「――夢、見てるのかな」


気付いたら真っ白な空間の中に、ずっと願ってた姿を見つけた。
ここがどこかとか、どうしてとか。そんなことを思うより先に、その姿を見てしまったものだから。咄嗟によぎったのは、これが夢だという思い。
けれど元の世界に戻ってからこれまで一度も、夢に彼が出てくることはなかったから。ようやく、といった思いと共に表情を緩めれば、夢の中の彼は驚いたようにこちらをじっと見つめている。

「――安室さん」

名を、呼べば。
同じようにその唇が、渚の名を紡ぐように動いたようだが、しかし震える吐息が漏れるだけでそれは音として聞こえてくることはなく。
だからこれはやっぱり夢なのだと、少し淋しい感覚に襲われる。

「どうせなら声、聞きたかったな」

けれど、それでも。

「でもこうしてまた会えただけでも…姿見れただけでも嬉しいや」
「そんなに僕に会えたのが嬉しかったんです?」

声を聞きたかったと願えば、思った通りにそれは実現し。
だからやはりこれは都合のいい夢なのだと、なんだかおかしさがこみ上げてきて、つい隠しきれずにクスクスと笑い声が漏れてしまう。

「そう。安室さんにずっと、会いたかったんです」
「…そんなに会いたいと願うほど、僕のこと想ってくれてたんですか?」

こちらが笑い混じりに言ったものだから、向こうも緊張が緩んだように。
そう告げる声色は、どこかからかいを含んだかのようで、そうやって彼に振り回されていたのも懐かしい記憶。だから照れるよりも先に嬉しさが勝った。
ようやく彼に会えた喜びでたがが外れたというのもあるかもしれない。それにしても夢の中とはこうも余裕に、そして大胆になれるものなのか。いつもならきっと慌てふためいて、からかわれたと憤慨するところなのだけど。

「そうですよ」

途端に、それまで揶揄の表情を浮かべていた彼の顔は、固まって。
細めていた目は今はしっかりと驚愕に見開かれ、その蒼の瞳が、まっすぐこちらを見下ろしている。
彼のそんな表情が、珍しくて。つい湧き起こった優越感と悪戯心が、渚の胸を占めていく。


「安室さんが、好きです」


しん、と静まり返った空間には、二人の息遣いの他、何も聞こえることはなく。
瞠目し硬直していた彼が、ようやく身じろいだ。ゆっくりと伸ばされた手が、その指先が、恐々と渚の頬へと触れる。ぎこちない触れ方にもどかしさすら感じて、思わず頬を摺り寄せるようにすれば、今度は大きなその掌で包み込むように触れられて。
その熱に。じわりと胸にまであたたかく熱が伝わってくるようだった。
ふ、と。ゆっくりと笑んだ彼に、つられるように渚も笑みを深くして。

――そこで気付いた熱に。触れる感触に。ようやく違和感を感じ取った。


(――あれ?)


夢の中で熱、などと。感触、などと。
そんなものを感じることが、あるのだろうか。感じるはずが、ない。
渚の中を混乱が占める中、けれどそんな様子など知ってか知らずか、彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
拳二つ分に僅かに余裕がある程度。その距離でぴたりとその動きを止めた彼は、その瞳を切なげに細めて――


「いでででででででで」
「――残念ですが、夢じゃありませんよ」
「痛い痛い痛い!ちょっと頬抓らないでください本気で痛い!」


――思いきり頬を抓られて、堪らず渚は悲鳴をあげていた。

「…人を散々心配させた、罰です」

痛い離せと何度も訴えても、ニコニコと笑みを浮かべたまま一向に離す気配がなかった彼は、しばらくした後にそんな台詞と共にようやく渚を解放した。
最後に限界まで引っ張った後に急に指を離され、ヒリヒリと赤くなったであろう頬を撫でながら渚はキッと彼を睨み上げる。
だがそれくらいで怯えるはずもなく、彼はちっとも表情を崩さない。むしろ笑みさえ深くする始末。この意地の悪さは、渚のよく知る、紙面上ではなくあの世界の安室のものだ。
じわじわと、頬の痛みを感じる。夢では、ないと。安室の告げた言葉が、だんだん現実味を帯びてきて。


(…夢じゃ、なかった?)


だとしたら、先ほど自分が告げた、あの言葉は。

さぁっと顔が青くなる。夢だと思ったから、大胆に告げたのに。もし夢じゃなかったら。現実だったのなら。願ったあの世界に、また来てしまったのだとしたら。
目の前の安室の存在が、現実なら。
今更、この真っ白いと思った空間が病室だったことに気がついた。なんとなくぼんやりと霞んでいた景色は、もうすっかりクリアになっている。安室の姿も、はっきりとこの目に焼きついていた。

「…あの、さっきの、聞かなかったことにしてくれません…?」
「生憎、仕事柄耳はいいもので」
「…今すぐ忘れてくれません?」
「生憎記憶力もいい方でして」
「(ですよね!)」

思わず頭を抱えたくなるが、うまく動かない腕ではそれすらも叶わず。
仕方なく布団の中に身を隠すように潜り込もうとするが、伸びてきた安室の手がそれを封じた。腕を引かれ、ゆっくりと身を起こされて、気付いたときにはそのまま彼の腕の中に閉じ込められていた。
安室の胸に、頭を押し付けられる。彼の安堵の息が、すぐ耳元で聞こえるようだった。
いつかの時のように、抵抗も許さないような強い抱きしめ方ではない。むしろ渚の背に回されたその手は弱々しく、微かに震えていた。
だというのに、むしろそれは渚の心臓を強く締め付けるかのように苦しく、切ない。


「あ、むろ、さん」
「――また、失くしたかと思った」


掠れた声が、また渚の耳に届き。
彼の顔を見上げようとしたが、動けなかった。拘束は緩いはずなのに、その苦しそうな声色が渚に動くことを許さない。

「…覚えていますか?僕と別れた後…あなたは襲われて大怪我を負ったんですよ」
「…はい。覚えて、ます」
「ベッドに横たわるあなたを見て、血の気を失い意識の戻らないあなたを前にして。…あの晩ちゃんと送り届ければ良かったと、何度後悔したことか…」
「…すみま、せん」

思わずポツリと謝罪の言葉を口にすれば、縋る力が少し強くなった気がする。

「どうして、あなたが謝るんですか…」
「…安室さんに、心配かけたみたいなので」
「本当ですよ。何日も目が覚めなくて、どれだけ心臓が止まりそうになったか」
「…何、日?」

覚えのある表現に、眉が寄った。
向こうに戻ったときも、何日も意識が戻らなかったと言われた。だからこの世界での出来事は全部夢だったのだろうと諦めがついたのに、こちらでも同じように、何日しか経っていなかったというのか。
だとするとあの世界に戻っていたのは、こちらで意識を失っている間に見た夢だったとでもいうのか。
どちらが夢で、どちらが現実なのか。はっきりとは分からない。
生まれ育ったあの世界が夢のはずがない。けれど、こっちが夢だとも、今はやっぱり思いたくなかった。

(だったらどっちも現実で、いいんじゃないかな)

安室の腕に抱かれてるこの世界も、全部、現実で。
だってこの狂おしいまでの感情が。彼の存在が。夢だとは思いたくなかったから。


「(それで、いい)」
「…何を考えてるんです?」


くすくすと、無意識の内に笑いを零していたらしい。怪訝そうに安室が声をかけてくるが、それにもやはり声に笑いを含んだまま、答えて。

「すみません。幸せだなぁって、思ってただけです」
「…あなたは本当に、ずるい人ですね」
「え、なんですか突然。心外なんですけど」
「人には『誰よりも幸せになるべき』などと言っておいて、その幸せを僕から奪おうとした挙句、自分ばっかり幸せだなんて言うんですから」

まるで責められるように言われて、ますます渚の眉がひそめられる。
安室を心配させたことが、彼から幸せを奪う――というのは、随分自分に都合のいい解釈だとは思うが。それ以上に前半の発言が気になって仕方ない。
そんなことを言った覚えはないと言えば、「あなたは覚えてないかもしれませんが」と付け足された。…そんなことを、以前自分は告げたのだろうか?


「僕の幸せには、あなたの存在が必要なんですから」
「へ…」
「だからもうどこにも行かないでください。あなたがいなくなったら、僕は幸せになんてなれませんよ」


未だ抱きしめられたままで、安室の表情を窺い知ることはできない。けれどその声色は切なげで、すとんと渚の胸に落ちるように響いてきたものだから。
いつものようなからかいでも冗談でも、嘘でもなく。


「――そ、んなこと言われたら…勘違い、しそうになる…」
「どうぞ、してください」


ずるいのは、はたしてどちらなのか。

真っ白だった病室は、いつの間にか窓の外から差し込む光で橙に染まっていた。伸びた二人の影が壁に映り、まるで一つに溶け込むように繋がっている。
けれどそれは影、だけ。実際の二人の距離も同じくらい近いが、その間には、目には映らないほんの少しの壁が聳え立っている。
それを壊してほしいのに。壊してくれないのは、安室の方ではないのか。

「…安室さんこそ、ずるいです」
「どうして?」
「だってそんな期待を持たせるようなこと言って―― 一番肝心なこと、言ってくれないじゃないですか」
「…それは最初からずっと、言ってるつもりでしたが?」
「付き合ってくれ、とは言われましたけど。…でも肝心の安室さんの気持ち、聞いたことないです」

第一付き合ってほしいというのも、元々は近づくための口実であったわけだし、その他にも好意を示すような甘い言葉は、散々言われたけれど。
その想いを示す、たった二文字の言葉を。安室はこれまで一度たりとも口にしたことはない。

うまく動かない体ながらもなんとか身動ぎして、その緩い拘束からようやく渚は抜け出した。とはいえそれは彼から離れるためではなく、真正面からその目を見据えるため。
じっとこちらを見下ろすその蒼の瞳は何を考えているのか。けれどそこから、目を逸らさない。逸らすわけにはいかない。
一度目は拒絶を。そして二度目は受け入れられた。三度目は、どういう結果になるのか。

「…私は、言いました…よ!」

安室のことが、好きだと。
夢だと思っていた中ではあったけど。勢いに任せてではあったが。それでも確かに、胸に秘めたものを告げた。

壁に映った影は、いつの間にか離れていた。それはしばらくの間、じっと動かず変化はないまま。
けれどようやく動き、もう一つの影に向かって距離を縮めていく。影は再び繋がったかに思えたが、実際には直前で動きを止め、二人の間にはほんの僅かな隙間だけが残されている。


「渚さん」


目の前に安室の顔。その蒼の瞳に映るのは自分の姿だけ。
彼が言の葉を紡ぐ度、その吐息を渚の唇に感じるが、決して触れることはなく。

「…確かに僕はあなたの言う通り、嘘ばかり吐いてる人間です。だからこそ本当に大切なことに関しては、嘘をつきたくない」

動けば、触れられるのだろうか。動けば、逃れられるのだろうか。けれど渚は僅かも動くことはできず、ただ安室の言葉を逃すまいと必死だった。

「偽りの自分で想い告げても、それは全部嘘にしかならないでしょうから、今は何も言えませんし、言うつもりもありません。けれど全てが片付いた時…安室透ではない、本当の自分に戻った時。その時こそ、本当の気持ちを伝えますから」


蒼の瞳がゆっくりと細められる。
けれど中にはらむはいつものからかいの色、ではなく。ただ真摯な光を宿していて。
瞳だけは嘘を吐かず、彼の本心を雄弁に物語っているようだ。
今は決して口にできぬ、その想いを。



「その時まで、ちゃんと僕に捕らわれていてくださいね?」



――返答はYesしか認めるつもり、ありませんが。

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