来神 「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見へしとき……」 美しく透き通った声だ。 そんなことを思ってしまった瞬間、静雄は自分のことを殺してやりたくなった。ぎりっと歯噛みしながら睨みつけたクラスメイト――折原臨也は、視線に気づいているのかいないのか、ただ淡々と詩を朗読している。小難しい解釈などわからないし興味がない。ただ、その詩を口にしている臨也のくちびるが林檎のように赤くてらてらと光っているのが、いやに目についた。 「はい、いいですよ。座って、折原くん」 「はい」 愛想よく教師に微笑んでみせてから、臨也は音を立てずに席についた。にこにこと笑みを浮かべて黒板を見ている。いや違う、あれは見ているふりをしているだけだ。知識ばかりが勉強で得られることではない。どうせまたくだらない、例の『観察』とやらの延長だろう。 忌々しいノミ蟲野郎めと思いながらも、視線をそらせない。その理由に思い至り、静雄は思い切り舌打ちしたくなった。臨也の右斜め後ろのその後ろ、そこが静雄に与えられた席だ。ここからは、よく見える。臨也の細い首筋と、自分が昨日そこにつけた赤い跡が。 ぐっと込み上げる吐き気に似た何かを噛み殺しながら、ただ臨也を見つめる。ふと、臨也の細い首がその角度を変えた。 「――……」 何か言った、だろうか。わずかに動いたように見えたくちびると、その少し上にある二つの丸い瞳に視線を奪われる。 「……、」 臨也は微笑んだ。何かをねだるような、けれど、すべてを諦めたような顔で笑ってみせた。その瞬間のその感情をどう表現すればいいのか、まだ年端のいかぬ静雄にはわからない。わからないなりにも、胸はひどく早鐘を打っていた。 昨日、静雄は臨也とセックスをした。そこに愛があったかと問われれば間違いなくノーだ。そのはずだった。 毎度毎度、二人きりになる度に愛を囁かれて言葉を乞われていたのは紛れもない事実である。だが、そのような戯言をあっさりと信じ切れるほど、静雄と臨也の関係は円満なものではない。気持ち悪い死ね殺すと何度突っぱねたことだろう、けれど臨也はいつも変わらぬ態度で愛を求めた。その従順さはさながら奴隷のようで、ぞっとしたことも少なくはない。 折原臨也は愛すること、そして愛されることに労力を惜しまない人間だ。ただしそれは臨也なりの基準における『愛』であり、第三者の目から見れば、まるで獅子が食らう気もない獲物をいたぶって遊んでいるようなものだった。静雄に言わせてもらえれば「胸糞悪い」の一言でしかない。 静雄には、臨也の考え方も行動もまるで理解できない。それは臨也の方も同じだ。だがしかし、二人の間には決定的な違いがあった。得体のしれないものとして認識した臨也を拒絶した静雄と、自らの知識、経験、感情――折原臨也を形作るすべてを凌駕した存在として認識した静雄を愛してしまった静雄。行きつく先にあるものが悲劇にも似た喜劇でしかないことを、臨也がわからないはずはなかっただろうに。 「好きなんだ」 「よかったな」 「愛してる」 「よかったな」 「俺のこと愛して」 「そりゃ無理な相談だ」 「他には何もいらないから」 「嘘ぶっこいてんじゃねえ」 幾度も、幾度も、繰り返したやりとりだった。こっぴどく振れば振るほど、臨也が静雄に向ける殺意は燃え上がる。そして、何故かは知らないがアプローチもひどく情熱的なものになる。静雄はずいぶんともてはやされているらしい臨也の顔の造形になどとんと興味はなかったが、自分の前に立ち塞がって射殺さんばかりの視線で睨みつけてくるときと、馬鹿の一つ覚えのように独りよがりな愛を吐きながらすり寄ってくるときだけは、こいつ綺麗な顔をしているなと思ったものだった。その顔を見たかっただけなのかもしれないと、昨日までの自分――他人の肌の滑らかさを知らなかった自分を振り返りながら、静雄は思う。 静雄は愛に飢えている。幼い頃からずっと畏怖の対象でしかなかった自分の人生からすれば、それは至極当然だ。愛したい、愛してほしい、手をつないでくちづけて、一晩中抱き合って眠りたい。そんなごくごく普通な望みさえ、静雄には手の届かない贅沢だったのだ。臨也にしてみれば、そんなものはつまらない日常のワンシーンでしかないだろう。引く手あまたでありながら、決して振り向かないとわかっているはずの静雄に手を伸ばそうとしてくる臨也を、憐れだとは思えない。蟲に同情する心など、静雄には一片たりとて備わってはいないからだ。 「平和島!」 「っ、は、い!」 突如として耳に響いた教師の声に、静雄はすべての思考を中断して素っ頓狂な声を上げた。クスクスとざわめく級友たちの笑い声に、静雄の頬は熱を持った。どうやら板書の指名をされていたらしい。返事もせずに考え事をしている生徒を叱るのは教師としては当然だが、いかんせん思春期の静雄には恥ずかしくてたまらない仕打ちだ。 上の空だった自分を棚に上げ、静雄は左斜め前のその一つ前の席に座る臨也を睨みつけた。臨也は、決して振りかえろうとはしなかった。 「一回でいい。一回だけ。お願いだ。そしたら、諦めるよ。君のこと諦めるから」 誰もいない教室で、泣き出しそうに顔を歪めた臨也がそう言った。別に同情したわけではない、どちらかといえば迷子の子供の手を引っ張ってやったような、そんな気分だった。そちらの方が同情よりも性質が悪いかもしれないと、静雄はわかっていなかった。 「シズちゃん、俺、俺ね、いっぱい勉強したんだ。練習も、したんだよ」 ガチャガチャと音を立てて静雄のベルトを外しながら、熱に浮かされたように臨也はそう呟いた。不快感を覚え、静雄は臨也の手を止めるようにして自らの手を重ねる。伝わったわずかな震えを、静雄は気付かなかったことした。 「はあ? 他の男とヤりまくってるようなやつとは、死んでもヤんねえぞ」 「違う、違うシズちゃん。そうじゃない……他なんていらない。俺はシズちゃんだけだよ」 「じゃあ、なんだよ。練習ってどういう意味?」 「……じ、自分、で、その……指、入れて……」 見る見るうちに真っ赤に染まった臨也の顔は、まるで林檎のようだった。ごくりと喉を鳴らし、静雄は少し乾いたくちびるを舐める。傲慢で不遜でいけ好かないこの男が、自分の尻の穴を自分の指で慰めていた。それも、他ならぬ自分とセックスしたいがために。これ以上に愉快なことなど、この世にはないように思えた。まだ若い静雄の世界は、それくらい狭いのだ。 「臨也」 「な、何……?」 「俺のしゃぶりながら、それやってくれんだろ?」 「……っ」 重ねたままだった臨也の手が、今度は先ほどよりもはっきりと震えた。その震えは手の甲から腕を這い上がり、くちびるまで到達する。それでも、臨也は従順に頷いた。静雄が手を離すと、臨也はすぐに静雄のベルトを外してチャックを下ろし、下着をずらして性器に舌を這わせ始めた。静雄にはこれが初めての口淫であるため他と比べようもなかったが、おそらく臨也の技巧は誉められたものではないのだろう。それでも、苦しそうに目を伏せながら口を窄めて性器を舐める臨也の顔は悪くなかった、むしろよかった。 「っは……っ」 静雄は息を荒げながら、そっと手を伸ばして少し揺れている臨也の臀部を指でつついた。その意図を理解したらしい臨也が、一瞬だけ動きを止める。だが、再度促すためにつついた静雄に応えるように、臨也はおずおずと自らの下肢に手を伸ばした。もどかしそうにベルトを外し、ズボンをくつろがせる。腰を這うように動く指を眺めながら、静雄はまたごくりと喉を鳴らしていた。 「ん…っ」 する、と臨也の白い手が布に隠れる。それと同時に、性器を咥えたままだった口の端から小さな声が零れた。 「んっ、んん…っ」 は、は、と犬のような短い息を繰り返しながら、臨也は懸命に手を動かしている。下着の中で行われているであろういやらしい行為を、静雄は見てみたくなった。男同士のセックスなど吐き気がするものだろうとさえ思っていたくせに、と、まだわずかに考えることのできる頭で自分を叱ってみても止まらない。 → |