平和島静雄が一通の新着メールに気づいたのは、仕事が終わってほっと一息ついたときだった。差出人の名前を見て、溜め息をつくと同時に妙な高揚を覚えるのをどうにかしたい。無理なことだとわかりきっているのに。
もう一度メールを見てから画面を閉じ、携帯電話を折り畳んでポケットに仕舞う。見上げた空は、生憎の曇り空だった。重く垂れ込めた雲が今にも雨粒を落としそうで、静雄は我知らず眉をしかめる。
今日は七月七日、七夕だ。愛し合う恋人同士が、一年に一度の逢瀬を許された日。せっかくだから晴れたらいいのに、と、毎年思っているような気がする。もっとも、東京の空で天の川がどれほど美しく流れてくれるのかは甚だ疑問ではあるのだが。
煙草に火をつけて煙を吸い込んでから、先程仕舞った携帯電話をもう一度取り出した。煙を吐き出しながら再びメールを開こうとしたが、その背中にふと違和感を覚えて振り返る。さらりとした黒髪が視界に入ってきた瞬間、様々な感情が沸騰するのは、静雄にとってはもはや呼吸するのと同じくらいに極自然なことだった。
「だーれだぁ?」
「いーざーやーくーん、かなあ?」
ふざけた問いかけに、同じくらいの気持ち悪さを交えて返答する。この猛暑ではさすがに暑いのだろう、普段は長袖に隠れた白い手首が静雄の腹にまわって、ぎゅっとバーテン服のベストを掴んだ。おかげで背中の違和感は増すばかりだ。
「ワーオ!大正解!さすが俺のシズちゃん!」
「おう、手前のシズちゃんだよ。ナイフも刺さらねえ手前のシズちゃんだぜ?なあ、俺のノミ蟲くんよお?」
俺のシズちゃん、のズ、のあたりで背中に全体重をかけてきた通り魔の左手を掴み、自分の腹からひっぺがした。そのまま勢いよくその手ごと細い体を引き寄せながら、向き合う形になるように自らの体も少し回転させる。カシャンという音は、恐らく右手から落ちたナイフの断末魔だろう。背中の違和感は消え、これでようやく目の前の男に全力で集中できると内心笑みを浮かべた。
「ひどいな、痛いよシズちゃん」
「ひどいのは手前で、痛いのは俺だろうが!毎回毎回刺すんじゃねえ!」
「うそつき、痛くも痒くもないくせに」
静雄に掴まれたままの右手首を労るように、空いている左手で静雄の手ごと優しく撫でる通り魔――折原臨也はそう言って静かに笑った。静雄がその笑みにどれほど心惹かれているかを知り尽くした上で。
ぐっと押し黙った静雄に、臨也はますます笑みを深くする。撫でていた左手を離し、だらりと垂れ下がったままだった静雄の右手に滑り込ませた。そして幾分短くなっていた煙草を奪い、地面に放る。静雄がポイ捨てを咎めるより早く、臨也はその細い指を静雄の指に絡めてきゅっと握った。いたずらっぽくなった笑みに、どきりと胸の真ん中が脈を打つ。
「メールは読んでくれたかい?」
「お、おう」
「そう、よかった。じゃあ行こっか」
「行くってどこに?」
「い・い・ト・コ・ロ」
ばちっと片目を瞑ってそう言った臨也に対して寒さを感じられない自分に、むしろ妙な興奮を覚えてしまう自分に、そろそろ焦りを覚えなければと静雄は強く思った。ともあれ、繋がれた手の心地よさで今はすべてに目を瞑ろうと自分を甘やかすあたり、すでに手遅れであるけれど。





臨也の言う『いいトコロ』であるミルキーウェイは、今日も女性客やカップルで賑わっている。なるほど、今日という日にここほどふさわしい場所もなかなかないかもしれない。星にちなんだ店内を見回しながら、静雄はそう思った。
「わあ、見て見て。あそこの二人喧嘩してない?こんな往来でよくやるよねー別れるのかな?」
「おい、外ばっか見てんじゃねえよ。さっさと注文を」
「おーっと?迷子?迷子だよ、シズちゃん。道行く大人がどんな対応をするのか気になってメニューもめくれない」
「いや、めくれよ……けど迷子は可哀想だな」
静雄は眉根を寄せ、窓ガラスから下を見下ろした。幼い少女が小さな両手であふれ続ける涙を拭いながら必死で声を張り上げている。思わずぐっと身を乗り出した静雄に、臨也が声をかけた。
「……大丈夫さ、ここは池袋だからね。すぐにお人好しな運び屋が……ああ、ほら、来たよ」
そう言って臨也が指差した先、黄色いヘルメットが特徴的なライダーが現れた。滑るように人波を抜け、迷子の少女をその影で抱えた黒バイクが走り去っていく。ほらね、とつまらなさそうに言った臨也がポケットに突っ込んだままの携帯電話に何事か打ち込んでいたことにはあえて触れず、静雄はそっと頬を緩めた。
たまにこうしてこっそりと自分の意図を汲んでくれるところを、本気で愛しく思っていることは秘密にしている。まだしばらく、言うつもりはない。
「よかったね。さて、そろそろ本気出してメニューを見ようか。あーどうしよう、牡羊座……いやでもなあ」
「牡牛座のパフェじゃねーの?」
「もうシズちゃんは何も知らないんだから!いいかい?星座占いには十二星座と十三星座があって、どちらを選択するかで自分の属する星座が変わる場合があるんだよ。そもそもなんでそんなややこしいことになったかっていうと、星占いに興味の薄い学者さんたちが学会で黄道を通る星座を「あ、なあ、乙女座美味そうじゃねえ?」……そうだね、君はそういうやつだよ」
臨也は一つ溜め息をついて、また外に目を向けたので、静雄もつられたように視線を動かした。先ほどとは違い、ぽつぽつと雨粒が降り始めている。傘をさす人、濡れないように走る人、雨宿りをする人、実に様々だ。
「七夕なのに、可哀想だよな。せっかく会えるのに」
なんとなく発した言葉を聞いたせいなのか、臨也が視線を外から静雄に移した。不思議な色をした目を丸く見開き、臨也はまじまじと静雄を見つめる。なんとはなしに気恥ずかしく、なんだよ、と呟いた静雄に、臨也は、ううんと首を横に振った。
「やっぱりロマンチストだよなあ、と思ってね。メルヘンっていうかさ」
「なんだよ、手前こそあんなメール寄越してきたくせしやがって。手前の方がよっぽどメルヘンじゃねえか」
「あれ?あれ?もしかして意図が伝わってない?」
「はあ?」
「はあ、そっか。なんだ、そっかー……いや、まあメール見た後ケータイぶっ壊さなかっただけ進歩だよね」
噛み合っていない会話に二人して首を傾げたものの、先に勝手に納得したらしい臨也は残念そうにそう呟いてメニューを静雄から取り上げた。おい、という非難を無視してぱらぱらとめくる。その視線はまたもや窓の外だった。
「ていうかさ、俺は七夕は曇りや雨で然るべきだと思うね」
「なんでだよ、天の川が氾濫するじゃねえか」
「あのさーシズちゃんあんまり可愛いこと言わないでね。愛しくなるから。ほら、織姫と彦星は星だろ?天の川も星だ。雲より上でしょ?つまり、地上の俺らから隠れて二人っきりでラブラブランデブーなわけ。今ごろガンガン腰振ってんじゃないかな。なんたって一年ぶりだしね、うん」
「……ずいぶん下世話な表現だな」
「あはっ!愛し合う二人が愛し合って何かいけない?もしシズちゃんが、年に一回しか俺に会えなくなってもそんな清らかなこと言うの?俺は激しく愛してほしいな、体全部でシズちゃんを感じたい」
随分と熱烈な告白だった。静雄は二、三度まばたきをしてから、自分でもわざとらしいと思える咳払いをした。持っていたメニューをテーブルに置き、臨也がにっこりと微笑む。静雄はどうにも耐えられなくなって、七分袖から覗く細い腕にそっと触れた。
「臨也」
「なに?」
「俺、一年に一回とか、まずその前提が無理だ。誰に止められても、会いに行く。川があったら泳いで渡るし、壁があったらぶっ壊してやる。毎日だって会いに行く」
「……ふーん」
今度は、臨也がまばたきをして咳払いをする番だった。腕に触れていた指を滑らせ、手首を通過してから手の甲まで。ゆるく丸められている手に自分の手を重ね、力加減に気をつけながらやわらかく握りこんだ。臨也の体温に触れるのが、静雄は好きだ。
「シズちゃんらしくて、困っちゃうね」
少しだけ目元を染めた臨也が可愛くて愛しくて、無性にキスしたくなった。というか、メールを読んでからずっとキスしたくてたまらなかった。けれど場所をわきまえて、帰るまではと自分に言い聞かせていた静雄だったが、ふと顔にさした影に視線を動かした。パフェの写真がぼやけて見える。開かれたままのメニューが、何故か静雄の顔の横にぴたりとくっついていた。犯人は臨也しかいない。
「さて問題です。天の川は英語で?」
軽く身を乗り出し、静雄に触れられていない方の手でメニューを掲げたままで臨也がいきなりそんなことを尋ねてきた。メニューで片側を遮られているせいで現在の静雄には、遮られていない方の視界にある窓ガラスの向こう、そして目の前の臨也だけが世界のすべてだった。
「天の川は英語でなんていうの?」
「……ミルキーウェイ?」
「よかった、それくらいは知ってるんだね」
そう言って綺麗に笑ったかと思うと、臨也がさらに身を乗り出してきた。近づいてくる顔に慌てたときにはもう遅く、ちゅっという軽いリップ音が頭に響く。キスしたいと思っていたくちびるにキスされて、喜べばいいのか叱ればいいのかよくわからなかった。
「シズちゃん、煙草の味がする。やだな、キスは甘いのがいいよ」
顔を離してから、くちびるをぺろりと舐めて臨也はそう呟いた。混乱する頭で、静雄は必死になぞなぞじみた臨也の言動をまとめる。弾き出した可能性のくだらなさは、それが正しい答えである自信へとつながった。
「……だからここ連れてきたのか?」
「あ、やっとわかった?やっぱ七夕だしさ!ねえ?」
「手前のイベントの楽しみ方、よくわかんねえわ」
可愛いけどよ、とは言わずに静雄は触れていた手を優しく撫でた。そしてもう片方の手で、メニューを奪って臨也が自分にしたように臨也の頬にメニューを寄せる。こんなもので隠れきれるわけはないが、しかけてきたのは臨也だからどうなっても知るものか。シズちゃん、と呼ぶくちびるを塞ぎながら、静雄はメールの一文を思い返していた。


――ねえ、天の川でキスしようよ




110707

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ミルキーウェイに行ったことがないので変なとこあっても笑って許してくださいごめんなさい

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