「はい、あげる」
雨の匂いを纏いながら帰宅した早々に意味のわからないことを言い出した雇い主の顔にタオルをぶつけたのは、私なりのおかえりなさいだ。
「波江さんひどいー」
「うるさいわよ」
ひどいひどいと言いながら、臨也は笑っている。ほんとうに行動と表情の一致しない男ね、気味が悪い。
はい、あげる、と、臨也は先ほど口にした言葉をもう一度聞かせた。その手の中にあるのは、小さな花束。この男には似合うようで似合わない。そう思い顔をしかめると、臨也はますます口角をつり上げた。
「可愛くない?」
「枯れゆく時を待つばかりのものに興味はないの」
「へえ。君の弟への想いってまさしくその通りだと思うんだけどなあ……あはは、怒らないでよ」
殺意を覚えて振り上げた手を掴まれて、花束を押しつけられた。こういう無駄にスマートな所が気に入らないのよ。
それでも落としてしまう気にもなれなくて、そっと指を曲げてそれを抱える。紫色の、あまりそこらでは見かけない花だ。確か名前は――
「「苧環」」
私と臨也の声が綺麗に重なった。びっくりしたように丸くなった瞳は子供のようだ。もっとも、こいつは精神面の成長を止めた子供が妙な知恵をつけてしまったようのものだけれど。
「あれ、なんだ、知ってたの?」
つまんなーい!などとくちびるを尖らせているその顔は、世間一般に見れば愛らしいのだろうと思う。折原臨也は美しい男だ。中身がこれ以上ないくらいに破綻していることにさえ目を瞑るなら、十二分に魅力的だろう。
「植物は製薬にまったく関係ないわけじゃないもの」
「はーなるほどね。昔とった杵柄なわけだ。さすがは波江、顔もよければ頭もいい」
「黙ってちょうだい。それで?こんなものを寄越してどういうつもりなの。まさか給料代わりにするわけじゃないでしょうね」
「まさか!そんなことはしないさ!」
臨也は笑いながらこちらに手を伸ばす。身構えた私にますます笑みを深くしながら、手の中にある花に触れた。
一輪抜き取り、香りを確かめるように鼻に近づける。絵になるところが、たまらなく忌々しい。
「これの花言葉を知ってるかい?」
「いいえ。興味がないわ」
「おや」
臨也は肩を竦めてから、またこちらに手を伸ばしてきた。今度は先ほどとは逆でその手の中に花が一輪。またしても身構えた私を、今度は笑わなかった。
髪をかき分け、耳を支えにして花を飾られる。幼い頃に誠二がそうしてくれたことを思い出して、胸がちくりと痛みを訴えた。
「うーん……やっぱり波江にはもっと派手な花が似合うなあ」
「あらありがとう、コメントしづらいわ。じゃあどうしてこの花にしたのかしら」
「花言葉だよ」
臨也は私の耳辺りにある花を優しく撫でつけてから、指をゆっくりと滑らせた。そうして私の髪を一房掬い、そこにくちびるを。
「……なんのつもりよ」
「信愛の情を示してるんだよ、怖い顔はやめてほしいなあ」
私の髪を繰り返し繰り返し指で弄びながら、臨也は楽しそうに音を零す。
「勝利の誓い、だそうだよ」
唐突にそんなことを言われ、一瞬首を傾げた。けれど、含みのある視線が耳辺り、つまり苧環に注がれているところから察するに、それは恐らく苧環の花言葉なのだろう。
「私はあなたに誓われる覚えはないわよ」
「いいんだよ、俺が誓いたいだけなんだからさ!」
「そう。どうでもいいから髪を離してちょうだい」
「えー嫌だよ」
「……」
この男、鬱陶しすぎる。にらみつける視線に力を込め直しても、怖い怖いと嘯くばかりで何も効果がなかった。本当に忌々しい。
「波江、君と俺は共犯者だ。愛してるよ」
「人間は皆、でしょ」
「はは、こういうときは黙って頷けばいいんだよ」
そう言って、臨也はまた髪にキスをした。意味のわからない男だ。こんなやつに心の底から囚われているあの男に、少しばかり同情するくらいには。
「君に勝利を見せると誓うよ。俺のニケ」
「不愉快よ。首無しはライダーだけで十分だわ」
「サモトラケだけじゃないだろ、ニケはさ」
「黙れないのかしら?」
そんな悪態をつきながらも、臨也の手を振り払えないのは――嗅ぎなれない花の香りのせいということにしておいてちょうだい。


110522

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苧環:勝利の誓い