「おかえり津軽。雨降ってたみたいだけど、大丈夫だったかい?」
タオルを持って出迎えてくれた主人に謝辞を述べ、頼まれていた荷物を床に置いた。自分でするから、と差し出した手はやんわりと無視される。
「おいで」
青空が語りかけてきたかと錯覚するような美しい声が、やわらかな響きでもってそう囁いた。主人の命令は、絶対だ。
促されるままに、マスター愛用のチェアに腰を下ろす。前に回ったマスターは、タオルで丁寧に髪を拭いたあと、しゅっと防水スプレーを振りかけてくれた。
「これでよし。さあ津軽、隠しているものを出してごらん」
ぎくっと肩が跳ねた。誤魔化すか惚けるか、それとも――悩んだところで勝ち目はないことを知っている。
観念して、右手を袖に突っ込んだ。そこに丁寧に仕舞い込んでいたものを引きずり出した。それを主人の方へと黙って傾ける。沈黙が、包んだ。
「……どうしたの、これ」
不思議そうに訪ねてくる顔は、好奇心でいっぱいだった。可愛いと思う、純粋に。そして、コードだらけなはずの胸があたたかくなるのだ。いつも、いつでも。
これが命をくれた主に対する思慕なのか、俺のモデルになった男がマスターに向けるものと同じ類の感情なのかは俺にはわからない。けれど、マスターが俺の名前を呼んでくれるなら、それだけで生きていられる確信はあった。
「花屋で購入を。マスターにと思って。ちゃんと自分で払ったから、もらってほしい」
「俺の金つかってよかったのに。馬鹿だなぁ。自分の金は自分のためにつかいなよ」
「……受け取っては、もらえないのか」
我知らず出していた情けない声に、マスターがタオルを口元に当てて笑った。花束を引き寄せて、ふんわりとした花びらに鼻をくっつける。
「いい匂い。可愛い花だね。ピンクの薔薇なんて俺には似合わないと思うけど……ありがとう、津軽。これは俺の寝室に飾っておこう」
機嫌よさそうに見えるのが、俺の勘違いじゃなかったらいいのに。なおもタオルで口元を隠しながら、マスターはくすくすと喉の奥で笑い声を転がしている。
「なにかおかしいか?」
「んー?いや、同じ顔なのに大違いだなあと思ってね。あの化物には、花を贈るなんて情緒はなさそうだ」
「……」
また、だ。俺のモデルのあの男、平和島静雄のことを話すとき、マスターはいつもこんな目をする。すべてを壊したいと言わんばかりの激しい憎悪と、すべてを諦めたいと言わんばかりの小さな恋慕。
ギッと体の真ん中、胸の辺りが嫌な音を立てた。故障しそうなくらいのこの痛み。マスターが平和島静雄の話をするとき、俺はいつもここが痛くなる。
「早く死ねばいいのに。俺を愛さないまま、早く、早く」
ギリギリと、回路が悲鳴を上げている。相変わらず白い布で見えない口元は、悲しげに歪められているのだろうか。
気づけば、手を伸ばしてタオルを奪っていた。驚いたように開いたくちびるに、指で触れて幾度もなぞる。
くちづけたいと思わなかったことはない。この皮膚が人の子のものだったなら、迷わずキスを乞うていただろう。何度も何度も、いつまでも。
「マスター、どうか悲しまないで。あなたが悲しいと、俺も悲しい」
気の利いた言葉一つかけられない俺だけど、マスターが笑ってくれたからきっと間違ってはいなかったはずだ。愛しいマスター、俺の世界のすべて、あなたが笑ってくれるならば俺はそれだけで明日を生きていける。
マスターは、静かに頷いた。俺が贈った花を撫でて、それから俺の耳を撫でてくれた。少し冷たい指が気持ちよくて、目を閉じる。
「ありがとう……ごめんね」
ああ、目を瞑っていてよかった。今マスターがどんな顔をしているのか、見なくてすんだから。ごめんねの意味を、まだ理解したくはない。
「この花の名前、俺知ってるよ。ねえ、花言葉、知ってる?」
「……知らない」
「……そう」
嘘に気づいていることに気づかないふりをして、マスターの細い体に手を回した。痛いよ、とからかうように言われたけど、離したくはなかった。

あなたが俺のすべて。あなたさえ幸せなら。あなたさえ笑ってくれるなら。だから、これでいい。明日もまた、あなたに会えるのだから。


110515


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グレートメイデンスブラッシュ:我が心、君のみぞ知る

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