奮とやり場のない愛しさに、ただ突き動かされていた。 冷たい人差し指が、俺のくちびるに押し当てられたそのときまで。 「いけないねえ……ここにキスするのはだめ。絶対にだめだよ」 優しいばかりの声が、宥めるようにそう言った。腹の底は熱いのに、頭は冷や水ぶっかけられたみたいに冷めていた。冷たさを隠しもしなくなった臨也の瞳に映る自分の顔なんざ見たくもねえ。 「っ…くら、だよ……いくらだよ……!!」 叫んだ俺に、臨也が一瞬だけ悲しそうに眉を寄せた。けど、すぐにいつもの穏やかで愛らしい悪魔の笑みに変わったから、俺の見間違いだったかもしれない。だって、言うんだ。俺の好きな可愛い顔で、言うんだ。 「君の心臓と引き換えだよ」 ああ、そうか。結構安いもんだな。でも、それやっちまったら二度と手前に触れねえから、ちょっと困るかもしんねえな。 「きれいだ」 丸裸のまま、椅子の上で膝を抱えていた。俺は使わない灰皿の上で揺らめく炎がとても綺麗で、服を着る気になれない。 「結局今日も中出しまでしちゃうんだもんなあ。ご利用は計画的に、ってね」 くすくす笑いながら、新しい可燃物を追加してやる。勢いを増した炎は、まるで悲鳴をあげているようだった。それは彼の気持ちだろうか?それとも―― そっと指を首筋に滑らせて、彼が残した噛み痕をなぞった。ついでのように反対の手で後ろの穴を探る。ドロドロと零れ落ちる彼の残した熱の感触に、ぶるっと腰が震えた。そのまま指で掬い上げて、見つめる。涙の方がおいしそうだったなあと思いながら、ベロリと舐めとった。 「……まっず」 ストレスを抱えていない男の精液はほのかに甘いとかいう噂を聞いたことがあるが、ストレスしかなさそうなあの男の味しか知らない俺には確かめる術がない。シズちゃん以外の男なんか冗談じゃない。考えるだけで吐き気がする。 「シズ、ちゃん、ぁ、あ」 彼の匂いとぬくもりを覚えている身体は勝手に熱くなる。もうさっさと全部燃やしてしまってから、余韻の残るベッドで抜こう。そう決めて、俺は残りを全部火にくべた。燃える紙幣を見つめて、沸き上がる恨み言を口にする。 「ひどいよねえ、シズちゃん。君はひどい。自分ばかりが傷ついてる顔をして、悲劇の主人公ぶってさ。反吐が出るよ。ああそうさ!そういうとこかわいくってもうたまんないよねえ!化け物が、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死んじまえよクソ野郎!!」 喚いて叫んで、テーブルにナイフを突き立てる。はあ、はあ、肩が呼吸に合わせて揺れた。身体でシズちゃんからまき上げた金が燃える匂い、肺まで真っ黒になりそうだ。 なあ、ちょっと教えてくれないか。 何をされてもいいと思えるくらい好きなやつに「いくら払えば手前を抱けるんだ」と言われて傷つかない人間がどこの世界にいるっていうんだ? どうか俺の絶望をわかってほしい。それが君の支払うべきほんとうの対価だ。可愛い俺のシズちゃん、お願いだから早く気づいて。形振り構わずキスしてくれたら、俺は全部許してあふれんばかりの愛を君にあげるのに! 20111105 |