「どうしたボウヤ、随分疲れた顔をしているようだが」 「あれにずっと付き合わされてたら、疲れもするよ…」 コナンの実家でもあり、今は沖矢が居候をしている工藤邸のリビングにて。 向かい合わせにソファに座る少年の表情がふと気になってそんなことを尋ねてみれば、いかにもげっそり、という表情を隠さないまま、コナンはため息を零しながら答えていた。 痛む額を手で抑えるように。その上あからさまなしかめっ面は、とても小学一年生がする表情には思えない。見た目とのアンバランスさに、沖矢はただ苦笑するように肩を竦めている。 「渚さんが見慣れないネックレスつけてたから、それ安室さんに貰ったの?ってなんとなく聞いたら…」 「ホォー」 「それからずっと話に付き合わされて。最初は普通だったのに、最後の方は完全にただの惚気話だったよ…」 こちとら好きな幼馴染の傍で正体を隠しながら、ロンドンでの告白の返事すらまだ貰えないまま過ごしてるというのに。そんな話を聞かされるこっちの身にもなってほしい。 当然、向こうはそんな事情など知る由もないとコナンは思っているから、彼女本人にそんなことを言えるはずもないのだが。 「それは災難だったな」 対する沖矢は、用意したコーヒーに口をつけながらどこか笑いを含んだかのような声で。 そういえば先日、似たような件に自分も巻き込まれたが、酒を飲んでスルーしていたのであまり気には留めていなかった。 そんな沖矢の様子に、他人事だと思って、とコナンはじとっと睨みつけたが、当然そんなものに堪える彼ではない。先ほどと同じように肩を竦められただけで流されてしまう。コナンはもう一度重くため息を漏らし、自分もコーヒーカップにのろのろと手を伸ばした。 「…それにしても、彼女は心底安室君に惚れ込んでるようだな」 不意に声色が変わったようにも思えて、コナンは再び沖矢の方へと視線を戻した。 顎の辺りに手を置きながら、いつもはダークグリーンの瞳を隠すように細められた目が、今は僅かに開眼している。だがその眼光は鋭く、それこそ彼本来の目つきだった。 「あれから何度か彼女とは顔を合わせているが、少なくとも彼女が安室君に寄せる信頼感は本物のようだ。迷いは感じられない」 「…そうだね。それに安室さんが渚さんに向ける態度も、かな」 以前は確かに怪しいと感じ、巧妙に近づいては彼女を探ろうとしている気配が安室にはあった。 けれどいつしか距離感を掴みかねているような曖昧なものに変わり、お互いの間にはぎこちなささえあったりして、思わずそれを心配していればまたいつの間にか関係が変わったかのように。今では甘い雰囲気に当てられる日々だ。 きっかけは渚が二度目の通り魔に襲われた後、だったか。二人の間で何があったのかまでは、コナンには分からないけれど。 「この前昴さんが渚さんを家に連れ込んだとかで、二人が付き合ってるんじゃないかって勘違いされて安室さんすごい不機嫌になってたよ」という話をすれば、沖矢は「それは彼に悪い事をした」と言葉とは裏腹に悪びれた風もなく笑っている。 「安室君も人の子だったというわけだな」 「昴さんは安室さんを何だと思ってるの…」 どこか呆れたようなコナンの視線に、沖矢はふ、と笑うだけに留めて。 安室は今、組織に潜入捜査中の身だ。危険な立場であることは重々承知しているだろう。 その分別もあり、堂々と恋人を名乗ることだけは避けているようだが、それでも彼が想いを寄せる女性がいるというだけでも意外なことだと沖矢を驚かせるには十分だった。 「あの安室君の心を奪う彼女は、はたして何者なんだろうな」 初めはこの少年が気にしていた女性。何かしら謎を抱えている気がする、と言われて猜疑心を持ったのがきっかけ。 そして安室が傍に置いているという女性に、沖矢はますます興味を抱いた。 顔を合わせてみれば確かにただの一般人。特別な空気をまとっているわけでもない。けれどその口から零れる言葉の端々に、確かに何かを“知っている”と錯覚する何かを感じずにはいられない。 そうして何度か近づいてみれば、徐々に彼女に抱く思いが強くなるのを沖矢は感じていた。 とはいえそれは決して恋慕の念などではない。あえて言うなら、好奇心、が近い表現か。 沖矢は手元のカップにじっと視線を落とした。カップの中では濃褐色の液体が僅かに揺れている。 コーヒーの落ち着いた香りが、鼻腔をくすぐるように漂っていた。 「彼女は、俺の正体に勘付いている気がする」 ぽつりと呟かれた言葉に、目の前のコナンが驚愕に目を見開いた。 それは当然、だろう。一度は安室にあわやというところまで追い詰められ、けれど少年や少年の家族の手を借りてまでようやく退けたそれを。そこまでしてようやく安室の目を欺けたほどだというのに、それをまさか、彼女が掴んでいるはずがない。 確信ではない。けれど沖矢の第六感がそうであると叫んでいる。 「それは…でも、まさか」 「ボウヤの言いたい事は分かる。それに…その割には彼からの接触がないことも気に掛かるしな」 安室を信頼してると告げた渚の瞳は強く。その様子からするに、もし本当に渚が沖矢の正体に気付いているなら、同時にそれは安室の耳にも伝わっているにも等しくて。 それともやはり、彼女がそのことに気付いているという沖矢の推測自体が誤りなのか。 (…いや、普通に考えれば、安室君が彼女にそう話していると考えるほうが妥当だろうに) だがそれはそれで考えにくい。じっと思案した後、沖矢はゆるゆると首を振った。やはりこれだけの材料で推理しても、埒が明かない。 かしゃん、とカップをソーサーに置いた音がやけに煩く響くようだった。 カップから離れた指は、そのまま首元へと導かれる。ピ、と何かのスイッチを押したような機械音が続けて鳴った。 「――やはりもう少し深く、踏み込んでみるか」 沖矢とは違う声が、静かなリビングに響き渡った。 突然切り替わった声に、けれどコナンは驚く様子を見せるでもなく。ただ眉を寄せて、心配そうに声の主を見つめている。 「それは…でも、危険じゃない?赤井さん」 「虎穴に入らずんば虎児を得ず…ということだ」 憶測でしかないことに対してこちらから敢えて深く踏み込んでいくのは、危険極まりないと自覚している。 それでも赤井は、彼女相手なら大丈夫という確信めいたものさえ感じていた。 「あとこれは俺の直感だが、彼女は俺の正体を知っても安室君には明かさない気がする」 その証拠こそ、彼女の態度の割には安室が再び接触してくる気配がないこと、だとしたら。 だが力強い赤井の声色とは逆に、コナンは戸惑いの表情を隠せない。 「…気がする、っていうのは、あくまで赤井さんの感覚でしょ?」 けれどコナン自身、探偵の嗅覚というものに頼ることもままある。赤井がこれまでに潜り抜けてきた修羅場は、それこそコナンの比ではないはずだ。だからこそ赤井の嗅覚も直感も、論理的でないとばっさり切り捨てる気にもなれない。 「でも、なんで赤井さんはそこまで渚さんに固執するの?今のまま離れたところで様子を見るままでも、いいんじゃない?」 「…そうだな。彼女は、そう、貴重な“飲み仲間”だからな」 安室のことがあるにせよないにせよ、渚自身好ましい人物であることに、赤井は疑問を持っていない。 そして己を飲み友達と称し、笑った彼女。あの笑顔が陰るのを見るのは避けたいところだ。 彼女が安室の元でずっと笑っていられるというのなら、もちろん構わない。けれどその背後にある組織の影がそれを脅かすようなら。それを防ぐには彼女が何を、どこまで知っているのか、把握する必要もある。 またコナンの戸惑うような視線を感じて、赤井は同じように視線を返した。「えっと…」と少年にしては歯切れの悪い様子に、赤井は不思議そうに首を傾げた。 「…ちょっと、気になったんだけど。…まさか赤井さんって、渚さんのこと…好き、なの?」 「…そんな風に感じたことはないな」 まさかそんな風に思われていたなんて、と驚いたように返せば、あからさまにコナンはほっとしたように息を吐いている。 恋愛感情を抱いたつもりはない。あくまで彼女に対して持つのは友情、それだけだ。 「いや…それなら良かった。そんな所で安室さんと更に仲違いとか、面倒なこと勘弁してほしかったから」 「俺も安室君をこれ以上敵に回したくはないな」 ただでさえ安室には憎まれ、嫌われているというのに。それをこれ以上濃くする必要はあるまい。 いや、たとえ友情で彼女に接したところで、話に聞く安室の様子では敵意は強まるのだろうなと思いながら、赤井はその様子を思い浮かべやれやれと肩を竦めた。 |