「兄さん、そんなハンカチ持ってた?」
休日、久しぶりに休みをとれた幽が帰ってきた。サンシャインシティに買い物に行きたいという弟の望みを拒絶する理由は欠片もない。買い物に付き合った後で休憩がてら入ったカフェで、煙草と一緒に取り出したハンカチを見た幽は首を傾げた。そこで冒頭のセリフなわけである。
「いや、まあ、貰いもん?」
「そうなんだ」
別に疚しいことがあるわけではないが、いや、これを手に入れた経緯は十二分に疚しいが、なんとなく幽に見られるのは気まずくてさりげなくハンカチをポケットに戻す。メニューを見ながらそわそわと落ち着きなくしていると、幽が小さく笑った。
「兄さんによく似合ってるよ……それをくれた人は、兄さんのことをよく見てるんだね」
「……かも、な」
気に入ってくれるとうれしい、だなんて似合わない殊勝な態度に面食らいつつ受け取ると、ひどくうれしそうに笑ってたっけ。笑うとやっぱり幼く見えて、ついうっかり可愛いと思ってしまったことまで思い出して、途端に死にたくなった。あれは生徒だ、生徒、生徒――そうやって言い聞かせているということ自体が異常だということに、このときの俺はまだ気づいていなかったのだ。








いつものように口の中の精液を吐き出して水を飲んだ後、折原はふうと息を吐いた。右手で濡れた口元を拭った後で、こちらをじっと見てくる。
「静雄さん、静雄くん、静雄先生……うーん、どれがいいかな」
ぶつぶつと言われた内容は似たような名詞の羅列で、しばらく考えた後で呼び方を悩まれていることに気づいて少し気恥ずかしくなった。慕われているようで、教師の卵としては照れくさい。それが、世間一般のそれとは違うと痛いくらいにわかってはいたけれど。
「普通に先生でよくねえ?」
「つまらないじゃない。んー……しず……ちゃん?あ、いいね、よくない?」
「ふざけんな」
「よし決定、シーズちゃん!シズちゃんシズちゃんシズちゃん……シズちゃん」
ふざけたようにでかい声で連呼していたくせに、最後の最後で声を窄めるなんて反則じゃねえのか。ぎゅっと拳を握りしめ、折原が噛み締めるようについさっき決定したらしい俺の呼び名を口にする。まるで大切な宝物の名前を呼ぶような顔で。
「……いざや」
「っ……え、せ、せんせ?」
驚いたように肩を跳ねさせた折原は、取れそうなくらいに目を丸くした。最近こういう顔を見せることが多くなってきたように思う。年相応の顔。俺のを舐めてるときのクソエロい顔とのギャップが――ああ、いや、なんでもないです。
「シズちゃん、じゃねえのか?臨也くんよ」
「なっ、名前……やめてよ」
「なんでだよ、臨也」
「やめろったら!やめないと写真ばら撒いてやる!」
笑うたびに折原の顔の赤みは増していくばかりだ。ようやく意趣返しをしてやれた気分になって、胸のすく思いだった。赤い頬を撫でると、折原は大袈裟に震えた。寒いのかと聞いたら、馬鹿と返ってくる。教師になりたいくらいだ、ガキは嫌いじゃない。こんな風に可愛げがありゃ、それはなおさら。








「そりゃあんた、ほだされすぎだろ」
後輩の六条を呼び出して、かいつまんで説明してみた。ら、そんな答えが返ってきた。トレードマークの帽子をテーブルの上に起き、六条はぐいっとビールを喉に流し込んだ。俺も同じようにりんごサワーを口にする。甘い。
「まあね、女子高生の可愛さについくらっとくる気持ちはわかるけどさ?」
「……そう、だな」
いや、実は男子高生でよ、などと言って空気を凍らせるつもりはさらさらなかった。六条は女子高生の素晴らしさについて延々と語っている。俺には少しも参考になりそうになかったので右から左へと流しつつ、気づけばまた折原のことを考えていた。
「でもよ、はっきり言ってやらないのが一番きついと俺は思うよ」
「はっきり?」
「え、なんでそこで疑問形?……実習期間終わったら先生と生徒じゃなくなるわけだろ?変な期待もたせんの可哀想じゃん」
「……あ」
そうだ、すっかり忘れていた。俺の実習期間は四週間。もうすでに折り返し地点を過ぎている。つまり、俺が第二職員室で折原臨也の訪問を待つ必要があるのも、後わずかの期間だけ。ちり、と胸を熱が焼いた。








近頃、折原臨也が妙だ。正確に言うならば今までが妙で、正常になったと言うべきなのかもしれない。
授業の準備をしながら、ちらりと視線を右斜め前に滑らせる。椅子の背もたれに胸と腹をくっつけるようにして、折原臨也は窓の外を眺めていた。
「ゆーやーけーこーやーけーでーひーがーくーれーてー」
背もたれを両手で抱き締めるようにして体重をかけながら、折原は夕日に赤く染まる外の世界に向かって童謡を口ずさんでいた。染まる光に照らされる頬は綺麗だった、散々な目に合っている俺でさえ純粋にそう思ってしまうくらいには。
「ふーんふーんふんふんふんふんふんふんふんふーんふふーん」
「ぶっ」
唐突に、歌は鼻歌に切り替わった。ほんの二週間と少しの付き合いだが、大人びていて大変にずる賢いと認識しているこいつにはあまりに似合わなくて、つい吹き出してしまった。びたりと歌が止む。折原の視線がこちらに向いた。
「なんだよ、先生」
「いや、知らねーなら歌わなきゃいいだろ」
「っ……し、知ってるし、めんどくさかっただけだし」
ぷいっとそっぽを向いた折原の頬が赤い。おそらく夕日のせいだけではないだろうその赤さを、俺は非常に複雑な気持ちで見ていた。いつの間にか笑いは引っ込んでいた。
「……ね、せんせ」
「ん?」
「時間が止まってほしいな、俺」
「……」
そう言って寂しそうに笑った子供に何も言えずに、ただボールペンを握る手に力を込めた。何も言わない俺をどう思ったのか、折原はますます笑みを深める。大人びていてずる賢いやつ、そんな顔をしないでくれ。困るんだ。
近頃、折原臨也が妙だ。正確に言うならば今までが妙で、正常になったと言うべきなのかもしれない。
俺に触らなくなった、それなのに傍にはいる。いつも決まった時間に第二職員室に来て、決まった時間に帰っていく。その背中を見送る度に、寂しがっているのは俺の方なのだろうか。これって、ただほだされてるだけか?もっとこう、ちゃんと考えなきゃいけないんじゃねえのか?








悶々としている間も、俺と折原の距離は変わらなかった。下衆なことをあまり言わなくなった折原と喋るのは普通に楽しかったし、研究授業のたびに手を挙げてはさりげなく俺を助けてくれることには感謝していなくもない。始まりが始まりなだけに認めるのはとても不本意だが、多分俺はあいつのことを――そこまで考えて、壁を思いきり殴った。
「シズちゃん?」
ちょうど扉を開いた折原が、驚いたように俺を呼ぶ。手に抱えられているのは俺の資料集だった。教室に忘れていたらしい。
「どうしたの、なんでそんな荒れてるの」
「……手前のせいだろうが」
「え?」
「なんでもねえよ……ありがとな」
資料集を受け取って、溜め息をついた。あと一週間、あと一週間で実習は終わりだ。そろそろはっきりさせなきゃいけない。何故って、俺が大人でこいつはガキだからだ。最近すっかり忘れてたけど。
「折原、もうここ来んな」
折原の細い肩が震えた、可哀想になるくらいに大きく。二週間前の俺なら、同情心など抱かなかっただろう。
「……なんで?」
「なんでもだ。もうやめよう、おかしいだろ。よく考えなくてもよ」
「しゃ、しん」
「ばら撒きたきゃ好きにしろ」
ぐっとくちびるを噛んで、折原は俯いた。ぼた、と水滴が床に落ちて弾ける。ぼたぼたと止まることのないそれを、拭ってやりたくなる衝動を必死に押し殺した。
「……さよなら、先生」
涙声でそう言って、折原はくるりと背を向けて乱暴に扉を開けて走り去っていった。しゃがんで、折原が落としていった涙の粒を見つめる。蛍光灯の明かりに揺らめくそれは、とても綺麗なものに見えた。
「さよなら、か」
別れ際、折原はいつも「また明日」と言っていた。さよならと言われたのは、これが初めてだった。胸が切り裂かれたように痛くてたまらない。だって、俺はもう二週間前の俺じゃない。今の俺は、どうしようもないあいつにどうしようもなく恋をしている。








折原がプチ登校拒否しやがっている。なんでも『一週間後に来ます』って言ってるらしい。写真ばら撒かれた方がよっぽどマシだった。おかげで最後の研究授業は散々で、校長にこってり絞られた。その間も頭の半分は折原でいっぱいで、人を見抜く力に長けてる校長の説教タイムを延長させることになったのもいい思い出だ。今日で、俺の長いようで短かった実習期間は終わりを迎える。
「……ここ、こんな広かったっけなあ」
生徒の相手をして、先生方に激励と説教をもらった後で荷物を纏めながら、ぼんやりとそんなことを思った。第二職員室、折原に迫られてフェラされてイかされて脅されて、ロクな思い出がない場所。笑った折原が可愛くて、泣いた折原も可愛くて、好き好き迫る折原も可愛くて、とりあえず折原に惚れた思い出深い場所。
「あいつ、俺のどこが好きだったんだろうなあ」
「ぜんぶ」
「……空耳か……俺も大概疲れてんな……」
「空耳じゃないよ、先生」
全力で振り向いたそこに、プチ登校拒否児がいた。見慣れた学ランじゃなくて、初めて見るラフな私服にどきっとするのは致し方ないから見逃してもらいたい。
「……もう会わないつもり、だったんだけど……やっぱり、最後にもう一回と思って」
そう言って、折原は後ろ手に扉を閉めた。細い指が俺の喉にかかる、初めてのあのときのように。ごくりと鳴った喉をどう思ったのか、折原は目を細めて笑った。それよりもずっと可愛い笑顔ができるくせに、なんでしねえんだよ。ベルトに伸びてきた手を掴んで握りしめたら、折原は眉をひそめていた。
「なんで止めるの?先生、俺がフェラしなくなったからもう来るなって言ったんだろ」
「なっ……手前は何をほざいてんだ」
「……なんで優しくしたの?先生が、俺に優しくするから……ほんとは実習期間終わるまでフェラして脅して縛りつけてやるつもりだった。でも先生が優しいから、傍にいるの怒らないから勘違いして、舞い上がって、でも結局突き落とされて……もうやだ、俺やだ、先生なんか……大好きだよ、それでも先生が好き。恨むよ、ずっと恨んでやる。俺をこんなにしたこと、後悔させてや、……っひ、」
折原の目尻に涙が溜まる。あのときできなかったことを、今ならできると思った。だから、迷わずに舌を伸ばして舐め取った。塩辛い、海みたいな味がする。折原は驚きすぎたのか、行動を全部停止させていた。
「臨也」
「……せんせ……?」
「残念だけど、俺もう先生じゃねえんだよ臨也くん。ほれ、呼んでみな」
「……し、ずちゃん」
「いい子だな」
前髪をかき上げてちゅっと額にキスすると、折原は――臨也は、ぼんっと顔赤くした。あわてふためくその姿は年相応で、胸の奥がきゅんと鳴った後でどくどくとうるさく脈を打つ。ああ、可愛い。可愛い可愛い、可愛すぎんだろ、くそが。
「臨也、黙ってよく聞け。お前が好きだ。だから、俺の恋人になってほしい」
止まっていたはずの臨也の涙が、またぶわっとあふれてきた。指と舌でくりかえしくりかえし拭いながら、しゃくり上げてるせいでよく聞こえない言葉を必死に拾い上げる。もうくんなって言ったじゃん、とか、せんせいずるい、とか、馬鹿死ね馬鹿、とか。こいつは俺を殺す気なんだろうと思う。さすが恨んでるだけのことはある。
「言葉足らずだったのは謝る。好きだ、臨也。手前が可愛すぎて、俺もけっこう恨みたい」
「意味わからないよ、先生。国語教師目指してるくせにやばいんじゃないの」
「うるせえぞ。つーか先生じゃねえっつの。さっきも先生っつったよな?聞き分けのない生徒にはお仕置きだぞ」
「っ、先生が先生じゃないなら、お、俺だって生徒じゃないし……」
「あー臨也くんいけねーなあ、また先生っつった。こりゃもうお仕置き決定だよなーあ?」
そう言って、臨也がなにかを反論する前に、小さなくちびるを塞いだ。俺のアレだけが知っていた臨也のくちびるの感触に、どうしようもなく心臓が震える。やっとキスできた、いつからだろう、ずっとしたいと思ってた。
「っは、ぅ、せ、せんせ……好き、好き好き好き、先生、大好き」
「まーた手前は……」
「だって、もっといっぱいずっとキスしてほしい……シズちゃんに」
恥ずかしそうに視線を逸らして、それでも腕は俺の背中に回して、そんなことを言うこいつは俺の可愛くない元生徒。そして――死ぬほど可愛い俺の恋人。


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