誰かがおれを呼んでいる気がする。切ない声音だ。姿は見えない。
 大丈夫だと、おれは伝えようとする。けれどその声は音にならない。おれは今すぐにでも返事をしたいのに。
 なつめ、とおれを呼ぶ声に、たぬま、と唇を動かした。呼びかけは音になって、おれはうっすらとまぶたを開けた。おれは、眠っていたのか。

「お、目が覚めたか、夏目!」
「……たぬま」
「よかった、おはよう」
「あ。ああ。おはよう、田沼」

 目を開けると、先ほどおれを呼んでいた声の主が晴れた空を背に安堵の表情を浮かべていた。おれの視界の大部分は彼が占めていて、おれは彼の膝を枕にしていたことに気づく。
 膝枕してくれてたのか、ありがとうと言えば、どういたしましてと言われる。硬い膝でごめんなと苦笑しながら謝られたけど、寝心地よかったよと素直な感想を述べる。変なこと言うなよ、とほんのり頬を紅潮させた彼に小突かれた。
 不意に、草いきれがむあっとにおう。じめじめした暑さに、湿った草の濃厚な香り。

「雨が降ったのか?」
「ああ、通り雨がな。ここ見つけられてなきゃ今頃濡れ鼠だった」
「やれやれ、せっかく梅雨が終わったばっかなのにまた雨か」
「……そんなことより、大丈夫なのか?」
「え?」
「…………もしかして、覚えてない、のか」

 目を険しくして彼が問うけど、記憶の糸をまさぐっても眠りの直前の記憶が途切れている。
 学校が朝で終わって、おれは田沼と一緒に下校していた。いつものようにおしゃべりしていたところまでは覚えているのだが、なんでこんなところで田沼の膝枕で寝ていたのかわからない。正直にそう伝えたところ、本当に大丈夫なのかと彼の額がこつんとおれの額に当てられた。

「熱は……ないみたいだな」
「ん? おれはいたって健康体だぞ」
「本当に、覚えていないのか?」
「ああ。何があったんだ?」
「下校中に妖に追いかけられた」
「!? 大丈夫なのか、田沼!」
「だからそれはこっちの台詞だ。おれなら何ともない、おまえが守ってくれたのもあるけど、そんなにタチが悪いやつじゃなかったみたいで」
「そっか……よかった」
「おまえがおれを引っ張って走って、ここまで連れてきた。妖しか知らない場所だけどあまり知られてないから安心だってふらふらしながら妖避けの陣を書いて、書き上げた瞬間に倒れた」

 枕がないのもあれかなと思って膝枕してたけど、無茶はよしてくれと田沼は言った。すっごく、心配したんだぞ。おれのせいでまた無茶させてしまって、おまえを危ない目に遭わせたんじゃないかって。
 目をすいっと逸らしてしまった田沼をどうにかなだめないと、こういうときなんて言えばいいんだろう。

 田沼はおれが危ないことをして、そしておれが怪我したりして、距離が離れてしまうのを恐れている。
 ただでさえおれたちの関係は心理的な距離が邪魔しているのだ。おれは田沼のことをだいぶわかっていたつもりでも、そうではないということがわかってしまっている。おれは口べただし、どう言えば彼に弁解できるのかわからない。

 しばらく考えて、おれはおもむろに身体を起こした。田沼の膝枕は名残惜しかったけど、今はそれよりもこっちが大事だ。
 おれの横に置かれていた鞄の中をまさぐって紙袋を取り出し、ロマンティックなムードのときに渡すつもりだったんだけどと彼に押しつける。開けてくれ、と告げた。
 すると彼は紙袋を開けて、中身をころんと取り出した。彼の手のひらに載った小さなそれをまじまじと見て、それからすいっとおれに視線を上げた。

「――これはプロポーズだ。おれからおまえへの」
「ッ、な」
「おれはおまえが好きで、おまえを守るためならおれは何だってする。無茶だってするさ、おまえだって、おれのために無茶をするだろ」
「…………」
「比翼連理っていうだろ、おれはもうひとりじゃないって言うなら、おまえがその片翼になって、枝になってくれ。おれはもう、ひとりじゃ飛べない」
「夏目」
「受け入れてくれるなら、それを左の薬指にはめてくれ。そして、おれの指にもはめてほしい」

 …………これは脅迫にも似た懇願だ。分かっていて、おれは彼の返事を待つ。
 おれは田沼を好いていて、おれのせいで彼を妖に関わらせてしまったことを悔いている。心配なんだと大義名分を掲げて、彼をおれから離したくない。赤い糸がプロポーズの指輪に変わっただけだ。鳥なら鳥かごに、木なら柵で囲って。

「――イニシャルまで彫ってあるのか。参ったな」
「田沼?」
「……ん。ほら、つけたぞ。手ぇ出せ、夏目」
「あ、ああ」
「エンゲージリングってやつか? なんだか、照れるな」

 手早くおれの指にも指輪をはめた彼がありがとうと言う。手をつないだときの感触で選んだ指輪はジャストサイズだった。内側にイニシャルを入れた以外は何の装飾もない銀色の指輪。巳弥と会ったとこでやっているフリマで買ったものだ。

「……海、行くか」
「え?」
「ここじゃ狭い。もっと広い、海の空が見たくなった」
「海、か。行ったことないな」
「まあおれもあまりないんだけど、きれいだぞ。早速行くか」
「わっ」

 あっけなく受け入れられて拍子抜けしているうちに、田沼の手に引かれて走り出す。指に銀が当たる。
 妖に追いかけられたときみたいな全力疾走で駅に向かい、運良く電車に飛び乗った。ぜえぜえと息が上がる。

「はあ、はあ、……い、きなりかよ」
「なんだ、相変わらず体力ないな」
「田沼だってちょっと疲れてるだろ」
「否定はしない」
「しかし、なんでいきなり海なんだ? おれ、あのプロポーズけっこう勇気いったんだけど」
「もちろん嬉しかったさ。まあ日帰り婚前旅行とでも思ってくれ。ここじゃなくて、たまには遠いところに出かけたくもなるんだ。比翼連理って言うんだからつきあってくれるよな?」

 うなずいて、会話が途切れる。がたんごとんと列車の音を聞きながら揺られているうちに青い景色が遠くに広がる。ずいぶん遠くまで来たようだ。わあ、と感嘆が漏れる。
 小さな駅で降りて、列車が行ってしまうと潮のにおいがした。嗅ぎ慣れた草いきれとは全然違う。

「まだ昼過ぎだから、それなりにはゆっくりできそうだ。海に行こう」
「おう!」
「……やっと笑ったな」
「へ?」
「さっきから夏目、笑ってなかったろ。プロポーズのときのなんか必死だったぞ」
「そりゃ必死にもなるさ」
「プロポーズも嬉しかったけど、比翼連理とか難しい話はいらない。おまえが笑っててくれればいいんだ、どうせおれたちは一緒なんだろ?」
「……そう、だな」

 指輪を見せていたずらっぽく笑う田沼に、おれは気の利いたことを言えない。何も言わなくてよかったのか、おれたちは通じあっていた、のか。
 目が潤む。空高いぎらぎらと照りつけているからだ、遠目の海もきらきらと輝いて見える。太陽が眩しいと涙をごまかして、おれは彼の手を握った。

「……行こう」
「ああ」
「なんか、駆け落ちみたいだ」
「日帰りだけどな」
「海よりももっと先に行きたいさ、どこまで行けるかわかんないけど。妖がいないところがいいな、そうしたらおまえが傷つかないですむ。もしもおまえが傷ついたら、おれが身代わりになってやる」

 田沼の手を握りしめて、おれは決意を新たにする。おれが傷つくのはもう慣れているが、田沼が傷つくのは耐えられないのだ。オミバシラのときのようなことを繰り返してはならない。
 そのときのことを思い出してしまって少し泣いてしまった。田沼は眉間にしわを寄せて、無言でおれを見ていたかと思うと強く歯噛みした。彼の目元が隠れる寸前に見えたそこには涙が浮かんでいて、彼もつられて少し泣いたのだとわかってしまう。泣かせるつもりはなかったのに!

「ご、ごめん。……さ、改札出よう。婚前旅行だろ?」
「…………そうだな」
「ほら、機嫌を直してくれよお姫様」
「だ、れがお姫様だっ……!」

 おどけて彼の指輪にキスをして、おれはふふっと笑ってみせた。おれだっておまえに笑っててほしいんだ。
 田沼は毒気を抜かれた顔をして、夏目にはかなわないと呟いた。笑んでくれた彼の手を引いて、早く海に行こう。青い空と白い砂浜が待っている。



プロポーズごっこ



100524


♪BLUE BIRD/浜崎あゆみ





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