(あ、コナン君だ) 少年を見かけたのは、偶然だった。 帰り道、誰かを待つように佇む彼の姿を見つけた。ランドセルを背負ってる姿からして学校帰り。それにしては少し遅い時間帯だが、彼はその見た目と違い真実小学生、というわけでもないし、まぁ特別気にかけることでもないだろう。 それにたとえ不審者に狙われたところで、キック力増強シューズや腕時計型麻酔銃で撃退する図しか思い浮かばない。心配するだけ損というもの。 それよりはコナンをこの辺りで見かけることの方が不可解だった。彼が住まう毛利探偵事務所へ行くのはこの方角ではない。無論これからそちらへ帰る可能性もあるが――他に考えられるのは、目的地は彼の実家である工藤邸、もしくはその隣人である阿笠博士の家か。 (それにしては、移動しないで立ってるだけなのは気になるけど…って、考えても分かるわけないか) 不意にちょっとした悪戯心が湧き上がった。 幸いまだコナンはこちらには気付いていないようだ。僅かにこちらに背を向けている形の彼に、気付かれないようにゆっくりと近づいていく。 「…わっ!」 脅かそうと思ったのに、それより先に彼が勢いよく振り向いて。 驚きの声をあげたのは渚の方だった。こちらを向いた瞬間鋭かった視線は、その正体が渚と分かった途端、間抜けたようにぱちぱちと何度か瞬きを繰り返している。 「…渚さん?」 「び…っくりしたぁ…急に振り向かないでよ、コナン君!」 「それはこっちのセリフだよ!足音を消して近づいてくる人の気配がしたから、ボク、怪しい人かと思ったよ」 笑って誤魔化してはいるが、背中に隠した両手の存在に渚は気付いていた。麻酔銃を発動させようとしていたその動きも、しっかりと。 不審者に襲われてもコナンなら問題ないだろうと思っていたが、まさか自分がその不審者に間違われるとか。たしかに悪いのは怪しい動きをしていた渚かもしれないが、納得はいかない。 「そ、それより、こんな時間まで外をうろついてたら危ないでしょ!子どもは帰る時間だよ?」 バツが悪くて、思わず先ほど考えていた事と真逆に注意すれば、「はぁーい!」と言葉だけは素直な返事が返ってくる。 だがなんとなくふてぶてしく感じるのは、少年の本性を知っているからか。穿った風に捉えすぎかもしれない。 「渚さんこそ、一人で大丈夫?前に二度も通り魔に襲われたっていうのに…今日は安室さんに送ってもらわないの?」 「べ、別にまだそんな遅い時間じゃないし、人通りの多い道歩いてるし…それに安室さんにだって毎日送ってもらってるわけじゃないよ?」 「…ボク、家まで送っていこうか?」 これから博士の家に向かう予定だったから、途中まで方向は同じだからというコナンの提案に。 一瞬頷きかけて、必死にそれを堪えた。いくら中身が男子高校生とはいえ、まさかの小学生に心配され、その上そんな気遣いまでされるとは。 「…いやいや、おかしいでしょ。いくら頼りになるからって、まさか小学生のコナン君にそんなことさせるわけにはいかないでしょ…!」 「ボクだけじゃなくて、大人の人も一緒だから大丈夫だよ!」 「え、そうなの?コナン君、一人かと思ってたけど…」 「うん。ちょっと用があるみたいで少し席を外してるけど、多分もうすぐ戻って…」 「コナン君、お待たせしました……おや?」 不意に聞こえた、その声に。 コナンが反応するより先に、思わず振り返ってしまった。薄めの茶髪と、穏やかそうな顔立ちに眼鏡をかけた背の高い青年。その目は細められていて、だからその奥に隠されたダークグリーンを窺い知ることはできない。 見えないのに何故、その瞳の色を知っているのか。 「あ、昴さん!」 「(ですよねー!)」 思わず自分のしてしまった反応に、ひくりと頬が引きつりそうになった。 思えば安室との初対面も同じだった。コナンと二人でいたところを、声をかけられ。咄嗟に反応してしまった。あれがそもそも怪しまれたきっかけだったかもしれないのに、どうしてこうも学習しないのか。 (ようやく安室さんが落ち着いたと思ったのに、今度は赤井さんに疑われるとかだけは勘弁してほしい…!) 目の前のこの青年の正体が、FBI捜査官の赤井秀一であると。 それに気付いていることを、彼らに悟られるわけにはいかない。 「そちらの女性は…」 「あ…そっか。二人とも初対面だったよね。紹介するね!渚さん、この人は沖矢昴さん!今新一兄ちゃんの家に居候してる大学院生だよ」 「は、初めまして…」 動揺を表に出さないよう努めながら。渚は会釈する事で、その表情を二人から隠した。 「それで昴さん、この人は――」 「知ってますよ。たしか渚さん、でしょう?お久しぶりですね」 「…え?」 だと、いうのに。あまりに想定外の言葉に、動揺するより先に、怪訝そうな表情を沖矢に向けてしまう。 彼の表情は変わらず、伏せられた瞳からはその真意を読み取ることができない。 確かに彼とは初対面、のはずだが。作った彼の方であれ、真実の彼であれ。そうでなかったら、渚が覚えていないはずがない。 「覚えていませんか?たしか2,3年前に一度、ちらっとお会いしたことがあるんですが…」 ――そんなはずは、ない。 唾を嚥下する音がやけにうるさく聞こえた。彼の言っていることは間違いなく偽りだと、確信を持って言える。 2,3年前に渚と沖矢が会っていることなど、物理的にありえない。彼女がこの世界にやってきてからまだ1年も経っていないのだから。 そして彼もまだ、その頃にはまだ用意されていない存在なのだから。 明らかに偽りであるその言葉は、どのような意をもってして放たれたものなのか。 「す、みません…覚えて、なくて…」 「…仕方ないよ!昴さん、実は渚さんは前に事件に遭って、そのときのショックで記憶を失くしてて…」 「そうだったんですか。それは、知らなかったとはいえ不躾なことを言いました」 「いえ…」 笑顔をうまく取り繕えただろうか。けれど凄まじいまでの洞察力を兼ね揃えた男を二人も前にして、これ以上誤魔化すのは難しい。 渚にできることは、逃げるようにこの場から立ち去ることだけ。 「あ…こんなところで立ち話させちゃって、すみません。私は帰ります、ね」 「渚さん、送っていかなくて大丈夫?」 「大丈夫!一人で帰れるから…」 というより、これ以上彼らと共にいる方が居た堪れないという話なのだが。 まるで逃げ出すように軽く挨拶をしてそそくさと去っていく渚の背を、ダークグリーンの双眸が見送っていた。 「…随分思いきった行動に出たね」 「浅く踏み込むだけでは、期待する成果は得られないだろうと思ってな」 その背中が完全に見えなくなったのを確認してから。不意に、双方の口調が色を変えた。 先ほどまで渚に見せていた穏やかな表情はどこへやら。今では鋭い眼光が互いを向き合っている。 「あの質問は、渚さんの記憶喪失が本当かどうか確かめたかったから?」 「流石だな、ボウヤ」 ふ、とその口元が緩む。同じようにして、コナンも不敵な笑みを浮かべた。双方の目に宿るは、お互いへの信頼感といったところか。 声のトーンは落としたまま、二人は工藤邸への道を歩き始めた。 「…昴さんは彼女のこと、どう思う?」 「特に危うげな感じもしない、ただの一般人には見えるな」 「うん…ボクもそう思う。確かに何かを知ってそうな、謎を抱えてそうな雰囲気もあるにはあるんだけどね。その辺を以前は安室さんも怪しんでたみたいなんだけど、最近はそうでもなさそうかな…」 「ホォー…安室君が、か」 「それが何も知らない本当にただの一般人と判断したからか、自分の味方と判断したからなのかは分からないけど」 「彼の味方がこちらの味方とは限らない、というわけだな」 むしろ赤井をあれほどまでに憎んでいる安室だ。その彼の味方だとしたら、赤井には不利に働くこととて考えられる。 彼の目にはおどおどと気弱な雰囲気さえあるような、普通の女性にしか映らなかった。せいぜい気になった彼女の仕草と言えば、二つだけ。 一つはこちらを視界に捉えたときに一瞬だけ開かれた眼。気になるといえば気になるし、考えすぎといえば考えすぎだ。以前会ったことがあるという嘘に見せた戸惑いは、それが嘘と気付いている可能性も、本当に記憶がない可能性も、両方考えられる。 とはいえそれをあからさまに表情に出しているくらいだ。あまり嘘は吐けない性分なのだろう。 そしてもう一つ。これもまた、気にしすぎといわれればそれまでかもしれない。 「――彼女は時折、俺の首元に視線を向けていたな」 無意識に首の辺りに動いた指が、ハイネックの下の無機質な感触に触れる。 沖矢の言葉に、コナンは驚いたように目を見開いていた。それはすなわち、そこに隠された存在に気付いていたということではないか。 だがそうとも言えない。沖矢は静かに首を振るだけに留めた。 「面と向かって話す時、じっと目を見ることを苦手とする人間も多いからな…そういう場合は首のあたりに視線を置くことが多い。…たまたまかもしれん」 「…でも可能性はゼロじゃない、ってことだね」 「…そうだな。確信するにはまだ材料が足りない、か」 彼女の抱える謎については推測の域を出ない。だが。 「ボウヤから話を聞いただけで、実際付き合いのない俺には判断つかないが。…ただボウヤも安室君も彼女に害がないと感じたのなら、その目を信じよう」 少しほっとしたようにコナンは息を吐いた後、「…うん」と小さくそれに頷いた。 不思議な女性がいると、沖矢に告げてから。彼の興味が渚に向いてしまっていたことに、コナンは少し後悔もしていた。 不思議といっても、最初の頃に比べて彼女を怪しい人物と疑うような思いはほとんどなくなっていた。渚から距離を保とうとしている哀でさえ、少なくとも組織の気配は感じ取っていないようだ。 危うい感じはない。ただ、得も言われぬ謎に包まれているだけ。 謎を追求したくなるのは探偵の性、としても。彼女を疑おうとすると、どうにも罪悪感を覚えずにはいられないのだ。 だから沖矢が渚を害のない人物だと言ってくれたのは、コナンにとっても安心できることだった。 とは言え、気にかける心配はもう一つ、ある。それはコナンだけでなく、沖矢も同様であったらしい。 「だが安室君が傍に置いているということは、組織の目につくこともあるかもしれん。彼女が本当にただの一般人ならば、いざというとき果たして彼女は耐えられるのか」 彼女が何を知り、何を抱えているかは定かではない。だが本当に危惧すべきは、むしろそのこと。 渚の身が危険に曝されるだけでなく、そこから安室や周りの人間にまで危険が及ぶ可能性とて、それこそゼロとは言い切れないのだ。 それほどに危険な組織を、相手にしている。 「当然、安室君も分かってはいるんだろうが――」 ふと振り返り、先ほど渚が消えていった方角にじっと目を凝らした。 とっくのとうに、彼女の姿は見えなくなっている。そうと分かってはいても、なお。 「…念のため、今後も彼女には注意を払っておいたほうがいいだろうな」 疑うとか、怪しむとか、そういうことはないにしろ。 その存在自体が危ういものであることに、変わりはないのだから。 |