まずい、と思ったときには足を踏み外していた。

咄嗟に階段の手すりを掴もうとしたが、僅かに距離が遠かった。手は代わりに宙を掴み、体はふわりと浮遊感を覚える。
だが踏み外したのは、大した段数のところからではない。体を打ち付ける程度なら、頭さえ打ち付けなければなんとかなるはず。微かにあった冷静な部分がそう判断を下した。
地面に手をつけば、うまいこと回避できるかもしれない。そう思って下を見据えれば、真下にいた人物と目があった。


「――大丈夫、ですか?」
「す、みません…助かり、ました」


思い切り体ごと激突した事には謝罪の言葉を述べつつも、受け止めてくれたことに感謝の意も告げて。
階段の上の方からは、「お姉さん、すみませーん!」と謝るつもりがあるのかないのか、軽い言葉が投げかけられてくる。
(ごめんで済んだら警察はいらない!)と、思わず渚にぶつかってきた人物を睨みつけたが、よほど急いでいたらしく、そのまま駆けていってしまったようだ。
しかし警察がいらないなんて、口が裂けてもそんなこと安室には言えないな、なんてことをふと考える。
――そういえば、目の前のこの男も警察の部類に属する人間か。


「怪我はありませんか?」
「大丈夫、です。ありがとうございました……沖矢さん」


渚の礼に対して、いえいえ、と彼――沖矢は静かに笑みを浮かべている。
それは先日知り合ったばかりの青年だ。尤も、渚は彼のことを一方的によく知っているのだが。
更に言えば、向こうは向こうでこちらのことを顔見知りだといってはいたが、それは明らかに嘘だということは分かっているので、どうにも警戒心を抱いてしまう。
ただ今助けてくれた事には、単純に礼を述べて。

「ですがぶつかったあちらも悪いですが、余所見をしていたあなたにも同様に非はありますよ。過失の割合は50:50ですからね」
「す、すみません…以後、気をつけます…」

ぼうっと歩いていたその原因が、まさか今週号の漫画の展開に思いを馳せていたからだなんて、正直に言えるはずもなく。
渚は視線を泳がせながらも、沖矢の言葉に反省するように頷いた。

「…あの…ところで、そろそろ離してもらっても…?」

それにしても、この体勢は。
階段から落ちて転びそうになったところを、沖矢に抱きとめてもらったまでは良かった。良かったが…如何せん、距離が近い。
途切れ途切れに言えば、初めはきょとんとしていた沖矢だったが僅かに笑って「…ああ、失礼しました」とようやく解放してくれた。ほっと胸を撫で下ろす。


「――い、だっ!!!」


沖矢に離してもらって、しっかりと立とうと足を地面につけた直後。右足に強い痛みが走って、思わずその場に蹲ってしまった。
どうやら足を変な風に痛めてしまったらしい。せっかく抱きとめてもらったのに、なんだか沖矢に申し訳ない。

「足を捻ったようですね」
「だ、いじょうぶです…片足だけですし…なんとか引きずって歩くんで…」
「無茶をしないほうがいいですよ。…ここからならちょうど私が住んでる家が近いので、手当てしますよ」
「い、いや、それは遠慮……いだっ!」
「これでもまだ、そう言いますか?」

捻った足を見ようと思ってくれたようだが、触れられただけでまた鋭い痛みが走り、まさに濁音をつけたような悲鳴をあげてしまう。
女性らしからぬ、とかは知らない。可愛らしい悲鳴でこの痛みが消えるものならいくらでも努力するが、そうでないなら無駄というもの。
観念して沖矢の提案を受け入れたところで、「失礼」という断りと共に、再び体に感じる浮遊感。横抱きで持ち上げられたのだと気付いて、頭の中が真っ白に染まっていく。

「ちょ…っ、沖矢さん!無理無理!私!重いですから!」
「危ないので暴れないでくれませんか?落としても知りませんよ」
「す、すみません」

おかしい、そこは「大丈夫、軽いですよ」と答えるところではないのか。どうも少女漫画に毒されている気がする。現実と理想とはかくも異なるものなのか。
しかし、それにしても。

(安室さんにもされたことないのに…!)

実のところは、以前渚が熱に魘され意識が朦朧としていたときに、安室に同じように運ばれたことがあるのだが、当時意識のなかった渚はそれを知ることもなく。
このセリフ、自分で言ってて何だけどなんか覚えがあるわ…安室さんなだけに…なんて現実逃避をすることで、今の現状をやり過ごそうと渚は今必死だった。
せめて、知り合いにだけはこの姿を見られませんように。



   ***



「…これでいいでしょう」
「すみません、迷惑かけまして…」


あの後、沖矢が今居候している工藤邸に連れて来られ、ソファに座らされた渚は沖矢の手当てを受けていた。
流石と言うべきか、慣れた手つきで足首にテーピングを施していく。
あっという間に処置は終わり、「念のため、後でちゃんと病院には行ってくださいね」という彼の言葉には素直に頷いておく。

「足を捻った程度で良かったですよ。転倒でもしていたら、大変なことになってたかもしれません」

沖矢の言葉に一瞬ドキリとしつつ、なんとかその焦りを表には出さないようにする。
おそらく、深い意味はないだろう。ただ単純に渚を心配しての言葉のはずだ。状況からして、そう捉えて何の不思議もない。
それ自体は渚も思っていたこと。けれど彼女の場合は、少し事情が異なった。


(まさかこの世界と向こうの世界を行き来する方法が、頭をぶつけて意識を失うこと、なんて)


原理はさっぱり分からない。
ただ、何度か経験したところ、それが渚の導き出した答えだった。
初めてこの世界へ来たときは、通り魔に襲われ頭を殴られ。そして元の世界へ戻ったときも同じように。再びこの世界へ来たときは、サッカーボールに当たって。
どれもこれも全て。頭をぶつけて意識を失った直後に、互いの世界で目が覚めたのは共通している。
しかも世界を渡ってる間は、逆の世界では意識を失ってる分くらいしか時間が経過していないようだ。これも何度か経験して感じたことである。
そして気付いた点が、もう一つ。

(往復のタイミングは、必ず同じパターンで頭ぶつけてるのよね…)

ちなみに前のサッカーボールの際は、よりによってコナンが蹴り飛ばしたボールが運悪く渚の方に飛んできて、転倒して頭を打ったのがまた元の世界に戻るきっかけとなった。
あれをもっと凄まじい威力で受けている歴代犯人達に、正直同情してしまった瞬間だった。

そして今回またこちらに戻ってきたきっかけは、まさに階段から落ちて頭を打ったためである。

(私、何度も頭打って、そろそろ脳細胞死滅するんじゃないか…)

あくまでこれは仮説に過ぎないが、そのことを安室に話したところ、階段を歩くときは必ず手を繋いでくれるようになった。繋がった手の感触には喜びつつも、完全に子ども扱いのようでなんだか情けなくもある。
ともかく、あわや階段から落ちかけたところを沖矢に助けてもらったのは本当に助かった。改めて渚は深々とお辞儀をする。


「沖矢さん、本当にありがとうございました」
「いえいえ、大したことでもありませんから」
「いやでもここまで運んでもらって…重かったでしょうに…」
「そんなことないですよ。十分軽かったです」

あれ、おかしいな。タイミングが随分ずれただけで全く照れる気分も何もなくなり、むしろ胡散臭さが増したようにさえ感じる。

「で、でも沖矢さん、流石、体格もいいし力もあるんですね」

話題に困り、特に深い意味もなくそんな言葉を投げかければ、思案するように顎の辺りに指をやった沖矢がポツリと声を漏らした。


「流石…ですか。意外と、と言われたことはありますが、『流石』と言われたのは初めてですね」


ひく、と頬が引きつったような気がした。
たしかに、沖矢昴は表向き大学院生であって、見たところインテリキャラとしての印象の方が強い。もちろんそんな人物が体格が良くて力もあっても構わないのだが、流石と評するよりは、彼の言う通り「意外と」と表現するほうがしっくりくるだろう。
それを無意識に「流石」と表現してしてしまったのは、偏に彼の本来の姿を知っているから。
はたしてそれを勘付かれやしなかっただろうかという焦燥が、渚の胸を駆け巡る。
だが沖矢がそれ以上踏み込んでくる気配はなかった。戸惑いがちに視線を泳がせれば、棚にバーボンのボトルがいくつも並んでいるのが目に入り、ふとそこに視線を留めた。

(ワイルドターキー、メーカーズマーク、フォアローゼズ、ブラントン、オールドエズラ…色々あるなぁ)

流石、ウィスキー党にしてバーボン一筋というだけある。色々な銘柄のボトルは、見てるだけで楽しい。そう、渚もバーボンは好きなのだ。
そしてそんな渚に目ざとく沖矢は気付いたようだ。

「バーボン、もしかして渚さんもお好きなんですか?」
「好きですよ!ウィスキーの中では一番好きかも」
「そうでしたか、実は私もそうでして。良かったら今度、一緒に飲みませんか?たくさんありますので」
「え…いや、でもそれは」

沖矢と一緒に酒を飲むなど、そんな無謀な真似をするなど。
返答に渋っていれば、何かに気付いたように沖矢は肩を竦めて。

「…ああ、そうでしたね。渚さんには恋人がいらっしゃるんでしたよね。さすがに他の男の家で一緒に、というわけにもいきませんか」
「い、いえ、別に恋人ってわけじゃ…」
「そうなんですか?」

少し意外そうな表情を浮かべて、沖矢は素っ頓狂な声をあげた。おそらく彼のこんな様子は、珍しい。

「蘭さん達やコナン君達から話を聞いてる限り、二人は良い仲なのだと思ってたのですが」
「恋人では…ないですけど。でもこの世界で一番、誰よりも信頼してる人…ではあります」

そう言って、照れくさそうに頬をかきながら、視線を床へ。けれどその口元は笑みを隠しきれないように、弧を描いている。
その様子をじっと観察するような沖矢の視線に、渚は気付かない。

「…そうだ。お茶の一杯も出さず、すみませんでした。何か淹れてきますね」
「え、いえ、そんな、お構いなく!手当てもしてもらったことですし、私はそろそろお暇しますから…!」
「その足じゃ歩くのも難しいでしょうから、車で送りますよ。けれどその前に、お茶くらいいいでしょう?お酒の方は断られたんですから」

コーヒーで構いませんか、という問いかけをした割には渚の返答を聞くこともなく、沖矢はコーヒーを入れるためリビングを後にした。
断りを入れる相手がいなくなったことで、後に残された渚にはため息を零すことくらいしかできそうにない。
たしかに、今の状態では歩くのは困難だろうから、彼の言葉に甘えて車で送って貰う方がよさそうだ。けれどそのためには、彼の出すコーヒーを貰うというミッションをクリアしないといけないわけで。

(…妙な探りを入れるような会話を、されませんように)

全ては階段での自分の不注意が招いた事態とはいえ。まだまだ気を抜けそうにないと、思わず頭を抱えたくなった。


   ***


その頃沖矢は、コーヒーを淹れながら先ほどの渚との会話を思い返していた。

階段のところで見かけたのは偶然。何かを思案していたらしい彼女がすれ違った人とぶつかり、階段から足を踏み外し、落ちてきたのもまた偶然。
彼女の動向を探るためなら助けず、結果を見るほうが適切だったかもしれないが、咄嗟に体が動いてしまったのは、無意識下で彼女を一般人だと信じているからだろう。怪我でも負われてはたまったものではない。
だが幸か不幸か、足を捻ったらしい彼女を手当てと称して接する時間を延ばすことには成功した。
決して深く探るつもりはなかったのだが、言葉の端々にその謎を深める要素が絡んでいて、だからこそ彼女の存在を無視する事はできそうにない。

沖矢の体格や力の強さを「流石」と評したことも。
また名前を出したわけではないのに、「二人は良い仲」と言ったとき、何の疑問も持たずにその相手が彼であると当てはめた点も。

(彼女は、安室君と“沖矢昴”が顔見知りであることを知っているのだろうか)

あのプライドの塊のような男が。勝負としては敗北の形となった安室が、一度きりの邂逅について彼女に話すとは考えにくい。男なら惚れた女性に情けないところを明かしたくないだろうに。

彼のことを、世界で一番信頼してるとはっきり告げた彼女。それまでこちらを警戒するようにおどおどとしていた彼女の、強いまでに晴れやかな声。それは、その信頼感が本物ということだ。
はたしてそれは、彼の正体を知った上での信頼感なのか。
そうでないとしたら、その正体を知ればその信頼感は揺らいでしまうのか。

「…憶測だけで推理しても、埒が明かんか」

渚が何かしらの謎を抱えていることは確か。けれどそれを暴くのは、今は重要ではない。
コーヒーの入ったカップを二つ持って、彼は元の“沖矢昴”の表情に切り替え、再びリビングへと戻っていった。

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