「い、ったぁ…!!」


ズキズキと痛む頭を抑えながら、のろのろと渚は体を起こした。
涙目になっている景色の先にあるのは、見慣れた自宅マンション内の光景。といってもこれはコナンの世界でなく、何年も住んだ元の世界のマンションの方だ。ようやくそれを認識して、思わず頭を抱えたくなる。

「はあ…もう、やっちゃった…」

なんてタイミングで戻ってきてしまったのか。最悪だ。
たとえ渚が元の世界に戻っても、向こうの世界では向こうで、その体は残ったままなのだ。
まだノックの疑いが晴れてないからしばらく会わない方がいいと、そう言われた直後だというのに。安室なら気絶した渚を放置しないだろうし、結局多大な迷惑をかけることになっているのではないか。

「早く向こうに、戻らなきゃ…」

けれど、どうやって。手っ取り早いのは、もういっそどこかに頭をぶつけてしまうことだが…。
渚は首を捻って、こちらの世界では今しがた落ちたばかりであろう階段に目を向けた。いっそまたここから、落ちてみるか。

「い、痛そうだなー…」

今でさえこんなに痛いのだ。世界を渡るときはいつも事故で頭をぶつけ、故意で試したことはない。果たしてそれでもうまくいくのか、やってみなければ分からないけれど。
ゆっくり階段を上りなおし、上から見下ろす。けれど落ちて頭をぶつけるとして、一体どうやればいいのだろう。はたしてどう落ちれば正解なのか。下手な転げ落ち方をして大怪我を負っては元も子もない。

「…あー!やっぱり無理無理!もうちょっと気軽な方法に切り替えよう…!」

ひとまず部屋に戻ろう。そう決めて、渚は再びのろのろと歩き出した。
ふと、自分が靴を履いていないことに今更気付いた。不思議そうにあたりを見渡せば、安室から借りたサンダルが階段下の方に転がっている。やはりサイズが大きかったのか、階段から落ちた際に脱げてしまったようだ。
はぁ、とため息を吐いて、再び階段を降りていく。サンダルを履きなおし、再び上へ。そうして渚は自分の部屋のある階まで戻り、久しぶりの家の中に戻った。


次に試そうとしたのは、壁に思いきり頭をぶつけてみることだった。
それなら手っ取り早く気絶できそうだし、それでいて変な怪我は負わなさそうだ。壁に向かって構えて、一度深呼吸。
覚悟を決めて、思いきり壁に向かって頭をぶつけた。ゴン、という激しい音がして、堪らず渚は頭を抱えてその場に蹲っていた。痛い。めちゃくちゃ痛い。

(しかもこれ、傍から見たらめっちゃ変な人…!)

一人暮らしで良かった、と今更ながら思う。

(威力、足りなかったかな…)

痛い思いをしただけで、気絶するには至らなかったようだ。もっと強くしなければ、と渚は再び壁へ向き直り、再び頭を打ちつける。やっぱりひどく痛いだけで、気を失うには程遠い。一体自分は何をやっているのか。

(でも、早く安室さんのところに戻らないといけないから…!)

三度目の正直、と思いを込めて、もう一度。今度は激しい音のあとに、隣の部屋から激しく壁を蹴ってくるような音が聞こえて慌てて飛びのいていた。

「あー、ごめんなさいごめんなさい!」

流石に煩かったらしい。そりゃそうだ、とズキズキ痛む頭を抑えながらそんなことを考えていた。

「…あー、ちょっと落ち着こう、私…」

よくよく考えてみたら、渚が早く向こうに戻るが戻るまいが、向こうで経過してる時間は変わらないのだ。
極端なことを言うなら、今すぐに気を失って戻っても、一年後に戻っても、向こうで経過している時間は階段から落ちて気絶している間だけ。
だから焦らなくても、その内また戻れるだろう。そう考えてため息を吐いた。

「ひとまず、お風呂入ろ…」

なんだかどっと疲れてしまった。そういえば元々安室の家から帰ってお風呂に入りたいと思ってたことだし、ちょうどいいだろう。のろのろと立ち上がり、浴槽にお湯を溜めに風呂場へ向かう。
待っている間、ベッドに転がって漫画を読む。こっちの世界に戻ってきたのも久々だから、こちらにいる間くらいは楽しんだっていいだろう。
だというのに無意識に伸びた手は名探偵コナンの単行本へ。パラパラとページをめくり、紙面上の安室を見ながら枕に顔を突っ伏し、足をバタバタとさせる。

(あー、やっぱり安室さんかっこいい…!)

こちらの世界に戻ってくると、どうにも感情までミーハーめいたものに戻ってしまう。だというのに、ふとその唇で視線が止まってしまい、それからじわじわと頬の熱が増していった。


(…私、安室さんに、きき、キ、キス、されたんだよなぁ…)


それだけでなく自ら強請るとか。思い出すだけで顔から火が出そうだ。
あの時安室の怪我にさえ触れなければ、もしかしたらその先まで――
う、とか、あ、とか。言葉にならない声で唸って、再び渚は枕に顔ごと突っ伏した。

そっと自らの唇に指を這わせる。
あの熱が、あの腕の力強さが。まだ自分の身にしっかりと感触として残っている。

(…お、思い出すと、恥ずかしくて…)

ひとしきり足をばたつかせたりベッドを転がった後、ぐったりと力尽きた渚は、「何やってんの私…」と小さく呟いていた。
その時ようやくお風呂の湯が溜まり、のろのろとベッドから降りて着替えを手に風呂場へと向かう。
だが服を脱ごうとして自分の格好を見下ろしたときに、ようやく感じた違和感に渚は怪訝そうに眉を寄せていた。

「…あれ?この服…同じ…?」

向こうの世界で着ていた服と同じ、ではないだろうか。
どういう原理かは知らないが、どちらの世界にも自分という人間は存在しているらしい。まるで意識だけがあちらとこちらを行き来しているように、渚が世界を渡っている間も反対の世界では気を失った自分が存在する――いつもならそのはずだった。
だからいつもなら今の自分の格好は、こちらの世界で最後に過ごしていたときのままのはずだ。
けれどあれから時間も経ったことだし、当時どんな格好をしていたか覚えてない。もしかしてたまたま似たような服を着ていただけなのか。
なんとなく燻る感覚を抱えながらも、渚は服を脱いだ。そして目の前の鏡にふと視線を向けて――そこに映っていたものに、次の瞬間目を見開いていた。


「…なん、で」


震える指が、首元で光る石に触れる。
鏡に映るそれは――たしかに指に触れるそれは。以前安室から貰ったネックレスだ。
この世界にあるはずが、ない。それが示す意味は、はたして。


「……っ!!」


気がつけば脱いだ服を再び着て、部屋を飛び出していた。
飛び出してどこに行けばいいのか分からない。だが出ずにはいられなかった。この世界は本当に元の世界なのか。向こうの世界ではないのか。どこかで繋がっているのではないか――そんな不安抱えたまま、渚は階段を駆け下りていた。


「…う、わっ!」


けれど急いだせいか、震える足のせいか。着地しようとした足は位置を誤り、階段を踏み外してしまう。
バランス崩れる景色を前に、けれどこれでまた向こうの世界にいけると――そんな安心感さえ抱いていた。

なのに、次に目覚めたとき、目の前の光景は何も変わっていなかった。
ただ打ち付けて強く痛む頭を抑えながら、渚は無言で身を起こす。震える手は何かに縋りたくて、ぎゅっと首元のネックレスを掴んだが、それは逆効果にしかならなかった。
いつもなら、頭を打って気絶した直後、世界を渡っていたはずなのに。
その現象が起きないのは、つまり、そういうことなのだろう。


「…あ、むろ、さん」


どうしてその名を呼んでしまったのだろう。じわじわと滲んでいく景色を前に、蹲ったまま立ち上がることもできない。
そっとネックレスの宝石に目を向けた。渚の想いとは裏腹に、皮肉にもそれだけは変わらぬ輝きを湛えていて。
けれどもうこれと同じ色持つあの瞳には会えないのかと思うと、ただ息が詰まりそうなほどに苦しくなるのだ。

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