来神








ピンポーン、という呼び鈴に従ってドアを開ける。鼻を掠めた匂いに、雨が降っていたことを初めて知った。本を読んでいると、なにも聞こえなくなる。
「……?」
開いた扉の向こうには、誰もいなかった。いたずらかと思い、扉を開くために込めた力を今度は逆に使う。キィ、という音の合間に、カサッという何かを擦った音がした。
不思議に思ってドアから身を乗り出すと、ドアノブに袋が引っかけてあった。手を伸ばしてドアノブから外したそれは、どこにでもある白いビニール袋だ。けれどその中には、あまり縁のないものが入っていた。
「花?……なんでまた?」
あんまりにも間抜けな声が出たので、誰もいなくてよかったと思ってしまった。とりあえず袋を持って、今度こそドアを閉める。ついに来訪者は姿を見せなかった。
部屋に戻り、読んでいた本にしおりを挟んでテーブルの脇へと追いやる。真ん中に置いたビニール袋から花を取り出して、まじまじと眺めた。ピンク色の可愛らしい花だ。縁に細かい切れ込みがいくつもあり、とても繊細な印象を抱かせるそれは、最近どこかで見たことがある気がする。
「どこで見たんだっけなあ……」
うんうんと首を捻りながら、ざっと部屋を見渡した。ハンガーにかけた学ラン、椅子の上に置いてある指定鞄、机の上にある古語辞典――あ、思い出した。
腰を上げて、鞄の中に入れっぱなしだった古典の教科書を開く。パラパラとめくり、つい先日に授業で習ったページを開いた。並んだ文字の下には、思っていた通りに花の写真がある。
「なでしこ……撫子か」
実物と写真を見比べながら、写真の下に書かれている文字を目でなぞる。なでしこは撫でし子、可愛い子という意味だから愛する者に贈るのだと古文の担当教師が言っていたのをぼんやりと思い出した。
と言ってもそれは遙か昔の話な訳で、今現在俺がこうして撫子を贈られているという事実――そもそも贈り物かすらわからないのだが――とはまた状況が違う。
けれど、この撫子が愛しい者に贈られる花だということに期待せずにはいられない自分がいるのも確かなのだ。それはおそらく、この花を置いていった人物であってほしいやつを、俺が思い浮かべているからに違いない。細やかな花びらは、あいつのように繊細だった。そんな風に、似合わないことを思ってしまうくらいには。
小さな花束になっている中から一輪だけ抜いて、香りを確かめるために鼻を寄せる。少し雨に打たれたのだろうか、わずかについていた水滴が鼻の頭を濡らした。あいつは濡れなかっただろうか。前に静雄との追いかけっこに夢中で雨に打たれすぎて、風邪をひいていたことを思い出した。
撫子をくるくると指で弄びながら、開きっぱなしだった教科書に視線を戻す。そこにある一文を小さく声に出してから、俺はボールペンに手を伸ばした。





月曜の朝はどうにも体が重いものだ。あくびを噛み殺しながら校門をくぐっていると、後ろの方からへくしっという間抜けなくしゃみが聞こえた。振り返った先にいたのは、来神高校の問題児その一だった。
「おはよう。つらそうだな」
「ん、ちょっと通り雨がさー……予想外を愛せるのは人間限定だから天気は予報通りがいいよね」
「そうか?急な雨っつーのもなかなかだと思うけどよ」
予期しない贈り物を連れてきたりな、と心の中だけで呟いて、手に提げていた袋に目をやる。臨也はまだぶつぶつと文句を言っていた。俺の持ってる袋にはまだ気づいていないらしい。
「俺はそこまで悟れないね!傘もないしすぐ近くにコンビニないとこだったしでもう散々だったよ」
「ふーん。花屋はあったのにな」
「……さあ、どうだったかな」
その返しはおかしいだろうとつっこみを入れるべきか迷ったが、当の臨也が明らかに「やってしまった」という顔をしていたのであえて何も言わずにおいた。きっと知らないやつの方が多いと思う。あの折原臨也が、こうして抜けたとこを見せるときもあることを。
笑いを堪えながら、袋の中に手を突っ込む。目当てのものを掴み上げ、こちらを見ていない臨也の視界に入るように差し出した。ぱち、ぱちぱち、臨也の目が瞬く。
「ありがとな、お前だろ?くれたの」
「……なんで?」
「なんとなく。あえて言うなら、お前ならいいのになっていう俺の希望的観測」
「……これは?」
「手紙」
訝しげな臨也の手に、そっと握らせたもの。撫子の花に紙を結びつけた、まあいわゆる恋文だ。臨也はてのひらの上のそれをまじまじと眺めた後、小さな声で可愛いと言った。その感想こそが可愛いだろ。
「読んでいいの?」
「俺の目の前でか?やめてくれ」
「なんだよ、くれたくせにさ」
悪態をつきながらも、どこか嬉しそうな臨也の顔に期待と恋慕はふくらんでいく。撫子、可愛い子、愛しいあなた――風にも耐えぬ可憐な花ではないけれど、俺には可愛い可愛い可愛いやつだ。
「ドタチンのラブレターって小粋だね」
「雨ん中花置いてくやつに言われたくねーっての」
片方の腕を俺の腕に絡めて、臨也が手の中の撫子にキスをした。その仕草が可愛くて、俺は臨也の髪にキスをした。



なでしこが その花にもが 朝な朝な 手に持ち取りて 恋ひぬ日なけむ

――もしも君が撫子の花だったなら、僕は毎朝手にとって愛するのに



こないだ古文で習ったその歌になぞらえたのだと思ってもいいだろうか。答えは、俺の手紙を読んだ後の臨也だけが知っているのだろう。


20110905


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撫子:いつも愛して

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